洗面台の赤い女
Black river
洗面台の赤い女
「多分押し入れのどっかにあると思うんだけどさ~。お母さん、探してくれない?」
ビデオ通話をしている画面の向こうで、娘の恵が眉毛をハの字にして言った。
「わかった。ちょっと見てみるわ」
私は携帯を手に取り、通話を繋げたまま二階へと向かう。
恵が使っていた部屋はたまに掃除する程度なので、ドアを開けると中に溜まっていた緩い塊のような空気が流れ出した。とりあえず籠った空気を押し出すべく、磨りガラスの窓を開ける。
途端に、視界に大きな緑の物体が現れた。
「わっ!」
「どうしたの?」
「いや、網戸に大きなカマキリがくっついてた」
これでも庭いじりぐらいはするので、虫は苦手ではない。しかし突然出現されると、やはり少し面食らってしまう。
カマキリは髪の毛のように細い触覚をゆらゆらと揺らしながら、大きな双眼で横向きに私を見下ろしていた。
網戸を内側からポンポンと叩くと、網の上をゆっくりと歩いてどこかへ行ってしまった。
「急に大きな声出さないでよ、びっくりするじゃん」
「ごめんって」
カマキリがいなくなったので網戸も開けて、部屋の中に向き直った。
「でも、なんだって急に小学校の卒業アルバムなんて必要になったのよ」
「仕方がないじゃん、志保が見たいって言うんだからさ」
娘の恵は大学進学に伴い、上京して一人暮らしを始めた。
志保という子は恵が小学生の頃の同級生だが、中学校に進む時別の学校に行くことになり、それ以来長い間音信不通だった。それがこの間、ばったりと東京のど真ん中で再会したらしい。
慣れない都会暮らしの寂しさも相まって、二人は最近、お互いの家を行き来したり、一緒に出かけたりすることが増えたのだという。
「それじゃあ志保ちゃんのアルバムを見せてもらえばいいじゃない」
「それが志保のお母さんがさ、何だっけあの、やたらもの捨てるやつ。だん、なんとか」
「断捨離?」
「そうそう断捨離。志保のお母さんが断捨離にハマって、家の物をいろいろ適当に捨てちゃったんだって。で、捨てる荷物にうっかり卒アルが混じってたのに気づかなかったみたいでさ、家中どこ探しても見当たらないんだって」
「うそ〜。アルバムみたいな大きなもの間違えて捨てるかね、普通」
私は壁際の本棚に近づき、画面の向こうの恵にも見えるように、携帯を動かした。お気に入りの漫画や小説は引っ越しの時に持って行ったらしく、今はやたらと歯抜けの目立つ棚に、古い雑誌や高校の参考書などが、過ぎ去った時間の残渣として残されている。
「ここには無いのね?」
一応聞いてはみるが、ざっと見回してもそれらしきものは見当たらない。
「無いと思う。小学校の卒アルなんて最近ほとんど見てないし。きっと押し入れの中だよ」
本棚の向かい側にある押し入れの引き戸を開けると、二段に区切られた棚の下の方に、箱やら鞄やらがごちゃごちゃと詰め込まれていた。あるとすれば、このごちゃごちゃの奥だろう。
「ちょっと恵、いらない荷物適当に押し込んでいったでしょ」
「いらなくないよ。置いとくやつをしまっただけ」
「とても置いとく価値があるもんばっかりには見えないけどねえ」
空箱を三つ連続で引っ張り出した私は言った。
「あんたこそ、断捨離でもした方がいいんじゃない」
「ちょっと!勝手に捨てないでよ」
「はいはい、分かってますよ。その代わり、今度帰省したらちゃんと整理してね」
今なら絶対に着ないであろう、数年前の流行りの服が出てきたが、一応彼女の意見を尊重して元通り段ボールに納めておく。手前に積み上がっていた荷物を退けると、奥に古いノートや教科書類がひとまとめに積み上げられているのが見えた。
その山の一番上に、一際目立つ薄い箱がある。
「あった、これかな」
手を伸ばして埃の積もった濃い緑色の箱を引っ張り出すと、案の定、恵が通っていた小学校の校章が描かれている。
「あったよ」
埃を払ったアルバムを画面に映す。
