女の園と書いて猛獣の檻と読む

 初夏が過ぎ去り、花の都にも本格的な夏がやってきた。灼熱の太陽は容赦なく地上を照らし、うだるような暑さに誰も彼もがうんざりしている。この辺は人間も妖も変わらない。

 この時期になると貴重な氷菓を提供する氷楽庵は満員御礼、給仕の冷良は客の冗談に付き合う間もなく駆け回り、厨房の小雪は全く表に顔を出せないような時間が夕方頃まで続いていた。

 とはいえ、冷良にとってはそれも今や昔の話。地上高く離れた奉神殿では夏になってもやることに大した変化はない。

 そうして尊き女神に仕える巫女たちは、今日も今日とて清く正しく静粛に日々の仕事をこなして――


「暑い……」

「もう限界です……」

「今なら姫様も幹奈様も見ていませんし」


 ――という訳にもいかないようだった。

 昼食の仕込みを終えた同僚たちが、普段はしっかりと着こなしている巫女服を緩め、胸元やすそを振って内側にこもった熱を少しでも逃がしている。

 結局のところ、俗世から離れた奉神殿であっても、暑いものは暑いのであった。

 ちなみに、風紀に厳しい巫女頭の幹奈に見つかれば、当然説教ものである。

 とはいえ、額から滝のように流れる汗をかんがみれば、それも仕方のないこと。巫女とて人間なのだ。

 さて、本来なら(幹奈や咲耶姫にさえ見つからなければ)特にどうということはない行為であるが、現在の奉神殿においては非常に困る点が一つ。

 女装して巫女たちの中に紛れている、雪女の半妖こと冷良の目のやり場だった。

 普段なら白と赤が大部分を占める同僚たちの姿が、今は肌色の割合増し増し状態。同性しかいないと思っているものだから、胸元や太ももの際どい所まで見えそうになってもお構いなしである。

 ――そっちが構わなくてもこっちが構うんですよ!

 大声で叫びたいところだが、それは自身を破滅へ追いやる禁じ手である。

 咲耶姫の裸を拝見し、あまつさえ幹奈と一緒に入浴すらしておいて何を今更? それはそれ、これはこれ。咲耶姫や幹奈の裸と他人の肌色は別物である! そもそも幹奈との入浴だって、冷良は未だ耐性を身に着けていないのだ。

 さり気なく顔を逸らしながら凌いでいると、時間になって他の巫女たちも食堂へと集まってくる。彼女らの様相も、一緒に料理をしていた巫女と似たり寄ったりだった。


「お腹は空きましたけど、それ以上に暑いです~」

「今日の献立は何ですか~?」

「そうめんです。冷良さんのお蔭でしっかり冷えていますよ」


 わーっと歓声が上がる。猛暑が続くここ数日間において、一日の終わりに入る風呂と並び、冷良が提供する冷たい食事は彼女たちの癒しとなっているのだった。

 全員が席に着き、食事を始める。殆どの巫女は服を大きくはだけて少しでも涼もうとした跡があるが、今は直接的な冷気に夢中で、皆一心不乱に麺をすすっている。

 そうしてそうめんの半分ほどを平らげて一息ついたところで雑談が始まる。

 とはいえ、当然ながらここにいるのは女子のみであり、会話の乗りが女子特有というか、どうにも男である冷良は自然と話の波に乗っていくのが難しい。

 巫女として馴染む為に努力せねばと思いつつも、基本は黙って聞き流し、たまに無難な相槌あいづちを打つだけというのが、冷良の現状である。


「こうも暑くては、汗で化粧がすぐに崩れてしまいます」

「へー、大変なんですねー」


 こういった具合に。

 だが、半ば無意識に打った相槌が静寂をもたらすと、流石に聞き流してもいられなかった。

 周囲を見渡すと、不思議なものを見るような視線が冷良に集まっている。


「えーと……何か?」

「冷良さん、随分と他人事のように仰るんですね?」


 ぎくり。


「もしかして、化粧をしていないのですか?」

「い、いえ、ちゃんとしてますよ?」


 嘘ではない。化粧は女のたしなみ、ちゃんと毎日やるべしと幹奈にみっちり叩き込まれた。ただ、最近は汗で流れるのを嫌って同僚が薄めにしているので、自分も乗っかって手間を(極限まで)減らしているだけで。

