捌 私のことがきらいなアイツ


「見かけ倒し、ですって?」


 一度せきが壊れてしまえば、もうとめられなかった。

 煮えたぎる激情が、心にざくざくと刺さった氷の柱をまたたく間に溶かしていく。


「今の言葉、撤回してください。非常に不愉快です」


 部屋から出て行こうとした客人がぴたりと動きをとめる。

 わなわなと身を震わせ、つき動かされるように私は言葉をはき続けた。


「あんたがしかばねだとけなしたこの料理は、私が心魂を傾けて作り上げた一品です。たしかに私は田舎っ子だし、私の料理は中央の貴族の口には合わないかもしれない。だけどこれを作るために、いくら自分の人生を捧げてきたことか!」


 視界のはしで、明蘭めいらんのお父さんが青ざめた顔をしているのが見えた。

 それでも私は構わない。


 民は食をもって天と為す。


 私にとって美食とは、それ以上に特別な意味を持つものだった。

 幼いころからおいしい料理をお腹いっぱい食べ、食卓を囲む幸せ、料理を作る悦楽えつらくを知った。

 家族に無理を言って都会の大学に進学したのも、漢方ひいては薬膳を学びたかったから。


 私にとって食べることとは生きること。

 完璧な美食の追究とは生きがいだった。


「それに私だけじゃない。あんたたちが持ってきた食材は、町の人たちが汗水たらして得た食物です。それを残すなんて、あまりにも無神経すぎる!」


 私は楊おじさんやさとの子どもたち、見る影もなくやせ細った乞食こじきの少年を思い浮かべる。


 古来より、咲き誇る大輪の蓮花の影には、世間から見捨てられた汚泥おでいがある。

 貴族と庶民しょみん、そのさらに下層にたむろする人々はみな生きていくだけで精いっぱいだ。


 時間が経てば、お腹は減る。病気にかかるし、寒さに凍える。救抜きゅうばつも、一望もありはしない。

 すこしでも快適なところで生きたい。

 そんな単純な願いを満たすために、必死になっている。


 私だって明蘭と出会っていなければ、今ごろどうなっていたことか。

 一族も決して裕福なわけじゃない。

 この大陸では、貧困だって他人事ではないのだ。


「あんたたち貴族は、こんなことなんかより」


 まだ他にするべきことがあるでしょ!