「マジで!ありがとう。じゃあこっちに送ってくれない?着払いでいいから」
「わかった。明日、郵便局に行って送るよ」
「よろしく」
「はーい」
電子音と共に通話が切れ、画面が暗転する。
さて、アルバム以外の荷物は元に戻さなければ。
その時ふと、さっきのノートの山に、他とは紙質の違う青い表紙の冊子が見えた。
手に取ってみると、これも恵が小学生の頃、学校で配られた文集だった。そういえば彼女の小学校では、一年間学校で提出した作文や読書感想文のうち、優秀なものを先生がまとめて文集にするという伝統があった。たしか恵の作文が載ったこともあったはずだ。
目次を開き、なんとなく娘の名前を探す。すると目次の中程に
「林間学校の思い出 五年一組 滝川 恵…二十四ページ」
とあるのを見つけた。
該当のページには原稿用紙三枚ほどの分量で、林間学校の思い出が綴られていた。小学生らしい文体で、友達と山登りをしたこと、飯ごう炊さんでカレーを作ったこと、夜にした肝試しが怖かったことなどが書かれていた。
家族から離れて宿泊するのが初めてだったこともあり、当時は夫と二人、家で心配しながら帰りを待っていた。だがそんな私たちの心配を余所に、本人はカラッとした顔で「楽しかったー」と言いながら戻ってきたのをよく覚えている。
文集にも
「家族と離れて過ごした四日間は、はじまる前は不安だったけど、楽しくてあっという間でした」
と書かれていた。この文集もアルバムと一緒に送ってあげようかしら、なんて考えながら読み進めていると、ふと異様な何かが目の端に入り込んだ気がした。
作文の末尾、普通なら「楽しかったです。また行きたいと思いました」などといった言葉が収まっていそうな位置に、違和感のある文字列が入っていたのだ。
「洗面台に赤い女がいました。」
その一言で作文は終わっていた。
「何これ」
何度も読み返したが、まるでとってつけたように、それまでの文脈と一切関係のない言葉が入り込んでいる。赤い女というやや不気味な文言なので、肝試しの話とつながっているのかと思ったが、どうやらそういう訳でもないらしい。ただ、
「洗面台に赤い女がいました。」
という文だけが作文の最後に、まさしく蛇足の如くぶら下がっている状態だった。
これはどういうことだろう。
文集を片手に持ったまましばし首を捻っていると、傍らに置いたままだった携帯の画面が明るくなった。通知欄に時刻を知らせるリマインドが表示されている。うっかりしていたが、そろそろパートに出かける時間だ。
私はとりあえず文集をまた押し入れに戻し、出かける準備を始めた。
私のパートは、百貨店の地下にある総菜売り場で週に何度かレジに立つことである。今日はいつもより出勤時間が遅いシフトだが、総菜売り場は夕方から夜にかけてが最も混雑するので正直憂鬱だ。
「あ、滝川さんこんにちは」
ロッカールームで着替えていると、後ろから声をかけられた。
「あら、岡山さん。こんにちは、今日も暑いわね」
岡山聡子は同じ総菜店で働いているパート仲間だ。とは言っても私より十以上も歳下で、今年四歳になる息子がいる。
「ホントに暑いですね~。まだ六月だっていうのに」
「今日、ケンジくんは?」
「保育園です。今夜は旦那も遅くなるみたいなので、ちょっと早めに抜けて迎えに行ってきます。閉店まで残れなくてすみません」
「いいのよ、別に。私もこの間調子悪いときシフト代わってもらったし、お互い様じゃない。それにうちは夫の帰りも遅いし、娘もいないから、そんなに焦らなくていいのよ」
「滝川さんの娘さんって、もう大学生になられたんでしたっけ」
「そうそう、大学二年生」
「わぁ、大人ですね」
「そんなことないわよ。この間だって・・・」
そんなの他愛のない会話をしつつ、ロッカールームを出て、売り場へと向かう。
いつも通り慌ただしい夕方の店頭で接客をしていると、さっきの不気味な文集のことは次第に意識の片隅に追いやられていった。
