第6話 牙獣蹂躙


 生物として明らかに自分よりも上位の存在に相対したときに感じる感情は、それに対する恐怖に他ならない。


 しかし、その圧倒的な存在を前にしているはずのオレは今、妙に落ち着いていた。


 牙獣が咆哮を上げる。

 その雄叫びを受けた大気が、恐怖するようにビリビリと震えた。


 目の前の牙獣によって、大の大人が既に二人もゴミのように殺されている。

 ましてや子供がこの場にいたところで、ばら撒かれるひき肉の量が増えるだけだ。


 そう。

 そこにいるのが、ただの子供なら。




「――風精霊(シルフ)よ!」




 とっさの判断で風精霊(シルフ)を呼び出し、小さな竜巻を生み出す。

 オレの右手から飛び出したそれの先端が、牙獣の背中に炸裂した。


「グォォォオオオ!!」


 竜巻に身体を抉られ、少女に食らいつかんとしていた牙獣が怯む。

 その背中からは多量の血液が流れ出していた。




 効いている。




 明らかに、先ほどよりも弱っている。

 硬いと言っても、刃を通しにくい程度でそこまでの強度はないのだろう。


 こいつを殺すのはそこまで難しいことではないと確信した。

 問題があるとすれば……。


「何ボケっとしてる! 早く逃げろ!!」


「ひっ……」


 とりあえず少女だけでも逃がそうと思い声をかけるが、ダメだ。

 少女は腰を抜かしてしまったようで、その場から立ち上がれそうにない。


 仕方ない。こいつが少女の元へ辿り着く前に殺すか。


 そう結論づけたオレは、今度はある程度威力のある魔術で攻撃することにした。


 ベースは先ほどの竜巻。

 それに地精霊(ノーム)の力を借りて作った鋭く尖った岩を巻き込ませ、攻撃力を上げる。


 つまり、風と土の混合魔術だ。

 名付けて、『岩竜巻(トルネード)』。


 この程度の魔術なら、詠唱すら必要ない。

 すぐに魔術を発動させ、いつでも牙獣にぶつけられる状態にしておく。


 ここになってようやく、牙獣は怪我から持ち直したらしい。

 その様子は先ほどまでとは違い、オレへの怒りに満ちているように見える。

 明確にこちらを敵として認識したということだろう。


 それでいい。オレを狙え。

 オレを狙えば狙うほど、こいつが少女に手を出す確率は低くなる。


 オレが狙うのは胴体だ。

 胴体なら、多少狙いが外れたとしても身体に当たる可能性は高くなるからな。


 そして、オレは右手で制御している岩竜巻(トルネード)を牙獣に向けて放った。


 牙獣が大きく横に跳んでそれを回避しようとするが、無駄だ。

 岩竜巻(トルネード)の根元・・は、オレの手に繋がっている。


 つまりこの魔術は弾丸のように直線上を進むだけの単純なものではなく、オレの意のままに動かすことが可能な、いわば追尾ミサイルのようなもの。


 それが牙獣をターゲットとしてロックオンしている。

 すると、どうなるか。


 結果など分かりきっていた。


「グォォォオオオオオオオオオ!!」


 突然軌道が捻じ曲がった岩竜巻(トルネード)が、牙獣に炸裂する。

 再び竜巻に呑まれた牙獣が叫んだ。


 だがそれは敵を威嚇するものなどではなく、悲痛な断末魔の叫び声だ。

 岩竜巻(トルネード)は牙獣の胸の辺りの肉をぐちゃぐちゃに抉りながら貫通し、牙獣の身体を上下に分断したところでその役目を終えた。


 大量の血液と共に、牙獣の上半身がオレたちの足元に落ちてくる。

 不快な音を立てて地面に叩きつけられる死体。