 そう言おうとした私の言葉は、突如とつじょ襲い来るひと振りの鈍い輝きにさえぎられてしまった。

 ひたりと首筋に迫った冷たい感触に、本能的に身がすくんで動けなくなる。


「言葉に気をつけろ」


 貴人の護衛をしていた細身の武人が、目にもとまらぬ速さで長い剣を繰り出していた。

 ちょっとでも動けば首の皮を切ってしまいそうな、至近距離で。

 喉もとに突きつけられた白刃はくじんを見て、ようやく思い知らされる。


 私の命はもうずっと前から、この人たちの手中にあったんだということを。


「よい、忠淵ちゅうえん。気が変わった」


 しかしいつまで経っても死は訪れなかった。

 首を捉えて放さなかった剣の切っ先が、しぶしぶといったようすで離れていく。

 当然のことながら、私はぽかんとあっけにとられた。


「今日の午刻ごこく、ここを発つ。それまでに宮廷きゅうてい入りの準備をしておけ」


 私に向かって言っているのだと気づくのに、かなり時間がかかってしまった。

 ふり向いた美貌びぼうの男は、なにがおもしろいのかわずかに口角をつり上げていた。


「小娘。そんなに私の言葉が気に入らないのなら、実力でじ伏せてみることだ」


 好戦的な悪魔を宿した瞳が、私の姿をがっちりと捉える。


「口は達者だが、所詮しょせん井の中のかわず茫々ぼうぼうたる大河を見て、地獄に落ちるといい」


 立ち去り際に発された言葉は、私の脳に底知れない響きを残した。


 ◆ ◇ ◆


 もとから少なかった荷物をまとめ、布包みひとつを持って自分の部屋を出る。

 いや、違う。ついさっきまで自分の部屋だった一室だ。

 もう二度と帰ってこられないかもしれないと思うと、胸がきゅっと締めつけられた。


 そう、私は宮廷厨師ちゅうし抜擢ばってきされたのだ。


 あのあと私は、昼過ぎに出発する予定をなんとか繰り上げられないかと懇願こんがんした。

 出過ぎたまねだとは承知していたけど、どうしても明蘭にはないしょで出て行きたかったのだ。

 すると向こうも急ぎだったらしく、私の要望は意外にもすんなりと通った。


 現在はの刻。夜明け前だ。

 東の空でまさに昇りつつある日輪の光に、私は軽く目をすがめる。


「おい、待て!」


 そのとき、薄明はくめいのなかからぼんやりと浮かび上がったシルエットに思わず目を疑った。


「ええ!? あんた、よう志鶴しかく!?」

「やっぱりな。来といて良かった」


 ここまで走ってきたのか、彼は呼吸を弾ませながらこちらに駆け寄ってくる。


「出て行くのか」

「え、ええ、そうよ。今さらとめないでよね」


 私は自然と身構えていた。

 不倶戴天ふぐたいてんの敵と偶然相まみえたときのように。

 荷物もまとめ終わったし、今ここでとめられるのは非常によろしくない……!


 けれども志鶴は力なく首を横にふっただけだった。


「屋敷に中央の役人が来て、お前だけ残ってるって聞いたから。俺は様子を見に来ただけだ」

「明蘭はそっちにいるのね?」

「ああ」


 私はほっと安堵あんどの息をはいた。

 自分から逃げろとは言ったものの、昨日の夜からずっと彼女の姿を見ていなかったのだ。

 信頼できる人のところにいるのなら、彼女もすこしは安心するだろう。


 同時にちょっとだけ志鶴のことを見直してしまう。

 記憶のなかにいる彼は、いつも私のことを無視したり、にらみつけていてばかりだったから。


「あんた、意外といいヤツなのね。でも……私のこときらいじゃなかったの?」

「それは、だって……明蘭がお前の話ばっかするから……」


 本人ははっと口を抑えたがすでに遅かった。

 ふとこぼれ落ちた本音に、私のいたずら心がぴんと敏感なアンテナのように反応する。


「ふっふっふ、やっぱりね。思ったとおりだわ」

「い、今のはなしだ!!」

「別に隠さなくてもいいのよ? お姉さんにはぜんぶ丸わかりなんだから!」

「お、お前、俺より年下だろ!」

二十歳はたちですけど?」

「うそだろ!?」


 志鶴が大砲にうたれたような顔でがくぜんとしている。

 やっとこいつに一泡吹かすことができた!

 私はしたり顔で思いっ切り胸をそらせてみせた。


 この国の女性はみんな、二十歳を過ぎる前に成人して嫁入りするのがふつうなのだ。

 けれども私はこの国、さらに言えばこの大陸出身ではないもの。

 勘違いされて当然と言えば当然のことだった。


 それからひとしきり笑ったあと、頭上で広がる黎明れいめいの空のように、くもりのない晴れやかな顔をしてつぶやいた。


「……もっとあんたと話しとけばよかった。そしたら、三人で仲良くやっていけたかもしれないのに」

「は? 何だって?」


 私はなんでもないと言う代わりに、無言で彼の横を通り過ぎた。


「明蘭に言っといて。ちょっとだけ、皇帝様のおひざもとへ行ってくるって」


 大きく息を吸いこみ、風に運ばれた朝のにおいを肺いっぱいに取りこむ。

 それは甘酸っぱくて、でもあきれるくらいにおだやかで。

 この先の道のりは、きっとそんなに悪くはないと思えた。


「このへたれ!! さっさと付き合いなさいよ!」


 最後に、本当に最後に、しんみりとしてしまった空気をふり払うようにわざと明るい声を出した。

 志鶴がどんな顔をしたのか、私は知らない。


 もう二度と、ふり返ることはなかった。

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