第35話「酔っぱらいにろくなやつはいません!」

「アイリス、少しお手洗いに行ってきていい?」

「ええ。大丈夫よ」

「百貨店に入ってくる。すぐ戻るから」


 食後の紅茶も飲み終わって昼食を済ませたあと、ぶらぶらとベスティエ街を歩いていた。

 ちょうど百貨店が近かったから、エリオットはその中に入っていく。


 人混みが多いため私は百貨店のガラス窓の傍に立って、エリオットが戻ってくるのを待っていた。


 だんだん、エリオットの甘い香りにも慣れてきた気がする。

 番である人が放つ甘い香り。


 それに誘われて、この人とずっと一緒にいたいだとか、安心するだとか……ときには色事に発展したりする、らしい。


 その香りにも慣れてきたけれど、慣れてきた分私はその香りを一日に一回は補給しないと不安になってきてしまうようになった。


 エリオットが仕事でいない間、少し不安になってしまう。

 だけれど、帰ってきてその香りを鼻腔に収めると安心する。

 エリオットも、そう思っているのかな。


 ぼうっと通り過ぎる人々を見ていると、女の子が猫の獣人と一緒に仲睦まじく歩いているのが見えた。

 女の子の髪は毛先がきれいにグラデーションされている。美容院にでも行って染めたのだろうか。

 あれ? そういえば、『王シン』で髪色のことで何か大事なことが書かれていたような……。

 

「おい! そこの嬢ちゃん!」

「そこの可愛いお嬢ちゃん!」


 近くで誰かが女性を呼んでいた。

 酒焼けした声だったから、なんだろうと顔を上げるとばっちり目が合ってしまった。


 二人いて、歩くたび左右に体重をかけるおらおらした歩き方でこちらへやってくる。


「お嬢ちゃんって、私……?」

「おう! お前以外に誰がいんだよ!」

「さっきから可愛いと思ってたんだよ。どうだ? 俺らと一緒に飲まねえか?」


 飲むっていっても、時刻はまだ昼の三時ごろなんだけど……。


 視線を下ろせば二人は酒瓶と煙草を手にしている。

 明らかに、関わったらいけない人たちだ。


 そう思った瞬間、動悸が激しくなって今すぐ逃げたい衝動に駆られた。

 すぐにこの場から離れたい。

 なのに、足が震えて動かない。


「なんだぁ? 嬢ちゃんビビってんのか? だいじょーぶだ、おじさんたちは怖くないからよぉ」

「ちと飲むだけだから! 俺らと一緒に飲もうぜ?」


 おじさんたちがじりじりと近寄ってくる。

 うわ、酒臭い……!