 懸念しているのは別のこと――


「うひゃあ!?」

「わ、冷良さんの身体、凄く冷たいです!」


 首元がいきなり熱気に包まれたと思ったら、同僚の一人が背後から冷良の首に触れていた。

 瞬間、他の同僚たちの目が怪しい光を放った――気がする。


「一人だけ涼しい顔をしていると思ったら……」

「この猛暑で汗一つかいていない時点で疑問を持つべきでした」

「私たちは仲間、一人だけ楽な思いをしようなんて、慈悲深い姫様がお許しになる筈ありませんよね?」

「あの、皆さん? そうめんでも食べて一旦落ち着きましょう? ほら、氷も追加しましたよ」

「――そうめんよりも涼を取れるものが目の前にあるのに?」


 誰が呟いたか知らないが、この台詞が同僚たちの心に火を付けた。

 瞬間、花も恥じらう乙女たちは荒ぶる猛獣となり、哀れな餌に襲い掛かる。


「こ、こういうのは淑女としてどうかとうひゃ!? ふ、服の中は本当に不味いですって!」

「女同士なのだから少しくらいいいではありませんか」

「それにしても、冷良さんって本当に胸が……いえ、その方が好みだという殿方もいらっしゃるそうですし、元気を出してくださいな」


 元気を出すというか、このままだと元気が集まってしまうというか。

 それにしても、直接胸に触れられても気付かないとは、一体全体どういう了見か。そこにあるのはとてつもなく小さな乳房ではなく、れっきとした胸板だというのに!

 何にせよ、冷良がお願いしても同僚たちが引いてくれる様子はない。今はまだ男だとばれていないが、このまま身体的な接触が続くと非常に危ない。特に下半身だけは死守せねば。

 というより、冷良の精神がもたない。

 誰が言ったか、回りに大勢の女を侍らせてちやほやされることは全ての男が抱く夢だという。当時は成程と納得していたが、いざ現実で味わってみれば破滅と煩悩ぼんのうの綱渡り、夢は夢のままがいいのだと悟った。

 冷良は周囲を見渡し、救いの手を差し伸べてくれそうな相手を見つけた。

 猛暑が続く中、他の同僚が気崩している巫女服をしっかりと着こなし、この乱痴気らんちき騒ぎにも加わっていない、真面目で頼れる友人。


「紅さん! お助けを!」

「……はっ、そ、その通りですわね。皆さん、冷良さんが困っています、その辺で――」

「紅さんも冷良さんに抱き着いてみてはどうですか? 凄く冷たくて気持ちいいですよ」

「だ、抱き着く……気持ちいい……」


 ごくりと、紅は唾を飲み込んだ。甘いささやきが真面目な彼女さえ惑わしている! 頑張れ理性! 負けるな良識! 押し返せ淑女の節度!


「あ、あの、少しだけ……」


 砦の全てが陥落した!

 紅は冷良の傍に移動すると、幾分か控えめに身を寄せてきた。他の同僚がほぼ襲い掛かっているのに対し、彼女はまさしく抱き着いてきた感じだ。妙なところに手を伸ばす様子もない。


「すー……すー……」


 だが、匂いを嗅いでいる様子はあった。


「……紅さん?」

「はっ!? い、いいえ、違いますの! ふと、冷良さんの身体を嗅いだらどんな匂いがするのかと思っていたら、気が付けば身体が勝手に……!」


 困った、弁解を聞いてもいまいち要領を得ない。台詞を上辺通りに受け取れば変態そのものだが、あの生真面目な紅がそんなよこしまなことを考える筈がない。恐らくは暑さといきなりの騒ぎで混乱しているのだろう。


