相喰無間双黒竜

@Pz5

1

A

 また、女を連れ込んでいる——


 重く、甘ったるい臭いがドアの隙間からも漏れて来る。


 止めろ――

 僕の気分を乱すな――

 今は、この一瞬一瞬が大事なんだ——


 軽く、胸焼けがしそうな嬌声がヘッドフォンの隙間からも漏れて来る。


 止めろ――

 曲の気分を乱すな――

 今は、この一音一音が大事なんだ――


 酷く、規則的に軋む音がエレクトロアコースティックの間隙から漏れて来る。


 止めろ――

 絵の気分を乱すな――

 今は、この一瞬一瞬が大事なんだ――


 酷く、軽く、重い「奴」の行動が僕の研ぎすました集中力の隙間から漏れて来る。


 止めろ――

 止めろ――

 止めろ――


「止めろ!!!」


 思わず、「奴」への腹の底からの咆哮が僕の感情の隙間から氾濫して溢れ出て来る。

 音は、止まった。

 僕の筆も止まった。

 狙った場所の2ミリ右に、今パレットから取ったばかりの絵具が乗ってしまう。


 ああ、もうダメだ――

 今日はもうダメだ――


 暫く脱力して自分の失敗を眺める。

 前頭葉がエンジンを切った直後のターボタービンの様に血を廻らしているのを感じる。

 脳全体が冷却液を欲しているかの様だ。

 座っているのに立ち眩みをおこす。

 兎の穴ラビットホールに落ちて薬を飲んだかの様に世界が揺れている。


 取り敢えず、絵筆を筆洗器に突っ込み、キッチンペーパーで拭う。


 石油の香り。


 当該箇所をナイフで削る。

 ナイフを拭う。

 再度ナイフで削る。

 ナイフを拭う。

 隙間に入った分以外は削り取れた。


 油彩なのだから、大した事無いはずだ――


 大した事ないが、気に入らない。

 恐らく、自分以外誰も気にも留めないだろうが、気に入らない。

 誰が気に留めなくても、何より自分自身がこの状態を気に入らない。


 乾性油が酸化重合結合する香り。


 暫くこの香りの中で瞑想する。

 自分が描き損じた「曼荼羅」を鏡にして――


 そうだ――

 この「描き損じ」こそ、僕に相応しいのだ――

 僕の様な「出来損じ」には、この「鏡」こそが相応しいのだ――


 眼鏡を直すと、そのまま髪を搔き上げる。

 眼鏡の位置が直った処で、視界が晴れる訳でもなかった。


 取り敢えず――

 筆を洗って休憩するか――


 左手の指の間に挟まったコリンスキーやラクーンの筆を纏めると、何とか立ち上がる。

 脳と目の周りが熱い。


 人造大理石のパレットの上の絵具や画溶液は――

 取り敢えずそのままでいいや――


 ブラックオイルを使ったとはいえ、後6時間は乾かないだろう――

 あ、いや、ダンマル、入れ過ぎたかな――?