 死んでも臭いのは変わらなかった。


 そういえば、この世界に来てから初めて生き物を殺したな。

 さしたる感慨はない。


 それどころか、どこか懐かしいような、不思議な感覚すらあった。


「ラルくん、大丈夫!?」


「うおっ!?」


 その感覚に違和感を覚えていると、突然、後ろからキアラに思いきり抱きしめられた。

 薄い胸に顔を揉まれながら、オレはキアラを引き剥が――そうと思ったが、やめた。


「キアラ、オレは大丈夫だから」


「ほんと? どこも怪我してない?」


「してないよ。っていうか、キアラも見てただろ?」


「そうなんだけど……」


 理由があるにせよ、キアラに心配をかけたのは事実なのだ。

 ここは甘んじて抱きしめられておくことにしよう。


 それよりも、気になることがある。


「おい、大丈夫か?」


「……」


 女の子は完全に放心状態で、虚空を見つめていた。

 その髪と顔には、血のりがべったりと張り付いている。


 まあ、気持ちはわかる。

 あんなものを見せられて、トラウマにならないわけがない。


 しかし、いつまでもこうしているわけにもいかない。

 なのでとりあえず、水と火の無詠唱魔術でお湯を作り、それを少女の頭の上から振りかけてやった。


「ひゃあっ!?」


 可愛らしい声を上げて驚く少女を無視して、彼女の髪と顔に付着している血を洗い流す。

 そういえば、久しぶりに他人の髪を洗った気がする。


 少女は初めは震えていたが、特に抵抗することなくオレに洗われている。

 やがて赤黒いものがすべて洗い落とされ、少女の綺麗な金色の髪がその姿を取り戻した。


 今度は火と風の混合魔術で温風を作り出し、ドライヤーの要領で少女の髪と服を乾かしていく。


「はい、終わったよ」


 すべての工程が終わり、少女は綺麗な姿に戻った。

 残念ながら、服だけは血がべっとりとこびりついていたためどうにもならなかったが、まあ仕方ない。


「あ、ありがとう……」


「怪我はない?」


「う、うん……だいじょうぶ」


 そう答えたものの、少女の顔色は悪かった。

 明らかに大丈夫ではない。


 改めて少女を見る。

 歳は五歳か六歳ぐらいだろう。


 金髪碧眼で、背丈はオレとほとんど変わらない。

 少女のほうが若干小さい程度だ。


 とりあえず、この少女を保護者のところまで送り届けることにした。

 多分、今日のパーティーに出席しているどこかの貴族の娘だろう。


「キミの名前は?」


「く、クレア」


「クレアか。いい名前だな」


 家名がわかったほうが探しやすいので、できればそっちのほうを聞きたいのだが、少女はなぜか顔を赤くして俯いてしまった。

 どうしたのだろうか。


「はぁ……ラルくんって罪な男だよねー」


「どうした急に」


「いえ、なんでもないですよー」


 キアラが後ろで何か言っているが、あまり気にしなくていいか。

 こいつが意味不明なことを言い出すのは、今に始まったことではないし。


 とにかく、この少女の保護者を見つけるためにも、フレイズやヘレナのいるところへ戻るか。

 オレの中で今後の行動の方針を決めた、次の瞬間だった。


「――! 危ないッ!!」


「きゃっ!?」


 咄嗟の判断で、クレアを突き飛ばした。

 視界いっぱいに、大口を開けた牙獣の顔が広がる。


 そして、オレの視界が完全に消えた。


 今のは、牙獣? あんなことになってもなお生きていたのか?

