たぬきの三題噺

山葵 狸

一題目 階段の踊り場、クーラー、触る 「踊り場の彼女」


 八月。雲ひとつ無い空の向こうには太陽が燦々と輝き、その陽射しが教室の窓を突き抜け、僕の汗腺を刺激する。


「暑すぎる……」


 本来、僕たちの学校には全教室にクーラーが設置されている。しかしあろうことかこの猛暑の八月にクーラーが故障してしまったというのだ。そんなこともあり、僕のクラスの大勢はこの休み時間中はクーラーが故障していない他のクラスへと涼みに行っているのだ。だが他クラスに友人が居ない僕にとってはそのような行動をとることは難しい。


 この間にも吹き出た汗が頬を、首筋を伝ってワイシャツに吸い込まれ、そのせいでワイシャツは汗ジミだらけだった。


 この暑さにじっとしていられなくなった僕は勢いよく立ち上がり、教室を後にした。無論他クラスに涼みに行く勇気は無い。人気のない、僕だけの避暑地を求めてだ。


 そして意外にも早く避暑地は見つかった。部室棟だ。放課後になると様々なユニフォームを着た生徒が行き交う部室棟……というのは過去の話。今はほとんど使われておらず、さしずめ旧校舎といった感じだ。休み時間はより静かで誰もいない物静かな場所である。またこの部室棟は裏山に面しており、陽射しも木々が遮ってくれるのでそこそこ涼しい。まぁクーラーには及ばないが。


 僕は部室棟の階段を上っていき、踊り場の手すりの腰かけて涼もうとしていた。しかし踊り場まで上ったところで先客がいることに気づいた。


 見たことのない子だった。この暑さだというのに汗ひとつかかず、じっと階段に腰かけて本を読んでいた。窓から差し込む木漏れ日が彼女のサラサラとした黒い長髪と白く透き通った肌を輝かせ、もはや神々しさまで感じた。俗に言う美少女と言って差し支えない子だった。


「その、ジロジロ見ないでもらえる? 読書に集中できないのだけど」


 本から視線ひとつ離さず、表情ひとつ変えずにそう彼女に指摘された。無理もない。初対面の人にジロジロと眺められるのは気持ち悪い以外のなにものでもないだろう。


「ごめんなさい! その、見たことない子だなって思って」


 そう見たことがないのだ。学校という色欲まみれの人間が集まった組織において、これほどの美少女が話題にならない訳が無い。いくらSNSをやっていなかろうが、いくら人間関係が希薄だろうが、僕ほどの存在でも見たことがないということにはならないはずなのだ。


「そう、まぁ無理もないわ。だって私ずっとここにいるから」


 なるほど……と言えるほどの納得感は無く、むしろツッコミ所満載だったが、下手に首を突っ込むのもあれなので黙って頷いた。


「あなた、というかそもそもこの時間帯にここに人が来ることなんてないのだけれど、どうしてここに来たのかしら?」


 どうやらずっとこの場所にいるというのは事実らしく、ここに休み時間人が来ないことも知っているらしい。


「それが僕の教室のクーラーが壊れちゃいまして、ちょっと涼みに」


「じゃあ、クーラーが壊れていない教室に行けばいいじゃない」


 間髪入れずにド正論を言われ、少し狼狽える。ひょっとしたら彼女にとってここは自分だけの場所であり、あまり他人に侵入して欲しくないのかもしれない。


「あっ、その邪魔だったら出て行きます! すみませんでした!」


 僕は言い終わる前に体を普通棟へとターンさせ、階段を下ろうとした。


「別に邪魔ではないわ。ただ理由が気になっただけ。でももう何となく分かったから大丈夫よ」


 ボッチということを口ぶりから理解されてしまったのだろうか。そう考えると恥ずかしいが、折角見つけた避暑地を利用できないなんてことにならなくて何よりだ。


 僕は踊り場の手すりに腰をかけ、スマホを眺める。時折ペラペラと本をめくる音がするくらいで、それ以外はほぼ無音の空間だった。


「あなた、そのスマホだったかしら? その板状の物。それで何をしているの?」


 スマホを持っていないどころか、あまり知らないというのだろうか。筋金入りの箱入り娘ということなのかもしれないが、にしてはこんな普通の高校にいることに違和感を覚える。


