帰ってきた厄災と殺し文句

朝霧

前編

 繋いだ小さく細い手は本当に簡単に折れてしまいそうだった。

 足元はふらついていて、もし転びでもしたら全身が硝子細工みたいに粉々に砕けてしまうんじゃないか、とも思った。

「荷物よこせ」

「へいき」

「危なっかしいんだよ、いいからよこせ」

「へいき」

 埒が明かないので少しの間手を解いて、鞄をひったくった。

 鞄の紐を右腕に引っ掛けて、もう一度手を繋ぎ直す。

 不満げな顔で見上げられたけど、無視する。

「それで、お前んちどっち」

「こっち。近いよ、徒歩五分」

 ふらりと足を進めたあいつの横について、ゆっくりと歩く。

 いっそ抱えたほうが早いとは思ったけど、抱えたら寝そうだし俺はこいつの家がどこにあるのか知らないから。


 少し歩いて、あいつの家に着いた。

 少しだけ古ぼけた印象のあるアパートだった、その二階の、角の部屋があいつの部屋だった。

 中に入ると意外と広い。

「随分いい部屋に住んでるんだな」

「給料はいいから。もっと狭いほうが楽なんだが、職場から近くてある程度防犯がしっかりしてそうなのここくらいしかなかったんだ」

「ふーん」

 そんな話をしながら居間に。

「鞄この辺で……おい!?」

 十塚がその場に崩れ落ちるように座り込んだ。

「ん? ……ああ、悪い……ねむくて……ねる、か」

 それで譫言のようにそう言いながら目を閉じようとしている。

「おい、まだ寝るな。風邪ひかれたら困る。布団は? せめて布団で寝ろ」

「あっち」

 指差された方向にドアが、開くとそこはベッドと最低限の家具だけが並んだ殺風景な部屋だった。

 すでに意識が飛びかけている十塚の身体を抱え上げる。

 軽い、人間の重さじゃない。

 こんなふうになっても、まだ俺を殺す事を諦めなかったのか。

 愉悦を感じた、口元がにやけそうになるが、この軽さはやはり許容できない。

 部屋まで運んで、ベッドに十塚を寝かせる。

 毛布も掛けてやると、もう寝ていた。

「……本当に、仕方のない奴」

 毛布の下、動かないが暖かい手のひらを、一つだけになってしまった手で握る。

 この後、どうしようか。

 殺されにきたのだから殺してもらわなければ困るが、果たして目を覚ましたこいつにそれができる体力があるだろうか。

 というかこれでも俺は一応指名手配犯だから、面倒なところに見つかると本当に面倒なことになる。

「……まあ、何かあったらその時はその時で、臨機応変に」

 だからしばらくは、このままで。


 どのくらいそうしていただろうか、外の様子から察するに、もう深夜と言っていいような時間になっていることは間違いなさそうだ。

 十塚は朝になるまで目覚めなさそうだし、追っ手の類もなさそうだった。

 痩せこけた手のひらを握っているうちに、目覚めたら何か食わせたほうがいいなとぼんやり思った。

 とはいっても何かあるだろうか、どうもしばらくこの家には帰っていなかったようだし。

 握っていた手のひらを放して立ち上がる。

 冷蔵庫に何かあるかもしれない、そう思って台所へ。

 白色の、どこのご家庭にもありそうな冷蔵庫の冷蔵室を開けてみた。

「…………」

 エナドリと飲料ゼリーだけがずらーっと、びっしり並んでいた。

 スーパーやコンビニのそういうコーナーのようにも見える配置に思わず絶句し、何も言わずに戸を閉めた。

 次にチルド室を引いて開ける。

 ペットボトルのかるかるピースが詰められるだけ詰め込まれていた。

 あいつは馬鹿なのか。

 ここは普通肉とか魚を入れる場所だろうが、何故乳酸飲料かるかるピースを突っ込むんだ。

 そこも閉じて、次は野菜室を開く。

「…………」

 空っぽだった、本当に何も入っていなかった。

 最後に冷凍室を開ける。

 白あなぐまのかき氷と赤字で『激辛!!』と書かれた冷凍のミートスパゲッティが詰められるだけ詰め込まれていた。

 そこも無言で閉じて、俺は思わずその場に崩れ落ちた。


 他にも家探ししてみたけどまともな食料がなかったので、仕方なく鍵を拝借して、十塚の職場に向かう途中に見かけたら二十四時間営業のスーパーマーケットに駆け込んだ。

 一通り食品を買い込んで、アパートに戻る。

 様子を見ると十塚はぐっすり寝こけていた。

