お茶

@ns_ky_20151225

お茶

「苦いけど、体にいいんだよ」


 元校長の声は年齢を感じさせなかった。わたしは出された薬草茶を飲み、カップ越しに目を見た。あの事件から十回星が巡った。様々な意見があったし、今もある。称賛、賛美、非難、中傷がこの隠遁した賢者に浴びせられた。しかし、苦みに思わず顔をしかめたわたしを見る目はただただやさしかった。


「調査は読んだのでしょう?」

「はい。公的、私的あらゆる調査が、あれは事故であり、完全に偶発的で計画性はまったくない、と結論付けていました。対応にもまったく問題無かったとも」


 そう、わたしは膨大な報告書を読みこみ、あらゆる細部にわたってあの時の状況を思い描けるようにした。だからこそ、この取材が認められたのだ。


「では、わざわざこんな山奥までいらしたのは穴埋め記事をお書きになるためですかな」

「いいえ。ご本人に直接お伺いしたいのです。『誓い』を立てられた時のお心をです」


 賢者の目のやさしさが薄れた。


「ずっと言われてきましたよ。あれは事故だったかもしれないが、おまえはそれを利用したのだと。校長の地位を利用し、学生に『誓い』を半ば強制したのだと」


 当時の報道はすべてそういう論調だった。初めは事故そのものが計画的だったに違いないと糾弾し、報告書で否定されてからは状況を利用したのだと書いた。新人の記者だったわたしもすっかりそう思いこんでいた。


「事実はどうなのでしょう? 現にあなたは帝都に入らなかった。つまりどこかの時点でこれをお考えになったのは確かです。それはいつなのですか」


 老人はそれには答えず、茶を一口飲んだ。


「お若いとは言っても、あのときの帝国の状態はお分かりですな」


 わたしも茶を含んだ。覚えている。帝国はこの苦みなど果汁のように甘く感じられるくらいの状態だった。


「五大家や貴族たちの争いが日常でしたね。振り返って考えてみると、あれでよく帝国という形を保っていられたものだと思います」

「陛下がまだおられたから。年老いて寝たきりと言えども皇帝に頭を押さえられていたので争いが内乱となって破裂しなかったのです」


 元校長は昔を懐かしむように言った。皇帝と個人的な仲だったのは周知の事実だった。


「それにしても、そんなに争っていながら、五大家も貴族たちもよく同じ学校に子供を預けましたね」

「それはそうでしょう。すべての学問を総合的に教える学校は帝国広しといえどもうちだけだった。将来指導的な地位につこうと考えるなら他の選択肢はなかった」

「好都合、でしたか」

「引っかけるつもりですか? そうです。そう考えたのは否定しません。親たちが争っていても子供たちは教育次第で協調できるんじゃないか。そして次の世代で帝国に平穏をもたらせるんじゃないか。そう思ってはいましたよ」


 実際は思ったとおりにはならなかった。各家とも多数のお付きや監視者を送りこみ、学校の協調的思想に染まらないように隔離した。公的な行事をのぞいて子供同士の付き合いはなかった。


「そこなのです。あの廃鉱山の見学にはなにか狙いがあったのではと考えられています。しかも、校長自ら引率とは。事故は計画的だったが故に『誓い』は無効だという論者は今でもその点を主張します」

「あれには何の企みもありません。帝国の政に関わろうという若者に魔法大戦の戦場跡を見せておくのは当然でしょう。それにわたしは大戦研究で学位を取ったのですよ。はばかりながら専門家です」

「全員まとめてですか。家ごと、いや、少なくとも反目している家を分けようとはしなかったですね」

「当然です。我々は教育者であって宴会の席次を決めているのではありません。家同士の関係性など考慮はしません。他の行事でもそうしていましたよ。そのくらい調べはついているはずですよね」


 こちらの挑発には乗らず、冷静な声でいつもの公式回答だった。


「そのようですね。落盤も事故でした。それは間違いないでしょう。五大家ですらそこは疑っていません。しかし、『誓い』はどうでしょう。なぜあの状況で休戦の誓いを立てさせたのですか。しかもあらゆる害を成す事を禁じる厳しい内容ですね」

「これは彼らの名誉に関わる。答えるわけにはいきません」

「わたしは記者です。そのあたりは取材済みです。閉じ込められ、争いが起きたのですね」

「何も言えません」

「安全と脱出のため休戦を誓わせた。もちろん一時的なものです。『誓いの当事者が帝都に無事帰還するまで』という条件で、あなた自らも立てた」

「『誓い』は行動や精神を縛る。彼らにだけ立てさせようとしても拒否されたでしょう。だからわたしも加わったのです」


 わたしは茶を飲んだ。なんだかこの味に慣れてきた。


「救助は速やかに行われ、全員無事だった。しかし、あなたはもうすぐ帝都という所で馬車を降り、驚く皆に、もう帰らない、と宣言された。そうしようとお決めになったのはいつですか」


 賢者はカップをのぞきこみ、ため息をついた。


「わたしにも分からない。すべて衝動でした。帝都の境界塔が見えた瞬間、体が動いていたのです。誰も信じてくれないのですが。『誓い』を立てたときは無事に脱出したい一心だった。そのために皆が冷静で互いを支え合うようにする事が必要だったのです」

「そうですか。衝動ですべての地位をお捨てになったのですね。しかし動機が何であれ結果として五大家や貴族たちの休戦の誓いは継続しています。跡継ぎの子供たちを巻き込まずには争えないので仲良くするしかありません。彼らは面白くないでしょうが」

「そうですね。わたしが自然死するまでは『誓い』は破れませんし、当分死ぬつもりはありません。その頃には協調している状態が普通になっているでしょう」


 そう言ってカップを差し上げた。わたしは微笑んだ。


「ところで、ご旅行ですか? 荷物がまとめてありますが」

「そう、旅行ですが、もうここには帰ってきません。引っ越します。もっと山奥に行くつもりです。ますます不便になるが仕方ありませんね」


 帝都が拡張される。貴族の争いがなくなったため、帝国は平穏に基づく繁栄を味わっていた。都市は次々と拡張し、帝都も例外ではなかった。


「星が三回も巡ればここも帝都になりますよ」


 わたしはもう一度聞いた。


「決断の時についてお話しいただけませんか」


 元校長の賢者は首を振ったが、やさしい目に戻っていた。わたしは薬草茶の苦みの奥に潜むかすかな甘みに気づいた。


「一つくらい秘密を抱かせておいてくれたまえ」


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