反逆のミセリコルデ 第一部完

おいげん

その門をくぐるもの、一切の希望を捨てよ

第1話 戦乙女の箱庭 ①

 ヴォルガ帝国 某所


「おや、お客さんかな。こちらに来て暖炉に当たりなさいな。え、物盗りじゃないか疑わないのかって? 何言ってんだい。こんな死にかけた婆のところから得るものなんてないよ」


 雪を落とし、家に入ってきた男は一礼すると、老婆のいれてくれたコバルトティーをゆっくりと飲んで体を温める。簡単に自己紹介を済ませると、彼女ははゆっくりと話の続きを促してきた。


「それで、帝国のお役人さんが何を聞きたいんだね? ほう、そうかい。あの時代のことについてかい。知っている者も少なくなっていたからねえ」


 老女もずずりとお茶を啜り、口を滑らかにしたようだ。


「でもねお兄さん。今は遠き英雄時代を聞くときにゃ、一つだけ約束があるんだよ」


 いぶかしげな顔をする男に老婆は呵々と笑う。怖かったら途中でやめるからね、と。


「この話を聞くもの、一切の希望を捨てよ、さ」

 そんな脅し文句で怯む男ではない。大丈夫だと先を聞きたがる。


「幼児的な万能感も、少女が抱く夢や希望も、穀潰しが持つまだ大丈夫だという気持ちも、全部この話には無いよ。だから期待なんて言葉は頭に浮かべちゃいけない」


 それが約束だ、と締めくくる。それでも聞くのが任務だと男が食い下がると、観念したように語り始めた。


「やれやれ。じゃあ、始めようか。関係者の全員が不幸になる、残酷な話を」

 夜は雪の白さに包まれていく。男はそこで聞いた話を一生忘れないだろう。


 戦乱の時代。動乱の大地。人の命が最も軽い時代。

 形容詞はいくらでもつけられるが、この時のアターシア大陸を示す状況には、すべての言葉が軽い。


 大陸は肥大した三つの大国が、それぞれに傀儡国家や衛星国、属国を従えてしのぎを削りあっていた。


 アターシア大陸の北部と東部を制する、ヴォルガ帝国。

 大陸西部を占め、熱狂的なフェブール教徒の国フリジア=シノン連合教国。

 大陸南部に広がる、暗殺と謀略の国、ラーマ大王国。


 我こそが覇者たらんとし、幾度となく衝突を繰り返している。

 これはその戦場の一場面だ。


帝国歴311年4月 


 突貫工事で築かれた簡易陣地には、無数の兵士たちがひしめき合っている。


「へへ、どうだ? 突撃前にカードで占いをやるやつはいねぇか? 一回五十ルブレだ。さあさあ」

「馬鹿かリョーシャ。そんな金があったらウォッカでも買うっての」


 士気は低い。装備も粗末な皮鎧に使い古された武具であり、口が裂けても統率のとれた軍隊とは言えない様相だ。


「どうだいお嬢ちゃん。今なら『縁起のいいカード』を出すぜ」


 リョーシャと呼ばれたイカサマ師に声をかけられたのは、まだ年若い人物だった。


「お嬢ちゃんっていうのやめてください」


 天使の輪と評される透き通った金糸の細い髪。左前髪だけ伸ばし、三つ編みに結っている。

 細く薄い胸板と、撫で肩に大きいお尻。粉雪のように白い肌。

 聖なる紫水晶の瞳は、長いまつ毛をたたえて抗議の視線を向けていた。


「そうプリプリ怒るなよ。ほら、他にはいねぇか? 幸運のカードは突撃中でも営業してるぜ」


 はぁ……と息を吐き、ユーリ・マゼインは周囲を見回す。

 そこにあるのは死への恐怖と、人生を諦めた者の目だ。この局面が終わっても今後存命する可能性は限りなく低い。


 なぜならば、この一群は『懲罰大隊』だからだ。


 戦場で軍紀を犯しはしたが、死刑になるには罪が軽い者。後背地の都市部で罪を犯した者たち。政治犯や宗教主義者だ。


「死ぬわけにはいかない。僕にはまだやるべきことがあるのだから……」

 これから突撃が始まる。援護なし、増援なし。背後では督戦隊が行動を監視している。


「総員傾注!」


 緩慢な動きで懲罰兵たちが顔を正面に向ける。どうせいつもの訓示だろうと、誰もが濁った瞳で、寒さに震えながら時が過ぎるのを待っている。


「諸君らには全軍の先がけとなり、正面に展開するフリジア=シノン連合教国の部隊に攻撃を加えてもらう。敵は少数だが丘陵地に陣地を設営しており、矢玉による頑強な抵抗が予測される。したがって悠長に前進している暇はない、相手の懐である丘陵真下に飛び込み、敵の注意を引き付けるのだ」


 なんて愚かな作戦だ、とユーリは嘆息する。

 つまるところ、本隊が別方面から攻撃ないし進軍するための囮ということだろう。この攻撃には兵士の生存率は全く考慮されていない。


 だが、それでも。

 パン、と頬をはたき、ユーリは林檎のように赤くなって気合を入れなおす。


 ピーーーーーーッ!