 多少音を出しても問題なさそうだが、まだ流石に早いので食材を適当に仕舞い、また十塚の手を握る。


 外が薄ら明るくなった頃に立ち上がり、適当に朝食の準備を。

 出来るだけ消化がいいものの方がいいだろう、粥でも作ろうと思ったが昔好きじゃないと言っていたので、卵雑炊を作ることにした。

 米を炊いている間に出汁を作って、炊けた米を汁の中に入れて、煮込む。

 米が柔らかくなったら溶かした卵を入れて、適当に混ぜて、完成。

 一口味見をしてみた、薄味だけど病み上がりならこのくらいでちょうどいいだろう。

 十塚の様子を見に行くとまだ寝ていた、目覚めそうな気配もない。

 なのでしばらく様子を見る、目のクマがひどい、頬も痩けてる。

 握った手のひらもいつか触れた時のそれと違って全く柔らかくはない。

 病人というよりも死体じみている。

 それでも温かい、ちゃんと生きてる。

 少しだけ、眠くなってきた。


 するりと掴んでいた手のひらがどこかに逃げていった。

 いつの間にか眠り込んでしまっていたらしい、顔を上げるとちょうど身体を起き上がらせた十塚と目があった。

 けれどなんというか、焦点があっていない。

「十塚……?」

 声を掛けても無反応、十塚は何も言わずにベッドから降りて、ふらりとどこかに向かおうとする。

 向かう先は玄関、ふらふらとした危なっかしい歩き方だった。

「おい待て」

 後ろから取り押さえると十塚はそれでも前に進もうとした。

「……はなせ」

「危なっかしいからおとなしくしてて。ってかどこに行く気?」

「けんきゅう、おくれた……だからはやく……はなせ、はやく、おわらせ、ないと……あいつを、ころさない、と」

 ぼそぼそと途切れ途切れに言う声はぼんやりとしていて、目はやっぱりどこにも焦点があっていないし、どう見ても正気じゃない。

 というか多分、寝ぼけてるっぽい。

「ああもう……寝てろ馬鹿」

 軽くて薄っぺらい身体を無理矢理抱え上げて、ベッドの上に座らせる、起きたついでに水を飲ませてみたら少しだけ飲んだ。

 横たわらせたらなんかごちゃごちゃ言っていたけど、毛布を掛けて起き上がれないように腹の辺りを片手で抑えていたら、虚な瞳がさらに虚になり、瞼がゆっくりと閉じていった。

 その後、十塚は一向に目を覚まさなかった。

 昼を過ぎても目を覚ます気配がなかったので、卵雑炊は少しだけ容器に移して冷蔵庫に入れて、残りは自分で食った。

 こんな調子だと、明日も目覚めないかもしれない。

 そんなふうにぼんやりと思う、一体いつになったらこいつと話せるんだろうか。

 というかとりあえずただ寝かせているだけだけど、これで問題ないのだろうか?

 本当は病院にでも連れていった方がいいのかもしれないけど、今の自分じゃどうしようもない。

 明日もこんな調子が続くのであれば、少し考えた方がいいかもしれない。


 夜に少しだけ眠って、朝になったので朝食の準備を。

 また卵雑炊を作る、作り終わったら十塚を起こしてみようと思う。

 それで、昨日のように正気でなさそうだったら、その時は。

 そう思っていたら物音が聞こえてくる。

 起こすまでもなく起きたらしいけど、さてあいつはまだ夢うつつのままなのか、それとも正気を取り戻したのか。

 ドアが開く音が聞こえてきたので、振り返る。

 そこに立っていた彼女の目は自分に焦点があっていて、愕然とした顔からどうも正気であるようだと判断する。

「ああ、起きた? おはよう」

 そう言うと十塚は意味不明なものを見るような顔で自分の頬をグイグイと引っ張り始めた。

「えーっと??????」

 頭上にはてなマークが大量に浮かんでいそうな間抜け面に思わず笑いそうになった。

 けれど笑うよりも先にまず確かめなければならないことがある。

「頭の調子はどう? 昨日はまだ朦朧としてたみたいだけど、そろそろ正気に戻れた?」

 聞いてみたけど答えはない、相変わらず間抜け面でこちらを見上げるだけ。

 どうしたものかと思っていたら、彼女は難しい顔でボソボソと独り言を呟き始めた。

「ワルキューレにこういうの解除する機能付けときゃよかったな……そんな余裕なかったけど……いや、そもそも幻覚系の術を解除する機能付けたところで、精神的なアレで見てる幻覚ってどうにかなるのか……?」

