第弐章 龍之落子

玖 水神の棲まう水都


 旧記によると、国の料理は素材を生かしたあっさりとした味わいが特徴だとされている。

 それは古くから粗悪な食材を濃い味つけで誤魔化す必要がなかったことを物語っており、自然豊かな土地柄であったことを示している。


 環境が整っていれば、それだけたくさん質のいい食材を得ることができるのだ。

 肥沃ひよくな平野で育つお米、緑の山々でとれる獣肉、豊かな河川がもたらす魚介類。

 蘇国料理には、すべてがまんべんなくそろっている。


 その土地の地理を知るには、まず土地に住む人々の食を知るべし。

 美食に目がない私は、そういった食に関するライフハックにも精通していたりする。


「……美食が一万六千十二皿、一万六千十三皿……うう、だめだ……もうお腹いっぱい……」


 私は外の景色を眺めながら、ぶつぶつと呪文のようにひとりごとを言い続けていた。

 およそ半日くらいずっと。


「ああもう、いつまで馬車に乗ってればいいのよ!!」


 ばたんっと派手に背後へ倒れこむ。

 到着すらしていないというのに、私の心はすでに満身創痍まんしんそういだった。


 馬車で宮廷きゅうていまで移動する途中、特にすることもなく暇でしかたがなかったうえに、激しい揺れにもすっかりやられてしまった。

 ひどい眠気に襲われるも、不安と興奮で眠るに眠れないし。

 いつかどこかで聞いた「眠れないときは美食を数えるべし」という奥の手はまったく効果を発揮しないし。


 そもそも……。


「どれだけ広いのよ、この国!」


 あのさとは田舎とはいえ、国境の付近ではなかったはずだ。

 それなのに、ここまでたどり着くのに半日以上かかっていることは間違いない。


「……あとどれくらいこのままなんだろう」


 もしかすると今日が命日になるかもしれないと、本気で思い始めていたそのとき。

 がたんと車体が大きく弾み、馬車がとまった。

 血走った目で外をのぞきこむと、ぞろぞろと他の馬車から降りる御者ぎょしゃ官吏かんりの姿が見える。


「もしかして……!」


 窓から身を乗り出すと、前を走っていたひときわ目立つ馬車から見知った美貌が出てきた。

 風に吹かれて見事にひるがえる黒絹の衣服、キラッと効果音がつきそうなほど輝かしい立ち姿。

 私を都まで連れていくのは、あの美しい官吏かんり

 名を彭祖ほうそというらしい。


「ここからは舟で行く」

「え、舟って……ちょ、ちょっと待っ……」


 私は脱力しきっていた体をたたき起こし、なんとか馬車からはいずり出てあとを追った。

 足にうまく力が入らないせいで何度もつまづきそうになったり、人混みにもまれたり。

 しかしどれだけ離れても、すたすたと早足で歩く背中を見失うことはなかった。


 なぜなら彼が一歩進めば、まるで透明な壁でもできているかのように人の波が左右に割れていくから。

 こんな人混みのなかでも、みんな己より身分の高い御仁のために道を開けているのだ。


「あ、あの、彭祖さま!」


 私が声をかけたところで、眉目秀麗な貴人はようやく歩をとめた。


「私のことは太師たいし様と呼べ」

「え? 太師って……」


 聞き覚えのある単語に記憶の引き出しをひっくり返してみると、それはもとの世界で読んだ史書のなかにあった。

 太師とはすなわち天子の師。つまり、実質的に皇帝の次に偉い人だ。


「えええええ!? 太師さま!?」

「なんだ、知らなかったのか」


 私の尋常じんじょうでない驚きぶりに対し、太師さまは「それもそうか」とわずかに声のトーンを落としただけだった。


「三年前に新帝陛下が即位されてから、この国も随分と変わってしまった。遠い山奥となれば、私の名声が行き届いていないのも無理はない」


 どこが山奥ですって?

 しかもこの人、今自分で名声って言った?