「み、皆さん、私が言うのも何ですが流石にそろそろ終わりにしましょう。こんなに騒いでいては幹奈様に――」

「――私が、何ですか?」


 我に返った紅が先程より控えめに注意しようとするが、その前に聞こえた声で食堂が凍り付いた。空気的な意味で。

 そろりそろりと同僚たちの視線が食堂の入口に集まる。どうか空耳でありますようにと切に願いながら。

 けれど悲しいかな、その声は冷良にも聞こえていた。よって空耳ではない。

 猛暑という現実から逃避していた同僚たちに立ち塞がるのは、食堂の入口で仁王立ちする幹奈という、逃れようのない現実だった。背筋は凍っているだろうから丁度良いかもしれない。

 その後、被害者の冷良と丁度皆をたしなめようとしていた紅を除いた被疑者一同に、幹奈から激しい雷が落とされたのは言うまでもない。

 そうこうしている間に昼食の時間も終わってしまい、まだ食べ終わっていない同僚たちは泣く泣く午後の修練へと追いやられていく。

 特に叱責されなかった紅がちゃっかりそうめんを完食して出ていき、二人きりになったところで冷良はようやく肩の力を抜いて大きなため息を吐いた。


「助かりました幹奈様、あのままだとどうなっていたか……」

「仮にも私の弟子です、暴力は振るえないにせよ、相手の動きを見切って受け流すくらいはやって欲しいものです」


 単なる上司だけでなく、剣の師匠でもある幹奈はどんな時も厳しい。

 いや、厳しいというより、冷たい視線が突き刺さっているような?


「あの、幹奈様?」

「何か?」

「もしかして怒ってます?」

「いいえ、被害者のあなたに怒る道理はありません」


 確かに、冷良は叱責の対象から外されていた。

 だが、幹奈の視線は間違いなく冷たい。

 何故かこの場から離れるのも憚られて、所在なく立ち尽くしていると、幹奈は小さく呟いた。


「男の夢」

「――っ」

「世間では、ああいうのをそう呼ぶそうですね」


 誰だ、世間にまでそんなくだらない夢を浸透させた馬鹿は。


「私が冷良の性別を隠すのに苦心している一方、当の本人は男の夢とやらを満喫……いいご身分ですね? 夢を叶えた気分はいかがですか?」

「いや、普通に大変だったんですが……」

「助平」


 取り付く島もなかった。冷たい軽蔑の台詞が胸を貫――こうとしたところで、冷良はふと気付いた。

 実のところ、冷良の秘密を知らない同僚の巫女たちはともかく、秘密を知っている幹奈や咲耶姫でさえ、最近は冷良が女であると錯覚しているような言動が見え隠れする。慣れがそうさせているのかもしれないが、男としての尊厳が削られていくようで地味にこたえる。

 だが、助平は男に対してのみ使う単語だ。

 つまり――


「もしかして僕、男としては褒められたんじゃ?」

「さっさと修練へ向かいなさい、馬鹿者」


 助平から馬鹿に変えられた。格上げなのが格下げなのかは分からない。

 結局肩を落とすことになった冷良はとぼとぼ仕事に戻ろうとする。


「ああ、一つ忘れていました。修練の前に頼んでおきたいことがあります」

「何ですか?」

「お使いです。氷楽庵に、明日の氷菓は二人分用意して欲しいと伝えてください。それと細やかなものが色々と。指南役には私が話を通しておきますので」

「はあ、別にそれくらいならいいですけど……もしかして来客ですか?」


 出入りの業者ではなく、もてなす必要のある来客というのはかなり珍しいらしい。聞いたところによると一年に一度あるかないか、先輩の中にもまだ経験したことがない者がいるのだという。

 といった理由から疑問の割合が大きい冷良の質問に、幹奈は何とも形容し難い表情を浮かべた。


「少なくとも、私たち巫女にとっては姫様の来客です。もてなしの準備は抜かりなく行わねばなりません。役に立つかは……分かりませんが」

「……?」


 来客で間違いはない、もてなす準備もする、けれど役に立つか分からないとは如何これいかに?


「とにかく、明日になれば嫌でも分かります。氷楽庵への使いその他諸々、頼みましたよ」

「はーい、分かりました」


 疑問はどうあれ、上司がやれと言うならやるのが部下の務めである。

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