「あ、あの、私は、用があるので……」

「あぁ? お前の用なんかどうでもいいんだよ。俺たちと飲もうって言ってんだよ」


 思ったよりもか細い声しか出なかった私に、おじさんたちが怒ってくる。


 逆らったらこいつらが持ってる空の酒瓶で頭を殴られたらどうしよう。

 怖くなって、声も出なくなってしまった。


 周りの人を見ても、みんな一緒にいる友人や恋人に夢中で私たちのことに気づいていない。


「いいから、俺らと一緒に来るんだよ、お前は」

「美味い酒飲ませてやるから」

「や、やめ……っ」


 二人が私の腕を掴もうとしたとき。

 その二人の手を、ものすごい勢いで誰かが払った。


 パシンッと音が響き、二人が伸ばしていた手を引っ込めて痛みに縮こまる。


「何してるんだ、お前たち」

「あ、貴方は……!」

「獣人騎士団の、副団長……っ!」


 エリオットが目の前にいて、私の肩を引き寄せてきた。

 それは朝みたいに優しいものじゃない。

 強引で、前より私の肩を強く掴んでいる。


「この女性は俺の番だ」

「つ、番……っ!?」


 その声は今までに聞いたことがないくらい強く怒りを含んだもので、がるる、と狼特有の威嚇の音が喉から聞こえてきた。


 瞳孔が開いていて、獲物を見つけたかのような双眸だ。

 眉を釣り上げ、堪えきれない怒りが全身から滲み出ている。


 そうだ。

 『運命の番』の男性は、相手の女性を他の男性に触れさせることをひどく嫌う。

 独占欲が、とても強いんだ。


 エリオットから、噎せ返るほどの甘い香りがしてくる。


「お前たちが手を出したら、その首を噛みちぎるぞ。いいな?」

「ひ、ひえ……」

「す、すみませんでした……っ!」


 エリオットに冷然と見つめられ、冷や汗をだらだらとかいていた二人は一目散にその場からいなくなっていった。


 点にも見えないくらい遠くに行ったのがわかると、エリオットは軽くため息を吐いて、私に向き直る。

 私のほうを向いたエリオットの瞳は、もう怒りの色など滲んでいなかった。


「大丈夫だった? どこか怪我は?」

「い、いえ、どこにも……」


 今までこういうことがなかったせいか、エリオットにそう言われても声が震えたままになってしまう。


 どうしよう。

 大丈夫って言わなきゃ。


 でも口が渇いてしまって、何も言葉が出てこない。

 声も手も震えたままで、涙だって出そうになっていて、こんな姿をエリオットに見られるのが恥ずかしかった。


「……ごめん、アイリス」


 百貨店の前で、ぎゅっと抱きしめられる。

 先程の肩を掴んだような強引さはなく、優しく労わるように抱き竦められた。


 そのまま、背中をゆっくり撫でられる。

 安心してほしいというように。

 私の震えが止まるように、何度も撫でられる。


「俺が傍から離れていなければ、こんなことにはならなかった。本当に、ごめん」

「……エリオットが謝ることじゃないわ。警戒心がなかったし、すぐに逃げなかった私が悪いから……」

「アイリスは少しも悪くなんてない!」


 少し身体を離され、エリオットと視線が絡む。

 近くで見るエリオットの表情はすごく揺らいでいて、申し訳なさそうに狼の耳を垂れさせていた。


「俺のせいだ。次から絶対にアイリスから離れない。何があっても、俺が守るから」

「エリオット……」

「家に帰ろう。お風呂にお湯を入れるから、温まって。今日の夕食はアイリスの好きなものなんでも作る。……落ち着くまで、こうしていていいから」


 エリオットが再び私を抱き竦め、背中を撫でる。

 それが心地良くて、さらにエリオットの甘い香りに包まれ、だんだん安堵の気持ちが心に満たされてくる。


 震えも次第に止まってきて、数分後には私は安心しきっていた。

 だけれど、いつまでも撫でてほしいと思ってしまう私は、安心してもしばらく背中を撫でてもらっていた。


 男の人に絡まれたとき、今すぐエリオットの香りに包まれたいと思った。

 だから、今エリオットの匂いを思いきり感じることができて、嬉しかったのだ。


 ふとエリオットの手元を見ると、ビビットカラーの紙袋を持っている。


「……? エリオット、百貨店で何か買ってきていたの?」

「……うん。アイリスと一緒に食べたいと思って、マカロンを買ってきてた。でも、そのせいで遅くなってしまった。本当にごめん」

「そんなに謝らなくていいのよ」

「あいつらに本当に触られてない?」

「ええ。触られてないわ」

「良かった……」


 抱きしめられる力が強くなり、息が少しだけ苦しくなる。

 エリオットがか細い声で言う。


「アイリスが異性の誰かに触れられたらと思うと、怒りで自分を押さえられなくなる。なるべく傍にいるようにするけど、アイリスが一人のとき、絶対に男の人に近寄ったらいけないよ。一人で家にいるときに誰かが来たからってドアを開けたりするのもダメ。……ずっと、俺だけ見てて」


 エリオットの声が掠れていて、独占欲が強いのだととてもわかる。

 懇願のようにも思えるそれは、普通の人なら束縛が激しいと思うのかもしれない。


「……大丈夫よ。私はエリオットだけ見てるわ」


 だけど私にとっては、独占の言葉が何故か嬉しく喜ばしいことのように感じた。

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