 幻覚、精神的なアレ。

 つまり、こいつはまだ俺の存在を信じていないらしい。

 コンロの火を止め、無言で十塚に歩み寄る。

 頬に手を添える。

 それで、抓り上げた。

 もちろん加減はした、それでもそこそこ痛かったようで十塚が悲鳴をあげる。

「まだ、正気じゃないみたいだね?」

 痛みで涙目になっている十塚の頬をさらに強く抓る。

「地獄からの迎えの次は、幻覚? そろそろいい加減にしてくれないかな?」

「だっておまえ、しんだじゃん……!!」

 かろうじて絞り出したようなその言葉に思わず溜息を吐く。

 というかそもそもなんで、この馬鹿は俺が死んだと思い込んだのだろうか。

 俺の右手はあの時現場に残っていたらしいけど、それ以外は見つからなかった。

 世間では生存は絶望的だと言われていたらしいけど、どうしてこいつはひとかけらも俺が生きていると思わなかったんだろうか?

 これでも一応昔は最優最強の勇者候補とか呼ばれていたし、厄災の中でもかなり凶悪な部類に入ると言われていたのに。

「俺の死体が、いつ見つかったって?」

「は? みぎて……」

「右手以外は?」

 そう問うと十塚は何も答えず俺の目を見つめた。

「右手以外何にも見つかってないのに、なんでこの俺がその程度で死んだと? ねえ本気で死んだって思ってんの? ほら、離してあげるから真面目に考えて答えろよ馬鹿女」

 そう言いながら馬鹿の頬から手を離してやる。

「い、いたかった……いまのはほんとのほんとうに、本気でものすごく痛かった……」

 真っ赤になった頬をさすりながら半泣きでそう訴えられたので無言で睨む

「……お前が生きているという話は一つも、噂一つも流れてこなかった。生きてればいいと思って最初の頃は調べてたけど、全く。ヘイムダルは私が意識不明のうちに隠されたから使えなかったし……だいたい本当に生きていたとして、何故今更ここにいる?」

 ふむ、なるほど一応調べてくれてはいたらしい、その上で俺が死んだと判断したということか。

 ヘイムダルっていうのはこいつが俺を探すために作った例の高性能レンズのことだろう。確かそんな感じの名前だったはずだ。

 ただ、作ってすぐに使おうとしたこいつは失敗して三ヶ月くらい意識不明になったらしいし、どうもかなりまずい代物であったらしいので、隠してくれた奴らには感謝したい。

 正しく使えていればこいつは森で泥水を啜っている俺を見つけられたかもしれないけど、多分そうなる確率は本当に低かったのだろうし。

 十塚は見定めるような目で俺の顔を見上げている、俺はただ事実をそのまま答えることにした。

「あの時攻撃を喰らって右手が千切れてどっか行った上に、なんか滅茶苦茶遠くまですっ飛ばされて、気がついたら人里から遠く離れた森のど真ん中で死にかけてたから」

 そう言いながら、途中で途切れた右腕を見せてやると、十塚は右腕と俺の顔を交互に見る。

「それでも頑張って、泥水を啜って虫を食って、すっごく惨めな思いをしながらやっとお前のところまで帰ってきたのに、地獄から迎えが来ただの夢だの幻覚だの言われた俺の気持ちがお前にわかる?」

 そう言ってやると、十塚は黙り込んでしまった。

 考え込んでいるのは見ればわかったので、答えが出るのを待った。

 しばらくして、彼女はようやくその口を開いた。

「……ほんものなら、証拠を。だってこんなの私に都合が良すぎる……本物ならそれでいい……けど、もし違ったら……そう信じてお前を殺した直後に目が覚めて、全部が夢だったら……流石にそれは、メンタルがぶっ壊れる」

