第17話

見慣れた通りを抜けると、悟の住むマンションが見えた。マンションの向かいの家にある小人の植木鉢。彼の抱える腕の中には常に何かしら咲いていたような気がしたが、今は何も植えてないようだ。

入口の前で部屋番号を押してみるが、出る気配はない。悟は一度寝たらなかなか起きることはない。何度もチャイムを鳴らしているうちに、土曜日の夜だし、いつもよりも深い眠りについているだろうからそっとしてあげるべきかもしれないと迷う。そんな優しい気持ちを抱きつつも諦められず、最後に一度だけ、呼び出してみる。するとざわざわとインターホンから音が聞こえる。起こしてしまったという罪悪感に苛まれたが、悟に会えると思うと嬉しかった。

「誰ですか、迷惑なんですけど」

全く知らない男の声が私の耳に届く。部屋番号を間違えてしまったのだろうか、念のため確認してみると確かに合っている。おかしい、何でだろう。

しばらく続いた私への対する問いかけに、何も言葉を返すことができなかったのは、予想外だったからではない。これが現実だということを認めたくなかった。悟を失ったという事実に向き合いたくなかった。


悟の部屋は誰か知らない人で埋められていたけど、私の胸に空いた穴は埋まる気配すらない。今何をしているのだろう。そういえば海外って言ってたっけ。どんなところに住んで、何を考えてるのだろう。私のことを思い出す瞬間はあるのだろうか。悟の目に私が映ることはもうないのだろうか。悟の顔がだんだん思い出せなくなる。

不安になってフェイスブックを見てみると、彩香によってタグ付けされた悟がいる。はにかんだ微笑みを浮かべた悟はどこか余所行き顔で、私の知る悟とは違う。いや、そもそも私の知る悟ってなんだろう。私は悟の何を知っていたのか。何を思って悟としてきたのか。何で好きだったのか。


恋愛なんて抽象的な気持ちで成り立っている。彼氏や片思いの相手がいるというと、好きな点をよく聞かれるけど、そんなの言葉にすればするほど、どんどん遠ざかっていく気がする。例えば、身体的特徴を言うと、数え切れない人が該当する。「優しい」「頭が良い」「育ちが良い」、これらの言葉は曖昧で人によって定義は異なる。好きな点を言葉で表現することは、世界中の言語を持ってしても、きっと不可能だろう。

だから恋人たちは、気持ちを確かめ合うために同じ時間を過ごそうとする。好きです、付き合ってくださいという言葉は定番だけど、意外と奥が深い。

私たちは確かめた。結果、別れることとなった。何が悪かったんだろう、どうすれば元に戻るんだろうと回答を求めたところで意味はない。私が悟のどこが好きと聞かれたときに上手に答えられないのと同じように、悟だって私のどこが好きじゃないのか上手には答えられない。

誰が運命の人かなんて、明確な答えがない。だからシンデレラの靴なんて存在しない。星の王子様のバラのように、自分さえ納得すれば良い。自分の世界は自分で作るものなのだ。


街灯が心許なさげに道を照らしている。夜は昼よりもはっきりと私の分身を地面に作る。ほわほわとした輪郭のない昼の分身とは全く異なり、存在感があった。きっとずっと傍にいたのに、足元を、現実を受け入れるのが怖くて、私は気付かないふりをしてきた。私は仮想世界と並行して現実世界に、確かに存在していた。もう疲れた、帰りたい。私のいるべき場所へ、すぐにでも。

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