「漫画を読んでいるんです。俗に言う電子書籍って言って、漫画から小説までこいつで読めちゃうんです」


 彼女は本からスマホに視線が向いているものの、表情は一切変わらない。説明を理解してもらえてるか不安になってきてしまう。


「すごく便利ね。でもこうして紙の本で読むのはとても素敵なことよ」


 立ち上がった彼女は僕に近づき、一冊の本を僕に手渡した。


「それ、貸してあげるわ。私はいつでもここにいるから、いつでも返しにいらっしゃい」


 そう言って、彼女はまた元の座っていた階段に腰をかけた。


「え、急に。それに僕あんまり小説とかは読まないですし」


 彼女から手渡された本の表紙を見ると、あまり現代風とは言えない、一昔前の作品といった雰囲気を感じる。そして小難しそうだ。


「ほら、もう休み時間終わっちゃうわよ」


 スマホの時計を見ると、そろそろ教室に戻らないとまずそうな時間だった。


「あっ、じゃあとりあえずこれ借りてきます!」


 僕は本を抱えて教室に戻ろうとした。


「待って」


 先程は休み時間が終わると言っていたのに、今度は教室に戻ろうとしていたところを制止された。なんだか不思議である。


「私の名前は萩原 雪乃。覚えても覚えなくてもいいわ」


 そういえばまだ名前を聞いていなかった。まぁ会話もほとんどなかったので当然と言えば当然なのだが。


「萩原さんですね。ちゃんと覚えておきます。僕は横井 大和っていいます」


「横井くんね、覚えておくわ。それじゃあ」


 僕は軽く会釈をして教室へと足早に戻った。ただ授業にあまり身は入らなかった。



 次の日もクーラーは直っていなかった。土日で直すということになったらしい。そして今日もうだるような暑さは変わらず、僕は昨日と同じく部室棟の階段の踊り場に来ていた。


「まだクーラーが直ってないのかしら?」


 そしてやはりというか彼女、萩原さんはここにいた。休み時間が始まってからすぐ来たというのに、相変わらず無表情で読書している。比喩表現ではなく、ずっとここにいると言うのだろうか。だとしたら授業には出てないことになってしまうが。


「はい。どうやら土日に直すみたいで」


「そう」


 短く返事をして彼女は再び本へと視線を移した。彼女が読んでいる本は昨日とは違うものだ。まぁ昨日読んでいたものは自分の手元にあるから当然なのだか。とりあえず手すりに腰かけ、読書を始める。


「昨日はどのくらい読み進めたの?」


 中々にバツの悪い質問をされた。確かに読み進めようとはしたのだが、内容が難しそうだったので気が進まず、寝てしまったのだ。


「えっと、昨日は疲れていたので寝ちゃって」


 そう言うと萩原さんは少し残念そうな顔をしたが、すぐにいつもの無表情に戻った。


「そう、それは仕方ないわ。昨日はうんと暑かったもの」


 そうは言うが、彼女の真っ白な肌は汗ひとつかいていない。汗が元々出ない体質なのか、そもそも日焼け止めを塗ったところでこの夏にこんな真っ白な肌を保てるものだろうか。考えれば考えるほど不思議な子である。


「その、時々私の顔をジーッと見てるけど、そのちゃんと私も恥ずかしいのよ」


 真っ白な肌を少し赤く染めて、萩原さんは読書と言った感じではなく、視線を逸らすために本を見るような表情でそう呟いた。


「なんか、そのすごい白い肌だなって」


 何気なく放った言葉だったが、すごいことを言ってしまった気がして恥ずかしくなってきた。そして萩原さんはというと、本に顔をうずめていた。


「そう」


 そのいつも通りに返事には、心無しか力が抜けているような感じがした。


 萩原さんともう少し仲良くなれるかもしれない。そんな邪な気持ちもあったが、今日はお互い目を合わすことすらなく読書を進めた。僕も一人の色欲にまみれた学生ということか。


