07 弟

 時は過ぎ。冬の寒さがやわらぎ、小鳥たちの囀りが戻りつつある今日。この世界に生まれて十度目の春を迎えようとしていた。

 ルチナ様は、母君に連れられて街へと出てしまった。「ずっと一緒なんて疲れちゃうわ」というお言葉があって、今のわたしはお留守番だ。

 二年前の夏、ディートリヒ公に厳しいお叱りを受けたあの日以来、ルチナ様は少しだけ変わってしまった。明るくて、わがまなな人柄こそそのままだけど、幼い女の子らしく遊ぶ機会が減ってしまった。その代わりにやることといえば、勉強だ。教養を身に着けるための勉強というのもあるけど、誰かの“お嫁さん”になるための勉強まで身に叩き込まれている。その様子を後ろから見守り、ある時には一緒になって学ぶのが彼女の“天使”であるわたしの役目だった。

 この世界では、年齢は役目から逃げる理由にはならないみたいだった。生まれた瞬間に役目が決められて、それを全うするために時間を費やさなければならない。

 かつての自分がルチナ様と同じ歳のころ、たしかに両親の気を引きたくて無駄な努力を重ねたこともあったけど、多くの時間を姉に連れまわされて過ごしていたと思う。ルチナ様にも二人の兄君がいるけれど、普段のクルス様は全寮制の学校で暮らしているし、もう一人の方は姿を見かけたこともない。連れ出して遊んでくれるような人なんて、どこにも居なかった。自分がそうあれたらよかったのに、そうはなれなかった。笑顔を守りたいって思うだけで、それらしい行動なんて一つもできやしなかった。


 自分の不甲斐なさにため息がこぼれる。今やってることだって、 特にやるべきこともないので玄関の周りを掃除する素振りを見せるだけ。今の自分は「レイラ」と呼ばれているけれど、所詮中身は「鈴木玲」なんだ。ルチナ様のお世話をすることにはさすがに慣れてきたけれど、それ以外に関してはここでも落ちこぼれだ。

 となると、気になることがある。もし、このまま僕がレイラとして乙女ゲームの舞台となっていた時代を生きることになったとして、レイラという存在の特性はどうなってしまうんだろうって。レイラが落ちこぼれだなんて聞いたこともないけど……。いや、そもそも肉体的にはレイラだけど、精神的には鈴木玲なんだから“ヒロイン”になんてなり得ないし……。

 色々考えて頭痛の気配を感じていると、箒の柄を持っていた手に、温かい何かが触れた。

 

「レイラ、浮かない顔してる」

「ル……」


 白い紙に青い瞳。ごきょうだいのなかでも異質で神秘的な見た目をした少年。ルカ=ディートリヒ。

 この子は、わたしが最も苦手とする人だった。だって関わりすぎると、ルチナ様がわたしを焼くイベントが発生するとかいう魔の男だから。ルチナ様にそんな罪を犯させたくないから、できる限り避けて生きている。


「またお姉さまのことで悩んでいたの?」

「いえ……。あの、それより、どうしてここに? 付き人は……」


 そう言ったところで気付いた。ルカ様の付き人は何故かずっと遠くからこちらを見守っている。なんで?


「ルカはレイラと話したかったんだ。だからじゃまな人には遠くで見ているよう言ったの」

「はあ……」

「レイラ、暇でしょ! ルカといっしょに遊ぼうよ! この前お姉さまたちとしていたみたく、お庭で追いかけっこをしよう!」


 この前って、いつの――まさか二年前の夏のことを言っているの? ルカ様は体が弱くてこもりがちだから家の人たちとの交流も少ないから、他の人には「二年前」のことでも「この前」って言っちゃうんだ。どうしてこんな分析が自分にできたのかって、自分がそうだったから、そうに違いないって思っちゃうだけだ。

 そういうわけで、ちょっとだけ同情的になったけど、多分ルカ様とはあまり関わっちゃいけないんだ。何がきっかけで「篭絡した」って判定になるか分かんないから、ルチナ様のためにも、ルカ様のためにも、一緒にいちゃいけないに決まってる。

 ……でも――


「ちょっとだけ……でもいいですか?」


 つい乗ってしまった。ルカ様の白い頬が少し赤くなったような気がする。


「うん!」


 大きく頷いて、わたしの手を引っ張って走り出すルカ様。この子と一緒にいちゃダメだってわかってる。

 だけど“独りぼっち”がつらいのも、よくわかってる。

 それなのに断るなんてこと、少なくとも僕にはできなかった。

 

 顔に当たる風が温かい。春は、すぐそこまで迫っていた。

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