 いや、鉛白は普通の電気式のだし、大丈夫だろう――

 最悪、有機溶剤を使えばいいや――


 ああ――

 急に空腹感が――

 糖分を摂らないと――


 立ったまま立ち眩みを起こし続けながら、纏まらない思考を纏めようとする。


 取り敢えず、休憩と夜食だ――


 何とか、部屋のドアを開ける。

 そこは、もう明るかった。


「よお、コーヒー、要る?」


 陽の当たる部屋に黒い人影。

 いや、黒いのは乱暴に纏めた長い髪だけで、後はやたらに青白く、細面の長身な男。

 顔の作りは細面の武士の様なのに、目だけははっきりとした二重に伏せがちの長い睫毛がまるで歌舞妓の隈取りの様になっている。

 ライブ帰りなのか、ボタンを全て外し、はだけた白いイブニングシャツの隙間からは、タトゥが見え隠れする首や鎖骨周りに大量の内出血の跡が見える。


「おい。なんだよ。返事くらいしろよ」


 ソイツが今立っている流し台で洗おうと思って居た筆を掴んだまま、僕は呆然とソイツの瞳を見る。

 セルフレームに装飾の掘りが入った金属のツルの眼鏡がその瞳を隠す。


「や、邪魔したのは悪かったけど、そんなに怒ることないだろ?」


 纏め切れていない、黒い、長い直毛と一緒に耳に着けた幾つものピアスを揺らしながら、ソイツは僕に話し掛けて来る。


「別に、怒ってないよ……」


 僕は、何とか僕の状況を声に出す。

 疲れと眠気が一気に来る。


「いや……怒ってるだろ……おでこに絵具ついてるし……」


 何だか、説明も面倒になってくる。

 頭に靄がかかり、目の奥が引きつる様に痛み始める。


「ごめん。疲れてるだけだから……」

 なんとか、それだけひねり出す。

 少し、頸椎の後ろを揉む。


「あ、珈琲を淹れてるなら、白湯だけ欲しいな……少しだけ、砂糖を入れて……」

 糖分の欲しさが勝った。


「ああ、それなら」

 ソイツは笑顔で僕のワガママを受け入れると、マグカップに砂糖を数杯、山盛りで入れてからお湯を注ぎ、暫くティースプーンでかき混ぜた後、僕に差出して来た。

 筆を流しの上に置き、マグカップを受け取る。

 ソイツの趣味とは違う香水が鼻孔を刺激する。

 タトゥの入った手首の付近には噛み跡があった。


 ベーシストの癖に右手親指の根元を噛ませたのか――


「有難う」

 礼を云い、マグカップの熱を顔に伝える。

 湯気が瞼越しの眼球に染みる。

 甘い白湯を飲みながら、ソイツを睨む。


「な……何だよ……?」

 ソイツはたじろぐ。

「手は、商売道具だろ。お互い」

 僕の言葉に、ソイツは自分の手を見る。

「ああ、これか?」

 僕は、そのまま睨み続ける。

「これなら大丈夫だよ。『甘噛み』ってやつだ。今夜の練習にも影響しねぇよ」


 睨み続ける。

 糖分が脳に染みる。


「や……それに、今日……あ、昨日か、昨日ライブがあったばっかだから、今夜の練習も集まり悪りぃだろうし、さ……」

 ソイツはわざとらしく頭をかきながら、何処でも無い処を見て笑いながら言葉を並べる。


 睨み続ける。

 実際には、眠くて他の表情ができないだけだが――


「あ!その筆、洗おうか?この前やったの、何となくおぼえてるし」

 ソイツは流し台の上の僕の筆を手に取る。

「いや!大丈夫!」

 思わず語気が強くなる。

「え?」

「この前手伝ってもらったのは豚毛のやつだからいいけど、今回のは軟毛のデリケートなやつだから、大丈夫。自分でやるよ」

 一気に言葉を浴びせかけてしまう。


 視界が歪む。

 ああ、早く洗ってしまわないと――


 ソイツを押しのける形で洗面台の処まで行くと、液体石鹸を少量筆の根元付近に付けて、軽く水で湿らせた後、反対側の掌で軽く泡立てる様に筆を動かし、取り切れなかった絵具を洗い出す。

 掌に当たる筆や水の感覚で多少眠気を飛ばす。

 全ての筆を大まかに洗い終えると、キッチンペーパーで軽く水気を除く。


 よし、これで大丈夫だ――


 安心したら、急に眠気が強くなってきた。

 ふと顔を上げると、そこにある鏡には黒くうねった髪に囲まれた額にプルシャンブルーを付けた、青白い眼鏡の無精髭が死んだ目をしてこちらを視ていた。

 筆と眼鏡をいつもの処ではないが「安全」な場所に置くと、そのまま共用リビングのソファに体を横たえる。


「おい。寝るなら自分の部屋行けよ」


 ソイツの声が聞こえる。

 瞼越しでも旭が目に刺さる。


「ごめん。今、僕の部屋、無理……」

 腕で顔を覆って陽光を遮る。

 何とかそれだけ口にする。


 ドアの開く音。


「ねぇ、コーヒーまだ?」

 女性の声。

 顔をそちらに向ける。


「え?誰?その人?」

 下着だけの姿に厚手のタオル地のガウンの様な物を羽織っている。

 腕の隙間から見えただけだが、ヴァイオレット系のインナーカラーを入れた青味の黒髪(たぶんあれも染料系の黒だろう)の女性。

 ガウンの隙間からタトゥも見えた気もした。


「はじめまして……」

 僕は声だけ絞り出す。

「あ……えっと……はじめまして……?」

 僕の視線を了解したのか、彼女はだけていたガウンの前を閉じる。


 困惑したその女性はアイツの方を向いた気がする。


「ああ、ぁっと、ソイツはここをシェアしてる。画家の朧瓏司おぼろろうし

「美術家だ」

 僕はソイツの不正確な紹介に訂正を加える。


「いや、お前がやってるのは結局絵だろ?」


 そんな認識だから不正確なんだよ――


「前も話しただろ?『絵画』も『アート』もとっくに死んでるんだって」

「でも、ピストルズの後だって、結局『ロック』は『ロック』だぜ?」

 ヴィヴィアン・ウェストウッドとマルコム・マクラーレンが絡んだピストルズを出してくる。

 ポップアートとポップミュージックの結節点。

 良い処を突いて来る。


 その話を、僕の悩みを何回云わせる気だ――


「それは宗教改革が繰返し起るのと同じで、反骨や反抗の精神性が『ロック』なのと同じ様に『アート』もまたその行動に内在するんだ、僕は『絵画』そのものを目的としていない、と言う点で『画家』ではなく『芸術家』、それもより『美』を指向した『美術家』なんだよ」

 僕は目を腕で覆たまま、一息に話し切る。


「とりあえず、面白い人なんだね……」

 女性の困惑した声。

「そう!面白いヤツなんだよ!」

 ソイツ、出浦洪音でうらこおんの嬉しそうな声。

 その声を聞きながら、僕の意識は段々遠のいて行った。

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