翌日、郵便局に行き、卒業アルバムを発送する手続きをした。
帰る道々、私は携帯で恵に電話をかけた。
「もしもし、今アルバム送ったよ」
「本当?ありがとう!」
「埃だらけだったから、ちょっと拭いといたわよ」
「そうなんだ。急にお願いしちゃってごめんね」
その時私の脳裏に、昨日見た『洗面台に赤い女がいました。』という文字がよぎった。あの作文を書いた時のことを、娘は覚えているのだろうか。
「あのさ、恵」
「何?」
「昔あんたの小学校で、先生が作文とか集めた文集作ってたでしょ。年に一回配られるやつ」
「文集?ああ、なんかあった、かな。あんまり覚えてないけど」
やはりというべきか、あの作文を書いたこと自体がおぼろげらしい。
林間学校の話をすると、
「あー、そういえばあの作文は文集に載ってたんだっけ」
と思い出したように言った。
「それでさ、あんた林間学校で、なんか怖いことあったの?」
「怖いこと?いや、あ、でも三日目の夜にやった肝試しは結構怖かったよ。志保と同じ班だったんだけど、二人ともきゃーきゃー言いながら歩いたっけ」
「その肝試しでさ、何か見なかった?」
「見なかったって、何を?」
「うーん。その、幽霊とか?」
私は何を言っているのだろう。
しかし、「洗面台の赤い女」は、何かこの世の常識で説明できるものではない、という直感が、私の中ではたらいていた。
「ないよ〜。先生たちが途中でちゃちなおばけのコスプレして驚かしてきただけ。大体そんなことがあったら絶対覚えてるし、いろんな人に喋ってるって」
確かに恵は子どものころから、学校や出先であったことは何でも話してくれる子だった。幽霊なんて見た日には、到底黙ってはいられないだろう。
「なんでそんなこと聞くの?」
電話越しに娘が不審そうに言った。
「アルバムを探してるときに、小学校の文集を見つけたんだよ。あんたは林間学校の時のことを書いてたんだけど、その作文の最後に『洗面台に赤い女がいました。』って書いてあった」
「洗面台に赤い女?何の話?」
「そんなのわからないわよ。あんたが書いたんでしょ」
「私そんなこと書いてないよ。もう昔のことだからあんまり覚えてないけど、赤い女なんか多分いなかったし。お母さんの勘違いじゃないの?」
「そんなことないよ。昨日はっきり見たんだから」
「ふーん、私は書いた記憶ないけどなあ」
電話越しの声は、嘘をついているようには聞こえない。では昨日、私が読んだあの作文は何だったのか。帰ったらもう一度確認してみようと思った。
家に着くと私は娘の部屋に直行した。押し入れから昨日しまったばかりの文集を引っ張り出し、二十四ページを開く。
ところが、
「あれ?」
娘の作文は、あたりまえのことだが昨日と同じページにあった。
だが何度読み返しても、どこにも「洗面台に赤い女がいました。」という文章はない。
その代わり作文は「林間学校はとても楽しくて、終わるのが残念でした。」という、当たり障りのない一文で締めくくられていた。
「どういうこと?」
ページをぺらぺらと捲り、恵の前後に掲載されている別の生徒の作文も確認する。だが、どの作文のどの部分にも、赤い女についてなど書かれてはいない。
私の見間違いだったのだろうか。
記憶には確かに残っているあの一文が、印刷されているはずの冊子から忽然と消えてしまっていた。
その日も午後はパートに出かけた。店頭での接客がひと段落して休憩に入った私は、店舗からバックヤードに戻ったところで声をかけられた。
「あっ、滝川さん。すみません、ちょっと良いですか?」
「あら、中山さん」
中山さんは私が勤めている惣菜屋の店長だ。年齢は私と同じか少し上ぐらいで、店で被る衛生帽子を脱いだ頭には、もうだいぶ白いものが混じっている。
「どうかされましたか?」
「いや、大したことではないんですが。ちょっとお聞きしたいことがあって」