 そんなはずはないと思うのだが……。


 何にせよ、オレのやることは変わらない。


 敵によって自分の身体が拘束されているときの対処法は、いくつか用意してある。

 この場合は、そこまで強力な能力を使う必要もない。




「――『電撃(ボルト)』」




 そう短く唱えると、オレの周りに光の球のようなものが浮かび上がった。

 よく見ると、その表面が帯電しているのがわかるだろう。


 もちろん、目の前にいる牙獣には、これが何なのか理解することはできないだろうが。


 『電撃(ボルト)』。

 水属性の下級魔術のひとつだ。


 文字通り電撃の魔術で、雷に弱い相手にはかなり有効である。

 ただし、オレが今回これを使用するのは、そういった目的のためではない。


 別に『電撃(ボルト)』でもこいつを殺すことぐらい容易だが、他に試したいことがあった。


 だいぶ威力を抑えた『電撃(ボルト)』を、牙獣めがけて放つ。


「グォォォオッ!?」


 予想通り、牙獣の身体が麻痺した。

 その隙をついて、オレは牙獣の口の中から・・・・・頭を引っ張り出した。


 頭に付着している牙獣の唾液が非常に臭い。

 応急処置として無詠唱の水属性魔術を使って頭を洗い流しているが、服のほうは後でしっかりと洗濯しなければならないだろう。


 先ほど牙獣が倒れていた場所を見ると、そこには上下に分かたれた牙獣の死体が転がっている。


 やはり新手か。


 クレアの姿はない。

 と思ったら、円柱の影にこっそり隠れているのが目に入った。


 別にそのまま逃げてくれてもよかった、というか逃げてくれたほうが危険は少なかったのだが、まあいい。


「クレアはそこで待っててくれ。あいつはオレがなんとかする」


「で、でも……」


「心配すんな。オレが絶対守ってやるから」


「――っ! う、うん!!」


 クレアの元気のいい返事が、オレの耳に届いた。

 よし。これで彼女のほうは大丈夫だろう。


 そんなことをしている間に、牙獣の痺れも収まったようだ。

 だがその表情には、どこか困惑のような感情が浮かんでいるようにも見える。


「悪いな。オレのタフネスは、お前に齧(かじ)られたぐらいじゃビクともしないらしい」


 鋭い牙に晒されていたにもかかわらず、牙獣の牙はオレの首を噛み千切ることができなかった。

 どれだけ高いんだ、オレの防御力は。


 痛みはまったくなく、ざらざらの歯と舌が延々とオレの頭に触れ続けていた。

 要するに、身の毛もよだつような感触だったということだ。


「さて」


 オレは初級の無属性魔術を使い、亜空間から一本の剣を取り出した。

 先ほど、牙獣に殺された男が持っていたものを拾っておいたものだ。


 それをミーシャとの訓練のときと同じように構える。

 そして、


「……こちらに気を取られすぎじゃないのか?」


「グォォッ!?」


 オレの嘲るような言葉を受けて、牙獣が異常に気付いたようだが、もう遅い。

 大地が割れる轟音と共に、牙獣の背後の地面から何本もの触手が生え出た。


 赤紫色の触手たちは、ただ牙獣を拘束するためだけに動く。

 ものの数秒もしないうちに、牙獣の身体は何本もの触手によって縛られていた。


 闇属性の初級魔術の一つ、『触手』だ。

 文字通り、地面などから触手を生やすことができる。


 今回はこれを、牙獣の背後から生やすことによって捕獲用に使わせてもらった。


 通常の状態の牙獣なら、背後から忍び寄る触手にも対応できたことだろう。

 だが、牙獣は先ほど受けた『電撃(ボルト)』によって、動きに精彩を欠いていた。


 せめて、苦しまないように殺してやろう。


「……悪く思うなよ。お前がオレたちを先に襲ったんだからな」


 剣を構える。

 何の変哲もなかったはずのその剣の周りを、今は虹色の光が包み込んでいた。

 『属性攻撃付与』の効果が、しっかりと現れている証拠だ。


 オレの場合はすべての属性の攻撃を付与することができるため、さながら虹のような色合いの光になっている。

 見ているだけなら綺麗だが、これの威力は馬鹿にできない。


 ゆっくりと牙獣に近づいていく。

 拘束されたままの牙獣が何かを叫ぶが、オレの知ったことではない。