「よ……そろそろ時間よ」


 スマホで時間を確認するともう教室に戻らないと行けない時間だった。


「あ、それじゃあ」


「待って」


 呼び止められた。萩原さんは僕が帰ろうとしてから何故か話しかけてくる。もっと早く話しかけてくれれば沢山話せるのに。


「今日は何曜日だったかしら」


 曜日という学生にとって授業を決める大事な要素だというのに、何よりそんなことを萩原さんが把握していないというのが意外だった。


「今日は木曜日ですよ」


「そう、それじゃあ明日もまだクーラーは直っていないのね」


「まぁ、そうなりますね」


「そう、そろそろ行かないとまずいわよ」


 話していたこともあり、かなり時間的にはまずい状態だった。僕はダッシュで教室に戻って行った。



 次の日も僕は踊り場に来ていた。本は読み進めてはいたが、読み終わるのはまだまだ先のようだ。


「だいぶ読み進めたのね」


 萩原さんは僕の手元にある本を見て呟いた。心做しか嬉しそうに感じた。


「はい。読み進めていると、思ったより読みやすくて」


 本の内容はなんとも不思議なものだった。不運な事故で死んでしまった高校生が地縛霊として学校に住み着き、そこで現代の高校生と交流を重ねるという話だった。


「そう、それは何よりだわ」


 そう呟くと彼女は再び本へと視線を戻した。二人のページをめくる音だけが階段に響いている。


「そろそろ時間よ」


「あ、それじゃあ」


「待って」


 もはやそう止められることは分かっていた。二度あることは三度あるだ。


「来週にはクーラー直るのよね?」


「まぁ、そうなりますね。とりあえず土日で読み終えて、月曜日返しに来ますね」


「そう、分かったわ」


 そう言って僕が去る前の萩原さんの顔はどこか寂しげだった。



 本を読み終えた。地縛霊となっていた高校生は現代の高校生と交流を重ねることでこの世への未練が晴れ、成仏していき、現代の高校生がどうしようもない気持ちに襲われるというなんとも言えない終わり方をした。


 とりあえず月曜日に学校で返そうとバッグに本を入れた。



 そして休み時間、僕は踊り場に、萩原さんに会いに来ていた。


「本読み終わったので、返しに来ました」


 萩原さんはそれを聞いて、すくっと立ち上がった。


「別に返さなくてもいいわ、私はその本もう散々読んだから。それより面白かった?」


「面白かったですね。でもなんというかすごい不思議な気持ちになりました」


 そう言うと萩原さんは僕に初めて笑顔を覗かせた。


「それは良かったわ。私、あまり本について話せる友人がいなかったから嬉しいわ」


 美少女の笑顔に僕は若干照れてしまう。


「いえ、こちらこそ面白い本を教えてくれてありがとうございました」


 そう言うと彼女はまた一冊の本を取り出してきた。


「これも貸してあげるわ。それじゃあ」


 彼女はそう言うと普段腰かけている階段を上り始めた。


「あの、どこ行くんですか?」


「ごめんなさいね。今日は私が時間みたいなの。その、横井くんのような人に出会えて良かったわ。それじゃあ」



 そう言って先程よりも眩しい笑顔を見せて、萩原さんは去っていった。


 僕は呆然としていたが、ハッとして階段を急いで上っていき、萩原さんの手を握ろうとしたが、触ることは出来ず、転んでしまった。


 再び起き上がった時には萩原さんの姿は見えなかった。


 走ったせいで本から貸出カードに落ちた。そこに萩原 雪乃という名前と、その隣に二十年ほどの前の日付が書いてあった。僕は本の内容を思い出してなお呆然としていた。


 頬に涙がつたった。




 授業はいつにもまして身が入らなかった。帰り道もぼーっとしてしまっていた。



「あ、危ない!!」






 僕はその日死んだ。ぼーっとしていたせいで死ぬなんて、なんとも下らなくて僕らしい。


 そしてその日から二十年ほどたった今も何故か僕は部室棟の階段の踊り場にいる。そこから離れることは出来ず、あるのは萩原さんから借りた二冊の本だけだ。正直言って暇である。


「あ、あのー私がいたらお邪魔ですか?」


 突然、この学校の制服を着た女の子に話しかけられた。所詮は地縛霊なので人に見られることなんて、話しかけられることなんて文字通り二十年ぶりだ。


「いえ、全然」


 僕がそう言うと彼女は階段の手すりに腰かけ、僕の顔を見張った。


「僕の顔、なんかついてます?」


すると大袈裟に驚いた表情を女の子は見せた。


「あ、いえ! その見たことないなって思って」


「そうですか。僕からしたらあなたの方が見たことないですけどね。どうしてこんな場所に?」


 僕がそう質問をすると、彼女は少し苦笑いを浮かべてこう言った。


「実は教室のクーラーが壊れちゃいまして、ちょっと涼みに」

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