そう言いながら小柄な中山さんは、そそくさと私をバックヤードの一角にある事務所まで案内した。部屋の片隅にあるスチール机には、日報用のノートが置いてあった。
うちの店では、仕事を上がる前に必ず日報をつけることになっている。私も昨日の帰り際に書いたばかりだ。
「滝川さん、昨日、何かまずいことでもありましたか?」
だしぬけに中山さんは言った。
「まずいこと、ですか?」
私は咄嗟に昨夜の記憶をフラッシュバックさせる。
いつもと特に変わらない、忙しい夜だった。最近入った新人の子が、うっかりお客さんの注文を間違えて袋に入れてしまうというトラブルもあったが、結局穏便に解決できたので、大事には発展しなかった。確か日報にもそう書いていたはずだ。
私がそう言うと、
「いや、その件は別に良いんです。問題はその後です」
中山さんは眉間に皺を寄せながら、続けて思いもよらないことを言った。
「日報の最後に『洗面台に赤い女がいました。』って書いてましたけど、あれは何のことですか。トイレに不審者でもいたんですか?」
「えっ?何で…」
「何でって、聞きたいのはこっちですよ。昨日のことなんですから、まさか忘れたってことはないでしょう?」
確かにここ数日、例の卒業文集がずっと脳の片隅に現れたり消えたりしていたことは間違いない。しかし、だからといってそれをうっかり日報に書き込むほど、私もぼーっと生きているわけではない。
「本当にそんなこと書いてました?」
「本当ですよ、なんなら自分で見て確かめてください」
中山さんは日報を手に取ってパラパラとめくった。
「えーっと、あ、ここですね、このページ。署名欄も滝川になってますから間違いないですよ」
彼はページの上からずっと紙面をなぞるように視線を動かしていったが、徐々に眉間に皺が寄りはじめた。
「あれ、おかしいなこの辺に」
「どうしたんですか?」
私は横からノートを覗き込んだ。
そこには確かに、私の字で書かれた昨日の記録が残っていた。
だが、赤い女のことなど、どこにも書いていない。
「ここじゃなかったのかな・・・」
中山さんは首を傾げながら、ページを前に後ろにパラパラとめくった。
だが、目的の文字列は見当たらないらしい。その様子に妙なデジャヴを感じた私は、なぜだか背筋が少し冷たくなった。
結局、この件は有耶無耶になり、私は釈然としないまま帰路に着いた。
中山さんは
「僕の勘違いだったみたいです、すみませんね」
と謝ってくれたが、根も葉もない誤解ではないだけに、気持ちが悪い。
日報はシャープペンシルで書いているので、その気になれば消したり書き換えたりすることが可能だ。だが、誰がそんなことをするだろうか。そもそも、私があの文集について話したのは娘の恵だけで、彼女は今遠く離れた東京にいる。
つまり昨日、あの場所で、あの日報に赤い女の話を書けたのは、私だけなのだ。
だが、自分には書いたという意識もなければ、物的証拠も残っていない。
恵の時だって、彼女自身はそんなものを書いた記憶はないと言っていた。
文集も日報も、ただ一時、それを読んだ人間にだけ「赤い女について書かれた文章を見た」という記憶が残り、書いた人間は全く覚えていない。
まるであの不気味な文字列が、私たちの視界を端から端へと渡り歩きながら、巧妙に逃げ回っているようだ。
これは一体何なのだろうか。
夜道を歩きながら悶々と考えていると、携帯の画面が光り、メッセージを受信した。開いてみると中山さんからの連絡で、総菜屋の店員のグループに一斉送信されていた。
「店長の中山です。いきなりの連絡になってしまい申し訳ないのですが、母の容態が急に悪くなったとのことで、明日はお店をお休みさせていただくことになりました。ご迷惑をおかけいたしますが、不在時のことはチーフの山根さんにお願いしているので、分からないことなどあれば、そちらに聞いて下さい。突然すみません。よろしくお願いします。」