 メンタルがぶっ壊れる、そう思ってくれる程度にあの約束はこいつにとって重いものだったらしい。

 それが少し、かなり嬉しい。

 けれど、どうすればこいつの信用を得られる? どうすれば幻覚でもなんでもない本物だと、認めさせることができるだろうか。

「証拠って何を? お前が知ってることを俺が言ったところで、お前は『私の記憶から作られた幻覚なんだから知ってて当然だろう』ってなるでしょ? 逆にお前が知らないことをいくら語ったところで、意味がない」

「うーん……じゃあ、私が知ってるけど、忘れてそうなこととか……?」

 そんなことを言われても、パッと思いつくような事がない。

 六年くらいは一緒にいたけど、たいした会話もしなかったし、ほとんど似たような事を続けていたから。

 と、思っていたら一つ、悪夢のような記憶が蘇ってきた。

 多分こいつは覚えていない、多分こいつにとってはくだらないことの一つだったはずだから。

 それでも言えば思い出す程度の出来事ではあった……はず。

 けれど、言いたくない。

 自分にとってはかなりアレな記憶なのだ、というかあんな言葉、口にしたくもない。

 それにもしも全く覚えていなかったり、逆によく覚えているエピソードだとしたら、ただ恥をかくだけだ。

 それどころか多分、ドン引きされる。

 それでもそれしか思いつかなかったので、意を決してその言葉の羅列を口にした。

 かなり下品な、下ネタオンパレードのそこそこ長い言葉の羅列。

 しかも女が男にそういう・・・・事を懇願するセリフ風。

「は? なんだって?」

 しかしこの馬鹿は聞き逃したらしく、問い返してきた。

 鬼か悪魔なのだろうか、こいつは。

 それでも仕方がないので意を決して、先ほどよりも大きな声で、はっきりとその言葉を言ってやった。

「は? お前急に何を……?」

 狂人か変態を見るような顔で見上げられた。

 弁明というか、なんであんな言葉の羅列を口にしなければならなかったのか言い訳を始めようとしたところで、十塚が何かを思い出したような顔をした。

「……読んでたでしょう? 昏夏時代のエロ本。まだ中学生のくせに日中堂々図書館で」

 補足するようにそう言うと、十塚は感心するような顔で両手をポンと合わせた。

「あったなあ……そんなこと。うっわ懐かしい……タイトル読み上げたらお前すごい顔してさ……滅茶苦茶説教されたんだよな」

「……あの時は本当に、本当に勘弁してほしかった」

 日中堂々自分の隣でエロ本を読まれていただけでもあれだったのに、その上平然とタイトルを読み上げられた、女が男に媚びるセリフ風の長文タイトルを、しかも繰り返し。

 本当に勘弁してほしかった、あそこが図書館じゃなくて言ってた相手が自分じゃなく別の男だったら、多分こいつは読み上げたタイトル通りの目に合っていたんじゃないだろうかとも思う。

 唯一救いだったのは、昏夏語で読み上げられたタイトルを俺以外の誰も理解できなかったことだろう。

 そんなふうに考えていたら、十塚は平然とした顔でこうのたまった。

「エロ本程度で大袈裟だなって思ってた」

 しばし絶句、はっ倒してやろうと思ったけど、それをやって死なれた困るので、頭を叩く程度に抑えておいた。

「女子中学生が男子中学生の真横でエロ本を堂々と読むな、堂々とタイトルを読み上げるな、お前のそういう無神経で無防備ところは昔から大嫌いだよ、本当に」

 そう言うと、十塚は再び考え込む。

「……他にもなんか必要?」

 思い出そうとすれば似たような事を思い出せそうな気はするけど、今は思いつかない。

 それでもまだ信じられないのならとことん付き合ってやろうとそう思っていたら、十塚は首を横に振った。

 そうして、薄く笑いながらこう言ってきた。

「おかえり、そして久しぶり」

 信じた。

 こいつ、エロ本エピソードで信じやがった……!!

 信じられたのならそれでいいじゃないかとは思うが、よりによって今の話で信じられるのはどうかと思う、という考えがぐるぐる巡って、しばらく何も言えなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る