98cc
マツモ草
第1話 嫌なことが続いた日常から逃げ出した僕
あと数日で四月を迎える今日。
町のあちらこちらに植えられている桜が咲き始めた季節とは言え、早朝の空気は未だ冷たく、まだ白い空に向かってハァーっと吐いた息は、冬の余韻を残すように白く昇って消えて行った。
玄関の鍵をそっと閉めて、納屋を改造した車庫に止められているバイクの元まで歩き、細い車体に括り付けられた大量の荷物を確認する。
忘れ物は大丈夫だな。スマホ良し!財布も持った。
最悪忘れ物があってもスマホと財布(の中身)があればなんとかなるだろう。
僕は、行ってきます。と父さんと妹に心の中で挨拶をしてから、未だ夢の中にいるであろう二人を起こさない様に、満タンのガソリンと荷物で重くなったバイクを押して、周りに人家の無い小さな公園の駐車場に着くと、サイドスタンドを立ててキーをONにする。
このくらいの気温ならチョークは使わなくても大丈夫だろう。
いつも通りニュートラルランプがグリーンに輝いたのを確認し、アクセルをほんの数ミリ程度軽く開けたままキックペダルを一気に踏み下ろすと、パパパパッと軽快な排気音と共に水冷2ストローク49㏄のエンジンが一発で目を覚ました。
アクセルを更に開けると、パラパラという排気音がビィーンといった甲高い2ストローク独特の排気音に変化し、黒い純正マフラーから大量の白煙が2ストロークオイルの香りと共に吐き出される。
アクセルを戻し、荷物のゆるみが無いかを再度確認してから、黒いフルフェイスのヘルメットを被り、少し冷たくなった手にグローブをはめる。
暖機も済んでパラパラと安定した排気音を奏でる愛車に跨ると、クラッチレバーを握り込みシフトペダルを踏み込んだ。
公園の駐車場を出る為に左ウインカーを出して、車が無いか左右を確認してアクセルを開けた。が、その瞬間、車体にガツンと衝撃が走った。
(あっ......サイドスタンド上げ忘れてた!)
幸いスピードも出ていなくてちょっとよろけただけで済んだけど、何か締まらない出発になっちゃったな。
ヘルメットの中で一人顔を赤くしつつも、改めて出発だ。
「さあ、行こう!」
もうすぐ高校三年になる十七歳の春休み。
この半年間嫌な事が続いた現実から逃避行しようと思い立った、初めてのソロでのロングツーリング。
この旅に何が待ち受けているのか、大きな期待とワクワクと少しの不安を抱えてクラッチを繋ぐと、僕の相棒は老体を感じさせない軽い排気音と共に走り出した。
♢♢♢
左に朝日を浴びながら市内の県道をひたすら南下すること三十分。国道1号にぶつかる。
伊豆方面に行くというざっくりとした予定だけで、特に目的地もなく、急ぐ旅でもないから、国道1号を突っ切って更に南を目指し、国道134号まで出てから小田原方面に向かって進んでいく。
暫くすると左手には時々湘南の海が目に入るようになってきた。
おぉー海だー、などと感動しつつも、大きな国道は大型トラックも沢山走っているし、車も結構スピードを出しているから、三十キロしか出せない原付じゃおっかない。
だから交通量の少ない朝早い時間に大きな道路を通過したい一心で、休憩せずにひたすら西に向かった。
今回のツーリングの道連れはヤマハRZ50 初期型
父さんが高校生の時にバイトして、中古で初めて買ったバイクらしい。
バイクが好きな父さんは、今でも車庫に原付から大型バイクまで十数台持っているけど、初めて手に入れたRZ50だけは手放せなくて、僕が一年半前に小型自動二輪免許を取った時に僕に譲ってくれた。
僕はせっかく小型二輪の免許を取ったからと、本当は同じヤマハのDT125っていうオフロードバイクが良かったけど、「まずはこいつからだ。規制前だから原付にしてはキビキビ走るぞ」と言って、四十年ほど前のお爺ちゃんバイク、RZ50を押し付けられた。
黒いタンクに色褪せた青いラインが入った車体。四角いライトに四角いメーター。
元々は黒かったと思われるプラスチック製のラジエターカバーは退色して白っぽいグレーになっていて、左右のグリップエンドやステップは転倒したのか、もれなく削れていたりする。
まあ、父さんが時々整備していてまだ問題なく走れるって言われたし、それにタダで貰えるんだから文句は言えない。
それに実際に乗ってみたら、前傾姿勢は少し辛いけど、大柄な車体は窮屈さを感じないし、四十年ほど前のバイクとは思えないほどキビキビと走ったので今では結構気に入っている。
ハンドルとかステップとか、パッと見て純正じゃないなと思う所はあったけど、父さんが乗っていた時に付いていたチャンバーだけはうるさくて近所迷惑になるので、抵抗する父さんを説き伏せてノーマルマフラーに変えて貰った。
こいつが僕の愛車だ。
♢♢♢
国道134号は大磯から真っすぐ進んでしまうと自動車専用の有料道路、西湘バイパスとなってしまい原付では走れないので、大磯港手前で国道1号に合流して更に西へ向かう。
小田原市内を横断し、国道1号が東海道本線にぶつかる所を左に曲がって国道135号に入る。
