捌 私のことがきらいなアイツ
「見かけ倒し、ですって?」
一度
煮えたぎる激情が、心にざくざくと刺さった氷の柱を
「今の言葉、撤回してください。非常に不愉快です」
部屋から出て行こうとした客人がぴたりと動きをとめる。
わなわなと身を震わせ、つき動かされるように私は言葉をはき続けた。
「あんたが
視界のはしで、
それでも私は構わない。
民は食を
私にとって美食とは、それ以上に特別な意味を持つものだった。
幼いころからおいしい料理をお腹いっぱい食べ、食卓を囲む幸せ、料理を作る
家族に無理を言って都会の大学に進学したのも、漢方ひいては薬膳を学びたかったから。
私にとって食べることとは生きること。
完璧な美食の追究とは生きがいだった。
「それに私だけじゃない。あんたたちが持ってきた食材は、町の人たちが汗水たらして得た食物です。それを残すなんて、あまりにも無神経すぎる!」
私は楊おじさんや
古来より、咲き誇る大輪の蓮花の影には、世間から見捨てられた
貴族と
時間が経てば、お腹は減る。病気にかかるし、寒さに凍える。
すこしでも快適なところで生きたい。
そんな単純な願いを満たすために、必死になっている。
私だって明蘭と出会っていなければ、今ごろどうなっていたことか。
この大陸では、貧困だって他人事ではないのだ。
「あんたたち貴族は、こんなことなんかより」
まだ他にするべきことがあるでしょ!
そう言おうとした私の言葉は、
ひたりと首筋に迫った冷たい感触に、本能的に身がすくんで動けなくなる。
「言葉に気をつけろ」
貴人の護衛をしていた細身の武人が、目にもとまらぬ速さで長い剣を繰り出していた。
ちょっとでも動けば首の皮を切ってしまいそうな、至近距離で。
喉もとに突きつけられた
私の命はもうずっと前から、この人たちの手中にあったんだということを。
「よい、
しかしいつまで経っても死は訪れなかった。
首を捉えて放さなかった剣の切っ先が、しぶしぶといったようすで離れていく。
当然のことながら、私はぽかんとあっけにとられた。
「今日の
私に向かって言っているのだと気づくのに、かなり時間がかかってしまった。
ふり向いた
「小娘。そんなに私の言葉が気に入らないのなら、実力で
好戦的な悪魔を宿した瞳が、私の姿をがっちりと捉える。
「口は達者だが、
立ち去り際に発された言葉は、私の脳に底知れない響きを残した。
◆ ◇ ◆
もとから少なかった荷物をまとめ、布包みひとつを持って自分の部屋を出る。
いや、違う。ついさっきまで自分の部屋だった一室だ。
もう二度と帰ってこられないかもしれないと思うと、胸がきゅっと締めつけられた。
そう、私は宮廷
あのあと私は、昼過ぎに出発する予定をなんとか繰り上げられないかと
出過ぎたまねだとは承知していたけど、どうしても明蘭にはないしょで出て行きたかったのだ。
すると向こうも急ぎだったらしく、私の要望は意外にもすんなりと通った。
現在は
東の空でまさに昇りつつある日輪の光に、私は軽く目をすがめる。
「おい、待て!」
そのとき、
「ええ!? あんた、
「やっぱりな。来といて良かった」
ここまで走ってきたのか、彼は呼吸を弾ませながらこちらに駆け寄ってくる。
「出て行くのか」
「え、ええ、そうよ。今さらとめないでよね」
私は自然と身構えていた。
荷物もまとめ終わったし、今ここでとめられるのは非常によろしくない……!
けれども志鶴は力なく首を横にふっただけだった。
「屋敷に中央の役人が来て、お前だけ残ってるって聞いたから。俺は様子を見に来ただけだ」
「明蘭はそっちにいるのね?」
「ああ」
私はほっと
自分から逃げろとは言ったものの、昨日の夜からずっと彼女の姿を見ていなかったのだ。
信頼できる人のところにいるのなら、彼女もすこしは安心するだろう。
同時にちょっとだけ志鶴のことを見直してしまう。
記憶のなかにいる彼は、いつも私のことを無視したり、にらみつけていてばかりだったから。
「あんた、意外といいヤツなのね。でも……私のこときらいじゃなかったの?」
「それは、だって……明蘭がお前の話ばっかするから……」
本人ははっと口を抑えたがすでに遅かった。
ふとこぼれ落ちた本音に、私のいたずら心がぴんと敏感なアンテナのように反応する。
「ふっふっふ、やっぱりね。思ったとおりだわ」
「い、今のはなしだ!!」
「別に隠さなくてもいいのよ? お姉さんにはぜんぶ丸わかりなんだから!」
「お、お前、俺より年下だろ!」
「
「うそだろ!?」
志鶴が大砲にうたれたような顔でがくぜんとしている。
やっとこいつに一泡吹かすことができた!
私はしたり顔で思いっ切り胸をそらせてみせた。
この国の女性はみんな、二十歳を過ぎる前に成人して嫁入りするのがふつうなのだ。
けれども私はこの国、さらに言えばこの大陸出身ではないもの。
勘違いされて当然と言えば当然のことだった。
それからひとしきり笑ったあと、頭上で広がる
「……もっとあんたと話しとけばよかった。そしたら、三人で仲良くやっていけたかもしれないのに」
「は? 何だって?」
私はなんでもないと言う代わりに、無言で彼の横を通り過ぎた。
「明蘭に言っといて。ちょっとだけ、皇帝様のおひざもとへ行ってくるって」
大きく息を吸いこみ、風に運ばれた朝のにおいを肺いっぱいに取りこむ。
それは甘酸っぱくて、でもあきれるくらいにおだやかで。
この先の道のりは、きっとそんなに悪くはないと思えた。
「このへたれ!! さっさと付き合いなさいよ!」
最後に、本当に最後に、しんみりとしてしまった空気をふり払うようにわざと明るい声を出した。
志鶴がどんな顔をしたのか、私は知らない。
もう二度と、ふり返ることはなかった。
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