そういえば中山さんのお母さんは闘病中で入院生活が長い、という噂を聞いたことがあった。
店長という役職柄、色々と日頃からストレスも多かっただろう。そう無理に関連づければ、日報の騒動も疲れた店長の見間違いと、いう具合にこじつけることは出来そうだ。
だが、
「それにしたってねえ」
自分自身が同じ体験をしているだけに、これは単なる思い込みや勘違いで済まされることではない気がした。
だが、だからといって何をすることもできない。
文集からも日報からも、「洗面台の赤い女」は消えてしまったのだ。これ以上何が起こるというのだろうか。
家に帰り着くと、私は玄関から布団へとつながる緩慢としたルーティンに身を任せることにし、赤い女について考えるのはやめた。
翌朝、花に水をやろうと庭に出た。
軒先にある水を溜めたバケツを見ると、いつぞやのカマキリが浮かんでいる。ぴくりとも動かないので、おそらく死んでいるのだろう。気の毒に、と思いつつ、とりあえず掬おうと近くにあった柄杓を手に取った。
カマキリの死骸を周りの水もろとも持ち上げる。
その時、カマキリの腹の先から黒い紐のような物が垂れているのに気づいた。気になった私が思わず手を伸ばした瞬間、黒い紐はうねうねと動いて死骸から離脱し、再びバケツの中に飛び込んだ。
その動きがあまりにも機敏だったので、私は柄杓を持ったまま驚いて数歩後退った。
なんだこれは。
柄杓に浮かぶカマキリに目をやったが、やはりこいつは死んだままだ。近くの適当な地面にそれを捨てると、私はおそるおそるとまたバケツを覗きこんだ。
先程の紐状の物体はうねうねと泳ぎ回っている。非常に気持ち悪い。死骸と同じように柄杓で掬ってみようかとも思ったが、もしも何かの拍子で噛まれたりしたら一大事だ。
一旦バケツはそのままにして、ポケットから携帯を取り出す。検索サイトを開き、「カマキリ 黒い紐」と入力すると、意外にもすぐに答えがでた。
「ハリガネムシ?」
ハリガネムシとは、カマキリなどに寄生する寄生虫の一種で、産卵の時期になると寄生しているカマキリを水に飛び込ませて水中に脱出するという、なかなかにおぞましい生態を持った生物である、と書かれていた。
幸いなことに人間には寄生しない、という旨の記述を見つけたので、それを信じて対処することにした。
申し訳ないが我が家に寄生虫の住処はないので、柄杓で掬ってカマキリの死骸とともに花壇の下に眠ってもらおう。
庭仕事を終えて、世の中には気味の悪い生き物もいるものだ、などと思い返しながらリビングでお茶を飲んでいると、突然携帯が鳴った。
「もしもし」
「もしもし、滝川さん?パートの岡山です、突然すみません」
「あら、岡山さん。どうしたの?」
「いや、ちょっと気になることがあったんですけど、今お時間大丈夫ですか」
「全然大丈夫よ。何かあった?」
「実は・・・昨日の夜、店長からメッセージが届きましたよね」
「ええ、お母様の容態が悪くなったから今日は休むって」
「はい。それで、あのメッセージなんですけど、ちょっと変じゃなかったですか?」
「そうだったかしら」
「最後の方に、赤い女がどう、とかって書いてましたよね」
「えっ?岡山さん。あなた今なんて言った?」
「ですから、店長のメッセージの最後に赤い女がどうこう、って書いてあったじゃないですか。あれってどういう意味なんでしょうか?」
「うそ」
私はすぐに昨日届いたメッセージを開く。上から下までしっかり読み返してみるが、岡山聡子が言っているような内容は書かれていない。
また赤い女だ。
「岡山さん、それは本当なの?」
「本当ですよ。私確かに見たんですから。はっきりと『洗面台に赤い女がいました。』って書いてありました」
その一言で、それまで私の脳内で渦巻いていたもやもやとしたものが、急速に形を成しはじめた。
「岡山さん」
「なんですか?」
「もう一度今、メッセージの画面を開いてみて。店長からきたやつを確認して」
「はい・・・」
