ユリエ
さら・むいみ
第1話
「ユリエ、夕食出来たわよ」
部屋のインターホンから聞こえた母親の声に、ユリエは「ふう……」と深い溜め息を突きながら、高校の課題をしていた机から離れた。そして、乗っている電動車イスの向きを変え、部屋を出ると。2階にある部屋から1階まで、車イス用に作られたスロープをつたって、ユリエは父親と母親の待つ食卓へ向った。
「よう、降りて来たかい、お姫様が」
食卓に近づくと、早速父親の声が聞こえた。早くも酒の臭いを漂わせ、「ジロリ」とこちらを舐めるように見つめている。ユリエはその視線を気にしないようにして、父親のすぐ隣である自分の席についた。
「こうやって母親に全部用意してもらって、それを食べるだけなんだからな。いいご身分だよな、まったく!」
ユリエは食事の後には洗い物などもしているのだが、それは横にいる父親の頭の中にはないのだろう。その頃には酔いが回って、ちゃんとした記憶など残っていないのだろうから。
「高い車イスに乗って、学校へも行かせてもらって。そんな体でなんの不自由もなく暮らせてるんだ、俺たちにいくら感謝しても感謝しきれないよな。なあ?!」
……それは本当に父親の言う通りなのだが、それをこうして毎朝毎晩、お仕着せがましく聞かされたら、言われた方はたまったものではない。しかしユリエは、何も言い返すことなく黙り込んでいた。言い返すことなど、出来ないのだ。もし、それをやったら……!
尚も自分を罵倒し続ける父親の声を聞きながら、ユリエが「いただきます……」と言おうとした時。
「せっかく作ってもらったんだからな、残さずしっかり食えよ!」
父親がそう言いながら、酔っ払った勢いで、いきなりユリエの背中を「ばしーーん!」と叩いた。
「あっ?!」
ユリエは不意を突かれ、また軽くお辞儀をしようとしていた体勢だったこともあり。そのまま食卓に前のめりに倒れ込む形になって、目の前にあった味噌汁の茶碗をひっくり返してしまった。
びしっっ!!
途端に、父親の平手が飛んできた。
「てめえ、せっかく作ってやったものを、こぼしやがって!」
ユリエは慌てて、「すいません、ごめんなさい!」と謝りながら、流し台にある雑巾を取りに行こうと、車イスの向きを変えようとしたが。そこで、父親に後ろから思い切り、脇腹辺りを「どん!」と殴りつけられた。これも不意打ちだったユリエはバランスを失い、車イスから転げ落ちた。
ユリエが必死に車イスの手すりにつかまり、もう一度車イスに座ろうとした時、父親がユリエがつかまったのと反対側の手すりを蹴飛ばした。
がつんっ……!!
ちょうどユリエの顔の前にあった手すりが、まともユリエの額にぶち当たった。一瞬、ユリエは気を失うくらいの衝撃を受け、両手で額を押さえたまま、その場に倒れ込んだ。
「なに寝転んでんだ、おい! ちゃんと起きろ!」
尚も額を押さえたままのユリエを父親は強引に抱き起こし、車イスに座らせた。そして車イスを食卓の方に向き直し、ユリエの後頭部を片手で「ぐいっ」と掴むと、ユリエの顔を食卓に押し付けた。
「雑巾じゃねえ、お前が自分でやるんだ! こぼした汁を、お前が吸い取るんだよ!」
逆らうことの出来ないユリエは言われた通り、食卓に接した口から直接、こぼれた味噌汁を「じゅう、じゅう」と吸い始めた。するとユリエの額から、ぽた、ぽた、と赤いものが食卓に滴り落ちた。手すりにぶつけた箇所から出血し、それが食卓に点々と、赤い染みを付けていた。
「てめえ、味噌汁をこぼした上に、血で汚しやがって! それも全部吸い取れよ、味噌汁の具も、てめえの血も、全部てめえで吸い取るんだ!!」
強引に押さえつけられている屈辱と、ズキズキとうずくように痛む額の傷、殴られた脇腹の痛み。それらを全部自分の胸の中に抱え込みながら、ユリエは血の味が混じった汁を吸い続けた。その間、食卓の向かい側に座っている母親は、何事もなかったように箸を進めていた。自分は今起きていることに、関心がないとでもいうように。
知らぬうち流していた涙を食卓にポタポタと落としながら、ユリエは考えていた。
……ここは、あたしの家じゃない。この人は、私の親なんかじゃない! いつかきっと、誰かがあたしを迎えに来てくれる。いつか、きっと……!
それは毎日のように繰り返される、この痛みと屈辱の時間に耐えるための、ユリエのただひとつの手段だった。そうでも考えない限り、いま自分が置かれているこの状況に、耐え続ける術はなかったのだった。
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