 こいつは既に、まな板の上の魚だ。


 牙獣の首に剣を振り下ろした。

 バターを切ったような手ごたえの無さ。

 それと同時に、恐怖に歪んだ表情を浮かべた牙獣の首が足元に転がってきた。


「……ふぅ」


 終わった。


 牙獣の身体を拘束していた触手がゆっくりと霧散していく。

 その首の断面からは尋常ではない量の血が吹き出し、辺りに血の海が広がっていく。


 そんな凄惨な光景を目の前にしても、オレの心は疲労感でいっぱいだった。


「頭を齧られたときはさすがに少しひやっとしたけど、キアラの言った通り、オレはホントに丈夫なんだな……」


 今回の件で、嫌と言うほどそれを実感した。

 あれに齧られて平気な顔をしていられるのは、世界広しと言えどもそう多くはあるまい。


「……あれ、キアラ?」


 キアラの姿がない。

 活動時間の限界が来てしまったのだろうか。


 こういうときに限っていないのはどうかと思うのだが、いない奴に愚痴を言っても仕方がない。


 あ、そうだ。

 クレアを、保護者のところまで連れていかないと。


「ね、ねえ!」


「ん?」


 考え事をしていたせいで、目の前にクレアがいることに気付かなかった。

 クレアは少し恥ずかしそうな表情を見せながらも、意を決した様子で口を開く。


「名前、教えて?」


 ああ。そういえば言ってなかったな。


「ラルフだ。みんなからはラルって呼ばれてる」


「ラル……ラル、ね。わかった」


 一部フルネームで呼ぶメイドもいるが、あれは身分の違いによるものだろう。

 クレアはオレと同じ貴族だろうし、そこまで畏まる必要もないと判断した。


「ね、ねえ」


「ん?」


「ラルのこと、もっと教えてほしい」


「もちろん。いいよ」


 オレは快く了承した。

 それから、オレはクレアに色々なことを話した。


 ガベルブック家の長男であること。

 魔術や剣術の特訓をしていること。

 好きなもの、好きなことなど……。


 特に魔術の話になると、クレアは目を輝かせた。


「魔術って、すごいんだね!」


「オレの母様が三歳の頃から教えてくれてるんだよ。おかげで、かなり魔術も使えるようになったんだけど」


 本当はキアラによるものが大きいのだが、キアラのことは言わない約束なので話さなかった。

 そんな他愛のない話をしていると、


「――ラル! こんなところにいたのか!」


 聞き覚えのある声が聞こえ、複数人の人間の足音が近づいてきた。


 フレイズだ。

 その傍には、見たことがない人も数人いる。おそらくフレイズの部下の人たちだろう。


 あ、やばい。

 トイレに立ったと言っていたのを忘れていた。


「それにクレア様も。まさかこんな滅多に人の寄り付かない王城の片隅におられるとは思ってもみませんでした……」


 なるほど。

 ここは人通りが少ないのか。

 道理であんな馬鹿騒ぎをしても誰も来ないわけだ。


 しかし、フレイズがクレアのことを様付けで呼んでいるということは、クレアはよっぽど位の高い貴族の娘なのだろうか。


「……ん? この臭いは……」


 訝しげな表情をしたフレイズが、中庭のほうを見る。


 その顔が、みるみる驚きの色に染まっていった。

 同じように中庭を見た部下らしき人たちも、同じような表情をしている。


「……! こ、これはいったい」


 何のことだろうと、フレイズ達の視線の先を確認した。


「あ」


 二匹の牙獣の死体が、無残な姿で横たわっている。

 そういえば片づけるの忘れてた。


「ラル。あれはどういうことだ」


「えーっと。クレアがあの牙獣に殺されかかっていたので、僕が倒しました」


 オレがそう言うと、その場が静寂に包まれた。


「…………ラルが、倒した? あの牙獣を?」


「はい。僕が倒しました」


 フレイズからの問いに、正直に答える。

 こういうときは、嘘をついてはいけないのだ。


 フレイズの表情は優れない。

 彼は数回口を動かし、言葉を飲み込むような動作を繰り返すと、


「……ラル。私と一緒に来なさい」


 重苦しい口調で、オレにそう命じたのだった。

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