国道135号に入るとすぐに空気の温度が変わり、風が温かくなった。
三月末とは言え少し肌寒かった風が、春の暖かな風に変わったのを感じる。
この道はバイクの免許を取ってから何回か通ったことがあるけど、毎回この場所で気温が変わるのを感じる。
いや、ここだけじゃなく、家の近所でも明らかに空気が暖かくなったり冷たくなったりするのが分かる場所がある事はバイクに乗るようになって初めて感じた事だった。
車や徒歩では分からなかった空気の変化はスピードが出て、尚且つ外気に触れているバイクならではの感覚だと思う。
そんな感覚を楽しみつつ、早川港を過ぎてから間近に迫る青い海を左手に、更に南下していく。
このまま国道を真っすぐ進んでも良いのだけど、車の邪魔にもなるし、危なくて落ち着かないので早々と旧道を走ることにする。
山肌を縫うようにくねくねと通る旧道は海沿いの国道に比べて狭いけど、交通量も比較的少なく、始めのうち続く比較的急な上り坂も、RZ50は2ストローク特有のパアァァーンという軽快な排気音と共に全くストレスなくスイスイと登って行く。
朝日に煌めく相模湾を眼下に道路の左右に広がるミカン畑の中を快調に走る僕だったが、ここまでずっと車に注意しながら緊張して走って来たせいか、急に疲れを感じ始めた。
メーター横に取り付けたスマホを確認すると、時刻はもうすぐ午前八時になろうかと言う所で、家を出てから既に一時間半近く経っていた。
「あそこで少し休憩しよう」
ヘルメットの中でそう独り言を呟き、道の左側の視界が開けて海が大きく見える右カーブに差し掛かりスピードを落とす。
カーブの外側は数台の車が止められるようになっていて、閉店したっぽい小さな食堂と自動販売機、いくつかのベンチがあるだけの広場のような場所になっていたので、カーブ手前の入口にRZを滑り込ませると、車が一台も止まっていない駐車スペースの端に停車した。
「ヒャァァァーーーーッホ!」
エンジンを切り、バイクを降りてからヘルメットを脱ぐと、海風が全身を吹き抜けて行く。
目の前に広がる景色と開放感で、旅に出た事を実感したためか気分が上がって思わず大声で奇声をあげてしまった。
(走っている時は余り感じなかったけど、結構つかれたな)
一時間半ぶりに地面に立つと、膝に力が入らないようなフワフワした感じがする。
でも嫌な疲労感ではなく、スポーツをした後のような爽やかな余韻が残る疲労感。
そんな疲れを感じつつ、ここまで一番頑張ったRZに改めて視線を落とし、お疲れさん。と声を掛けた。
RZも少し疲れたのか、エンジンからキンキンと音が出そうな感じで陽炎のような熱を発しながら、海風で身体をクールダウンさせている。
さてと、バイク乗りの休憩と言えばコーヒーだな。
自分の勝手な想像でバイク乗りはコーヒーと決めつけ、今までもバイクに乗って出かけた時の休憩には缶コーヒーを飲んでいた僕は、今日も未だに少し苦手な缶コーヒーを飲もうかと、三十メートル程先の小さな食堂の横にある自動販売機に目を向けた。
すると、閉まった食堂の前に一台のバイクが止まっているのが目に入り、この場所に先客が居る事に気が付いた。
てっきり自分だけかと思っていたので、ここに着いてから自分が変な言動をしていなかったか慌てて思い返してみた。
着いてから深呼吸して、バイクに話しかけただけ、だ。そう、変な奇声はあげてない。
自分にそう言い聞かせ、改めて止まっているバイクに目を向ける。
原付だろうか?RZと比べると一回り小さい車体はタンク、フロントフェンダー、サイドカバーが白で、ホイールが黒のシンプルなカラーリング。
その真っ白なタンクに何かメーカー名か車名のようなものが書いてあるが、遠くてよく読めない。
ライダーは?と思ったその時、車体の向こう側から人影が急に立ち上がり僕の方を向いた。
車体と同じ真っ白なフルフェイスのヘルメットを被り、ライトグレーのライダーズジャケットに黒のジーンズといった格好で、小柄な身長からして多分女の人だと思われた。
(女の人?奇声を上げたのを聞かれた?)
一瞬、コーヒーを諦めてこのまま立ち去ることも頭によぎったけど、来た早々そそくさと出発したんじゃ、それこそ怪しい奴だと思われかねないと思い直し、一呼吸を置いてから勇気を出してジリジリと自動販売機に向うが、彼女?はこっちの様子を伺うようにじっと僕を見ている気がする。
別に何か悪い事をしたわけでもないし、悪い事をしようとも思ってない。
ただちょっと奇声を上げたような気がするだけだし、そんなに睨まないで欲しい。
休日の街中で名字を知っている程度のクラスの女子を見掛けて目が合い、挨拶くらいしたほうがいいものか悩むような時と同じような緊張感の中、あと少しで何事もなく自販機に辿り着く!そう思い、少し油断して緊張を解いた瞬間だった。
「あの......すみません」
僕の方を向いたままの白いヘルメットが、かわいらしい声を発した。
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