私の推測によると。
しばしの沈黙の後、岡山さんの申し訳なさそうな声が聞こえた。
「滝川さん、すみません。私の勘違いだったみたいです。そんなこと書いてませんでした」
「いえ、いいのよ」
「お騒がせしてしまってごめんなさい、すみませんでした」
「ねえ、岡山さん」
「何ですか?」
「そのメッセージを見てから、何か変わったことはあった?身体の調子が悪い、とか。」
「いえ、そんなことは全然・・・もしかしてあれって私の勘違いじゃなくって、実はすごくヤバいものだったりとか?」
「いやいや、そうじゃなくって。何も無いならそれで大丈夫だから。安心して」
不審がる岡山さんをなんとかなだめて、私は通話を切った。
私はその場で立ち上がって大きく深呼吸をし、脳内に広がった思考に酸素を送り込んだ。
やはり間違いない。
どういう仕組みか分からないが、あの『洗面台に赤い女がいました。』という文字列は、生きている。
あの文字列は見た人の、おそらくは目を通って脳の中に入り込む。まるでカマキリの体内に潜り込むハリガネムシのように。
私たちは普段でも、読んだり見たりした文章を記憶していることがあるが、それとは根本的に違う。文字列は読んだ人の体内に物理的に入って、つまり寄生して移動するのだ。寄生された人間は、文字列を次なる場所に運ぶ宿主となる。
そして宿主となった人間は、次に自分がどこか別の場所で文字を書くとき、自分の意識と関係なく「洗面台に赤い女がいました。」という文字列を書いてしまうのだ。
そしてそれを見た別の人間がまた宿主となり・・・
そこまで想像して怖くなった私は、頭を振って考えるのをやめた。
あの文字列が私たちにどんな影響を与えるのか、あるいは与えないのかは分からない。人間を単に移動手段として使っているだけならまだ良いが、もしかしたら脳の中に卵なぞ産み付けられている可能性だってある。
今の所私も、店長も、岡山さんも、いつもと変わらない正常な生活が出来ているように感じられるが、それはあくまでも宿主側の主観でしかない。
孵化を待つ寄生虫の卵のように、私たちの脳の片隅で何かが少しづつ、だが、確実に変容している可能性だってあるのだ。
私たちの中を通ったあの文字列が、どんな置き土産を残していったのか。それは誰にも分からないのだ。
それに、人に寄生する文字列が、あれ一つだという保証もない。『洗面台に赤い女がいました。』はあまりにも特徴的だったため、すぐにその不自然さに気づくことができた。
でも、もしかしたら私たちは日頃から、色々な文字列に寄生されながら生活をしているのかもしれない。
「今なら三十%オフ!」「こちら側のどこからでも切れます」「ご使用の前によくご確認ください」「夏期講習受講生募集」「禁煙」「冷やし中華始めました」「いつもご利用いただき誠にありがとうございます」「ダメ・ゼッタイ」「定礎」
私たちの身の回りに溢れるあまりにも当たり前な文字や文章は、本当に人間の意思のみによって書かれたものなのだろうか。
それともそこには、何か人を操るような力を持った寄生虫ならぬ寄生文字とでも言うべきものが紛れ込んでいるのではないだろうか。
背筋が寒くなるのを誤魔化すように私は立ち上がったが、そのあと何をしていても、ふと目に入った文字に漠然とした不安を感じるのを抑えることはできなかった。
数日後、夫と二人で朝食を摂っていると、テーブルの向かいに座っていた彼が、読んでいる新聞を何度も裏表に返し始めた。
「どうしたの?」
と声をかけると、夫は不思議そうな顔をして言った。
「いや、今新聞になんか変なことが書いてあった気がしたんだ。洗面台に赤い女がどうこうって、どこだったかな。さっき確かに見たんだけど」
<了>
洗面台の赤い女 Black river @Black_river
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