寒空

一月の北海道は真冬だ。


太平洋側に面した雪の少ない地域とはいえ、

真冬の北海道は当たり前に寒い。


目には見えない鋭利な形の粒が、冷たい空気いっぱいに散らばっているみたいだ。

それらを思い切り吸い込むと、喉や肺がピシピシッと音を立てて凍りついていく。


肺からなんとか取り出した息は、真っ白なもやをつくり、次の瞬間には眼鏡や頬にべっちょりと張り付いてくる。


僕はさっきから、この作業を何度も何度も繰り返している。

寒いんだか、苦しいんだか、暑いんだか、もうよくわからない。



こんな時期に生徒に持久走をさせる小林とかいうやつは、頭のネジが1本火星あたりまでぶっ飛んでいるに違いない。


若い体育教師の小林は、こばちゃんと呼ばれ、生徒に人気がある。


持久走を生徒と一緒に走るのが偉いと、一部の女子が騒いでいた。

小林は片道6キロの道のりを、毎日自転車で通勤しているらしい。

この持久走だって、きっと自らの快楽のために走っているのだろうから、職権濫用、公私混同だと僕は思う。


僕は持久走が嫌いだ。

ゆっくり走っても苦しいし、

ちょっと早く走ったらめちゃくちゃ苦しいし、お腹はもう捩じ切られそうに痛い。


ゴールまでこっそりワープしたい…と考える。まぁ、そんな事はできないんだけど。


学校の周りの国道や脇道を走り続け、なんとか5キロを走り終えた。


僕は、後ろから数えた方が早い順位でゴールした。

顔の熱で眼鏡が曇ると格好悪いので、眼鏡を外してポケットに入れ、上がった息を必死に整えた。


持久走の時は、グラウンドではなく生徒玄関前に集合して校外へ出ていき、生徒玄関前がゴールになる。


持久走をサボった男女5人組は、玄関前の3段だけの階段に座り込んでいる。

僕よりずっとずっと早く走り終えた小林をつかまえて、

「こばちゃん早くてかっこよかったー!」

「お前ら来週の持久走走らなかったら、単位やらんからな。」

「えーヤダァ〜。」

「俺ガチで無理!」

なんてやりとりをしている。


おいおい。来週も持久走だって?

やっぱり小林はどうかしている。



自分のタオルと水筒を取りに、

数メートル先のブルーシートに向かった。

来週も走らなければならないと思うと、

一層喉が乾いた。


ひと口お茶を飲むと、干涸びた喉がちゃんと粘膜に戻った気がした。

寒いと思って温かいお茶を朝準備したけど、間違いだった。喉はもっとと欲しているのに、熱くて全然飲めない。

あとから自販機で冷たい飲み物を買おう。

水筒を両手で握ると、カイロがわりにはなった。外気温に負けずに、温度を保ち続けるこいつは小林より偉い。


「終わった人から教室に戻って、昼休みなー!」


清々しさが腹立たしい小林の大きな声が、響いた。サボりたちは言われる前から、勝手に教室に戻っているようだった。



「あー俺もうマジ足死んだわー」



水筒とタオルを手に、玄関へ向かおうと踵を上げた瞬間、そんな声が聞こえた。

声を上げたのは、石田だ。



石田は、長い足を開き、こだわりのありそうな蛍光オレンジの靴を地面にべたりとつけたまま、階段2段目に腰掛けている。

3段目には肘を置き、さも疲れたというふうに上半身を支えた。

いつもつるんでいる中野が、傍らで立って笑っている。


僕は踵をゆっくりと下ろした。

タオルで顔全体を覆って、さっき散々拭いた汗をまた拭くふりをして、タオルの端から彼らを覗いた。


変化はない。


タオルをたたみ直して、ポケットに入れたままにしていた眼鏡をかける。


石田は体勢を変えずに、まだ中野と談笑している。

石田のハーフパンツが、空気を失った風船のようにペタリと階段に張り付いている。

石田は笑っている。


その下の地面には、誰かの忘れ物のように蛍光オレンジの靴がポンポンと置かれている。



うん、正常。

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