「心配せずとも、そういった知識はおいおい教えていくつもりだ」

「……あ、ありがとうございます」


 もうどこから突っこんでいいのかわからず、適当に返事だけをする。


「そうだ。舟に乗る前に」


 そのとき、不意にずいっとイケメンが眼前に押し迫ってきた。

 不覚にも私の心臓はドキッと跳ねあがったけど……。


「君、顔が僵屍キョンシーのようだぞ。今のうちに、そこの草むらで胃袋の中身を全部出しておけ」

「……それ、今ここで言うことですか?」

「ああ。清純なる河川が汚されてはかなわん」

「そういうことじゃなくてですね……!?」


 やっぱり私、この人無理かも。

 そう悟ったときには、眠気も吐き気もうそみたいに吹っ飛んでいた。


 私たちが乗りこんだのは、宮中に入ることができるという変な舟だった。

 「宮廷にチョクセツ?」と頭に疑問符を浮かべていると「水神たる青龍せいりゅうのおわす都では、至るところに水路が張り巡らされているのだ」と太師さまが教えてくれた。

 それでもいまいちピンとこなかったが、城門をくぐればすぐにその意味がわかった。


「ええ!? この城市まち、水の上に浮いてるの!?」


 信じられないような光景に、私は何度も目をゴシゴシとこする。


 店先に並ぶ色とりどりの商品に、声をはり上げる売り子、呼びこみを聞きながら各々品定めをする買い物客。

 一見するとふつうの繁華街だが、その市は見渡すかぎりどこまでも続く広大な河の上に立っていたのだ。

 市場だけじゃない。民家にびょう楼閣ろうかくまで。


 水路に面した建物には桟橋さんばしが設けられ、たくさんの舟がひっきりなしに行き来している。

 城壁の内部、街まるごとひとつがまるで水上に浮かぶ島のよう。


「ここが蘇国の都、江蘇こうそだ」

「すごい……こんなにきれいな景色、見たことないです!」


 夕日に照らされ、銀紙みたいにきらめく水面はそれだけでも実に幻想的だった。

 透き通るような水の下をのぞいてみると、建物を支える柱の周りを魚たちがゆらゆらと泳いでいる。


 華やかな都会の喧騒けんそう寂莫じゃくまくとした自然の景観。

 まったく違うふたつの要素が、相克そうこくすることなく溶け合っている。


 これが、太古より自然に囲まれた国の首都。

 おとぎ話に出てくる竜宮城のような佳景かけいに、私はしばらく声も出せずに見とれていた。


「蘇の国は青龍の加護を受けた大国だ。青龍は水を司る神獣であり、水とはすなわち神力の権化。汚らわしいものをすべて洗い流してくれる」

「汚らわしいもの?」

「城壁の外でたむろする貧民のことだ」


 私は軽い調子で聞き返したことを後悔した。


「え、えーっと。この大陸、食が第一ですよね? 飢えている人たちがいるってちょっと……いや、けっこうおかしくないですか?」

「光が強く当たれば影は自然と濃くなるものだ。食にありつけぬ者がいて何がおかしい? 皇帝陛下の手前、みにくいものは隠さなければいけない」

「でもそれって、完全になくなったわけじゃありませんよね」

「ああ、あぶくとなって消えてしまえばいいのに」


 なんだか話がかみ合っていない気がする。

 以前ならなにかしら口答えしたはずだが、相手の身分を知った今、気軽に口を開くことはできなかった。


 しかたなく目をそらすと、夕焼けに赤く染まった空に黒い影がにじんでいることに気づいた。

 じっと目を凝らしてみれば、なんとそれは空中で蜃気楼しんきろうのように揺らめくだった。


「あの島、空に浮いてる!?」


 遠目に見てもよくわかる。

 山をひとつまるまる切り取ったくらい大きな島が、ぷかぷかと夕空に浮遊していたのだ。


「あれは空桑くうそうという。百味ひゃくみ大陸の中心に位置し、食神しょくしんのみが足を踏み入れることのできる神域だ」

「食神?」

「一部の仙獣せんじゅうから気に入られた食仙しょくせんとは違い、大陸を守護する八柱の大神獣すべてと契約けいやくを交わした者が食神となる」

「け、契約って……」

「簡単に言えば、その実力をもって認められることだ」


 古くから百味大陸に伝わる思想によれば、天地てんち万物ばんぶつには仙獣が宿り、それらは八匹の神獣によって束ねられているらしい。

 そして、この大陸では人ならざる者たちもみなグルメなのだそうだ。

 ゆえに食仙は自らの美食を森羅しんら万象ばんしょうつかさどる仙獣に捧げ、その恩賞として仙力せんりょくたまわる。

 そのなかでも特に強大な八柱の神獣と契約した者は、神と同等の存在として人々から崇拝されるのだ。


 この大陸は、私が思っていたよりもずっとファンタジーな世界なのかもしれない。

 フィクションの世界でしか聞いたことがないような数々の単語に、私は思いをせた。


「ちなみに天地開闢かいびゃく以来、あの空島に足を踏み入れることができたのは十人だけだ」

「たったの十人!?」


 だからこそ、この大陸で食神となる資質を持った食仙は非常に貴重な人材になるのだそうだ。

 厨師ちゅうしが神官と似た役職なら、神獣と仙術せんじゅつでコンタクトできる神仙しんせんはたしかに重宝するかも。


 そうやって太師さまの話を聞いていると、ふと複数の視線がこちらに集まっていることに気づいた。

 護衛の武官ぶかんたちはみんな舟の外に注意を向けているから、おそらく街を歩く人々のものだろう。


 私たちが乗っている凝った意匠いしょうの舟は、宮廷御用達ごようたしの乗り物(たぶん太師さま専用)だ。

 ただでさえ目立つのに、魔性ましょう美丈夫びじょうぶがすぐそばにいる。

 都の若い女性たちの熱く甘いまなざしは、当然のことながら私の隣に注がれていた。


 イケメンでエリート官僚かんりょう。そりゃモテるよね。

 性格は別として! と心のなかでつけ加えたのはここだけの秘密だ。


 けれども代わりに、私の背中には彼女たちが放った冷たい刃がひしひしと突き刺さる。

 なに、あの女。凡庸ぼんようね……と、声に出さなくても不満や疑念が見え見えだ。

 舟が建物と建物のあいだを通る橋をくぐり終えるまで、居心地の悪さにじっと耐えるしかなかった。


 しばらく進んでいくと、進行方向に大門が立ちふさがった。

 朱塗りの壁と波のような瑠璃るりがわらがひときわ目を引く。


「この門を通れば、先はもう宮中という扱いになる」

「うわあ……雰囲気もぜんぜん違うんですね」


 賑やかな市と物静かな宮中を隔てる巨大な門は、荘厳そうごんの一言に尽きた。

 門の内側には数人の門番が立っていて、先のほうにはまだ水路が続いている。

 舟は意外にもあっさりと門をくぐり抜け、本当にそのまま宮中へと入っていった。


 私たちは後宮のある内廷ないていまでは行かずに、手前の外廷がいていで舟から下りた。


「今日は遅いから早めに休め。翌朝、改めて連絡を寄越す」

「あ、ありがとうございます!」


 私は太師さまの部下である官吏かんりに連れられ、専用の居室に案内された。

 心身ともに疲れ切っていた私はそのまま寝台に倒れこむと、底なし沼に沈んでいくように眠りについた。

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