第29話

 「…殿下」

 アーサシュベルト殿下の深いグリーンの瞳がうれしそうに細くなる。

 「やっぱり、エリアーナだ。今日はどうしたの?」

 アーサシュベルト殿下がわたしのすぐそばまで来られた。


 会いたいようで会いたくなかった人が急に目の前に現れた。

 先日のあの芝生の広場で優しく抱きしめてもらったことが思い出され、心拍数が急に上がりだす。

 公務は時々あるけど、このまま平穏にずっと会えなければ、言葉を交わさなければ、恋心なんて忘れていけると思っていたのに、そうは問屋が卸さない。

 耳まで熱を持つのがわかる。強張(こわば)る顔を顔の筋肉総動員させて精一杯の笑顔を作る。


「週末なので本を借りて帰ろうと思いまして…」

 ニコリと一生懸命に取り繕った笑みを浮かべる。

 わたしのそばまで殿下が来られ、その距離の近さと圧に思わずジリジリと一歩一歩そおっと後退し、背中に本棚が迫ってきているのを感じる。


「そうなんだね。うれしい偶然だね。俺は調べ物をしに来たんだ」

「そっ、そ、そうだったんですね」


 あまりにも殿下との距離が近い。

 もう一歩下がろうとして、本棚に背中と踵が当たったので、視線を足元に移した隙に殿下の両腕に囲まれた。

 壁ドンならぬ、本棚ドンだ。

 思わず顔を上げると殿下の顔がすぐそこにあり、花の香りのようなオレンジ色の匂いに包まれた。


「会いたかった。あれから、エリアーナはどうしているか気になっていたんだ。でも、ごめんね。あの時、俺がエリアーナを人前で抱きしめてしまったから、大変なことになったね」

 わたしはゆっくり首を横に振る。

「それはわたしの不注意でした。あの場で殿下の肩をお借りしてしまったのがいけなかったのです」

「そんなことはない。それを許したのは俺だ。俺の肩はエリアーナのものだ。どんな時でもエリアーナのためだけに貸すよ」

 そんな甘い言葉を真顔で言われる。

 

「殿下、ありがとうございます」

 目を伏せてお礼を言うと、殿下が切なげにわたしを見つめている。


「ねぇ…もう、アッシュと呼んでくれないの?」

 咄嗟に視線を外す。

「こ、婚約解消してくれると約束してくださるなら、いまからでも呼びます」

 殿下が小さくため息をつくのがわかった。

「婚約解消はしない。エリアーナはなぜ俺から逃げるの?」

 見つめ合ったまま、しばらく沈黙が続く。


「わ、わたし、もう帰りますね」

 俯(うつむ)いて、横に外れようと顔を背けると殿下の腕に進路を阻まれていたことを思い出す。

「殿下、腕を退けて」

「いやだよ。なぜ、エリアーナは逃げるの」

「そ、それは……」

 なにも答えられない。

 本当のことは言いない。

 悪役令嬢になりたくない。

 それはキャロル嬢がわたしの味方だと言ってくれたいまは、その可能性は低くなった。

 でも、殿下から断罪されて崖から身を投げる可能性は消えた訳ではない。

 もちろん、自身で身を投げるつもりは全くない。

 このまま殿下と接触をせず逃げ切れば、きっとなにも起こらないはず。


 黙っているわたしを殿下はじっと見ている。

 少し寂しそうな色を瞳から窺(うかが)い知れた。

 

「いいよ。エリアーナに嫌われたくないから今日は逃してあげる」

 殿下はわたしから聞き出すことをあきらめたのか少し不機嫌な声だが、わたしはホッとした。




 エリアーナを俺の腕から解放するとあからさまにホッとする様子を見せた。


 キャロル嬢から、セドリック伝いで聞いていることがある。


「わたしが殿下やキャロル嬢と接触すると良くないことが起きる予定なので、おふたりの関係を見守り、距離を置こうと覚悟を決めいたんですよ。」


 エリアーナはキャロル嬢にそう話したらしい。俺やキャロル嬢といるとなにか悪いことが起きると思っているらしく、逃げ切ると言っていたと。


 それは悪役令嬢のことか?

 でも、エリアーナは俺が前世で読んだ小説のことは知る由もないはず。

 エリアーナを不安にさせるものが一体、何なんだろう?

 でも、エリアーナに今の俺が理由を尋ねても話してもらえるはずもない。

 不安に思っていることが俺が関係しているから言えないのか?

 不安を取り除いてやりたいのに。


 「それでは殿下、失礼します」

 ペコリと綺麗なカーテシーをきめて、わたしの前から去ろうとするエリアーナ。

 エリアーナの腕を掴みたい衝動を抑えるがまだ一緒にいたい俺は無理矢理に声をかけて引き留める。


「エリアーナ、セドリックとマリエル嬢に相談していたんだが、エリアーナには執行部でのお手伝いでたくさん世話になったから、近いうちにささやかなお礼の会を4人でしようと思うんだけど来てくれないか?」

「ありがとうございます。でも、お礼の会をしていただくほどのことはしておりません。婚約者として当たり前の事をしたまでですのでお気遣いなく」


 そう言うと、エリアーナは一刻でもここから立ち去りたいと思っていたのか、パタパタと急ぎ足で行ってしまった。



 「…………………。セドリック、どう思う?聞いていたんだろう」

 「バレてたか」

 隣の本棚からセドリックが顔を出す。


「本当に婚約解消されかかっているんだ」

 感心したような顔をセドリックがする。

「そこじゃないよ。エリアーナはなにか思い悩んでいるのか、なにかを隠しているだろう」

「俺にはアーサからとにかく逃げたいという気持ちが伝わってきたけど」

 人の気も知らないでうれしそうにニヤニヤしている。

「そうじゃなくて」

「なにかあるね。さっさとアーサを頼ればいいのに」

「それを出来なくしたのは過去の俺の過ちだ」

「わかっているんだったら、がんばりな」

 セドリックにポンと肩を叩かれた。

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