 突撃の笛が鳴る。


「突っ込め罪人ども! 貴様たちに許可されているのは前進だけだ。後退した者は容赦なく狙撃する! 自らの命で罪を雪げ」


 盾すら持たされてない、無謀な吶喊だ。


「よし、行くぞ! てめぇら俺のケツについてこい!」

「神様、神様、神様……」

「死んでたまるか、ちくしょう!」

「突撃ッ!!」


 Ypaaaウラーaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!


 愚直すぎる突撃に対して、敵の長距離射程のバリスタやロングボウが阻害してくる。当然だ。ろくな兵装も持たない的が、馬鹿正直に突っ込んでくるのだから、こんなに楽な迎撃もない。


「ハァハァハァ……!」


 ユーリはかび臭い鉄兜を目深にかぶり、抜刀してひたすら前へ進む。ドン、と音が鳴り、バリスタの巨大な矢じりが落ちるたびに仲間たちが吹き飛んでいく。

 ヒュンッ、と空気を切り裂くものがユーリの顔に迫る。


「しまったっ!」


 薙ぎ払おうにももう遅い。ならば兜を信じて相殺できるかどうかに賭けるのみと、ユーリは顔を下に向けて減速せずに走った。


「うわっぷ」


 いつの間にいたのか、目の前には岩山のような大男がのっそりと立っていた。ユーリはその男の背に思い切り体をぶつけて転んでしまった。


「ハッハッハ、大事無いですかな、マゼイン卿」

「グレゴール神父!」


 鍛え抜かれた重厚な巨魁。丸太のような腕に握られたメイスが、ユーリに向かっていた矢を軽く跳ね飛ばしたのだった。


「拙僧がいるからには、死なせはしませんぞ。さあいざ参らん! フリジアの狂信者どもに大地の女神の抱擁を!」


 ガハハと笑う豪胆な神父の横を、流星のような影が二つ走り抜けていく。


「やれやれ、戦場のど真ん中で辻説法とは。馬鹿な事やってないで行くよ」

「アハハ、ユーリまたドミニクに怒られてる。ほら立って! 一緒にかけっこだよ!」


「う、うん」


 四人は一塊りとなって猪突する。目指すは高所から狙えない崖下に張り付くことだ。

 同じ懲罰部隊の同志、サンタミカエラとドミニクらと一緒に、ひたすらに前進する。


「駄目だ、俺は逃げるぞ!」

「母ちゃん、助けてくれっ」


 雨のように降り注ぐ矢玉におじけづいたのか、兵士の一部が反転して退却を始めた。その選択は残念ながら間違っている。


「よせ、戻るなっ!」

「無駄だよユーリ。あいつらの運命は決まった」


 冷めきったドミニクの声にユーリは強く目をつぶる。願わくば一人でも多く生き残ってほしいと、ろくに信じていない神に祈った。

 後退した兵士を待ち受けているのは、督戦隊による射撃の雨だ。


「祖国の裏切り者を撃て! 畏れ多くも皇帝陛下のお慈悲によって生かされていたというのに、敵前逃亡するとはなんたる不敬、なんたる不忠。もはや容赦はいらぬ!」


 構えられていたクロスボウが一斉にボルトを飛ばす。


「うぐえっ、味方なのにっ」

「マリア……もう一度お前に……」


 櫛が欠けるようにバタバタと後方の兵士が倒れる。退却をしていたものも、していないものも合わせて射殺されていった。

 悲鳴は戦場に舞う。ユーリは死という名の不協和音を聞きながらも、無事に崖下にたどり着くことができた。


「ユーリ、生きてる!?」

「どうにか……。サンは平気?」

「私は元気だよ!」


 小柄なサンタミカエラは背丈よりも大きい戦斧を一回転させ、己の健在ぶりを示した。


「やれやれ、私は心配してもらえないのか」

「いえ、そんなことは。ドミニクさんもご無事で何よりです」

「拙僧も無傷ですぞ。これも大地母神の思し召しですな」


 張り付くように崖下に寄り添う部隊は、無残に散っていく仲間を見届ける。

 あるものは矢で串刺しにされ、あるものは仲間に盾として使われた。


 ここは命が最も軽い場所。自分さえ生きていればあとはどうでもいいという考えが蔓延しているのだ

 

「やあ、ユーリ」


 ユーリが金であるならば、寄り添う影は銀だった。白き凍土に咲く帝室の花。

 細身だがしっかりと強調されている女性らしさは、ユーリにはないものだった。


「まだ生きているようだな、安心したよユーリ」

 死の箱庭にあっても、凛と通る透き通った声。例えその身が廃棄されたとしても、決して誇りを忘れない気高い志。


「ご無事で何よりです、皇女殿下」

「私をそう呼ぶのは、もはや卿のみだな。さて、どう攻めてくれようか」


 フリジア=シノン連合教国の迎撃第一波はくぐり抜けた。

 まだ消耗品の出番は終わりを見せないままである。

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