タウ・デプス 闇黒の花嫁

伏潮朱遺

第1話 好きな人がいるんです


     0


 薄暗い部屋に一人、少年が立っていた。

 逆光なので顔もよく見えない。表情もわからない。

 でも、男だとわかった。

 彼はこちらの存在を把握して、手招きのような眼差しを向けた。

 近づく。

 ゆっくりと。

 足が。

 勝手に歩んでいる。

 手が。

 触れようかという。

 そんな距離。

 ぱっくりと。

 大きな口を開けて待っている肉食獣。

 いや、罠を張って、飛び込んでくる莫迦を。

 揶揄っている?

 黒い。

 太い。

 瞳が。

 逡巡っている?

 生きてはいけないという意志と。

 生きていたいという意志が。

 渾然一体に混じり合う。

 消えていなくなったほうがいい。

 虫の報せというやつが。

 聞こえたときにはもう遅い。

 早くここから。

 出たところでどうだというのだ。

 どうもならない。

 すでに。

 済んでしまった。

 半裸の彼が上体を反らす。

 息を。

 吸って吐いて。

 ああ、と彼が呟いた。

「なんだ。噂通りだ」と。







  タウ・デプス

  闇黒の花嫁






 第1章 好きな人がいるんです



     1


 その山には、呪いを祓う一族が住んでいると聞く。

 一族以外は立ち入り禁止で、更に男子禁制と来ている。

 以上の理由から、俺がここに入れる理由は1ミリもないはずなのだが。

「はじめまして」同い年くらいの女が部屋の中央に座っていた。

 綺麗系か可愛い系で分けるなら後者。

 髪はややくせ毛で肩を覆う程度。透ける生地の、丈の短いワンピースを着ている。

 女は、俺のフルネームを言ってから指を差す。

「モリくん?でいいよね」

「よくご存じで」

 自分で言っていて意味のない返答だった。

 ここいらに住んでいて俺のことを知らない人間はいない。

「モリくんのこと知らない人なんかいないよ」

 ほらね。

「そちらさんは? 呼びつけといて、自己紹介もなし?」

 女は、

 ノウ深風誼ミフギと名乗った。

「わたしのほうがお姉さんだから、ミフギさんでいいよ」

「用があんじゃない?」

「わたしの弟襲っといて、なんの謝罪もなし?」

 なるほど。

 当たり屋とか、美人局とか。

 やられた。

「欲しいのは慰謝料? それとも会社うちの信用失墜?」

「うーん」ミフギさんとやらは勿体つけて脚を崩す。白い素足が露出する。

 畳敷きの和室。

 障子と襖が開け放たれており、座敷がやけに広く感じる。

 大きな池のある平屋。

 庭木の手入れは後回し。

「どうぞ?」

「お願い聞いてくれたら、なかったことにしてあげる」

 交換条件。

「聞ける範囲なら」

「好きな人がいるの。あなたの幼馴染の」

 該当者が二名ほど浮かんだ。

「ミツ姉ならムリスジだと思うんだが」

「そっちじゃなくて」ミフギさんが頬を膨らませて不快を表現する。「そっちじゃないの、わかるでしょ?」

「名前聞かないと。ほら、人違いでも困るし」

 ミフギさんは言いづらそうにぼそりと呟いた。

 しっかり聞こえたし、予想も付いたが敢えて。

「はい? どちらさん?だって?」

「シマくん! もう、いじわるしないで!」ミフギさんは顔を真っ赤にして身を乗り出す。

 真っ平らな胸の上部が、首繰りが開いているせいで見えそうだった。

「高校別々だったから。3年以上会ってねんだよな」興味がなかったので眼を逸らした。

「連絡できないの?」

「俺よかシマん家に聞いたほうがいいんじゃねえの?」

「協力してくれるよね?」

「具体的には?」

「紹介して?」

「紹介して?それで?」

「取り持ってってこと! キューピット! もう、わざとやってるの、わかってるんだから」

「弟を人柱にして、心が痛みませんかね?お姉さまは」

 シャワーを浴びたばかりの少年が、縁側の廊下を歩いてきた。

「ねえ? 弟くんよ」

「タテマ。よろしく、モリくん」Tシャツにハーフパンツ。タオルで濡れた髪を拭っている。

 額や首筋に張り付いた髪がなかなか扇情的だった。

「僕は成功報酬なんで」

「どうゆうこと?」姉と弟を見比べた。

 片や女児用愛玩人形。

 片や白磁儚げ美少年。

 全然ジャンルが違う。

 性別が違うせいか。

「姉ちゃんとシマくんがうまいこといったら、僕はモリくんに捧げられるってこと」

「大丈夫? お姉さま正気?」

「なりふり構ってられないの。時間がなくて」ミフギさんが真面目な顔で言う。

「タテマくん? そうゆうのでいいの?」

「姉ちゃんがいいなら」タテマくんが肯く。

「重度シスコン?」

「説明してもわかんないよ」タテマくんが面倒くさそうに首を振る。「姉ちゃんのために仲人頑張って」

 おかしいのは俺か。

 いや、俺じゃないほうだろう。

「おかしくない? 姉貴の恋のための釣り餌?生贄?にされる弟なんか」

「じゃあタダ働きでいいの?」タテマくんが俺を見る。俺が座っているので見下ろす形になる。「実は別の事情があって僕と定期的にああゆうことしてもらいたいんだけど」

 全然意味がわからない。

「説明してくれる? 納得しないと、ちょっと」

「モリくん、口硬い?」ミフギさんが小声になる。手を翳して内緒話のポーズ。「わたしの家のヒミツ。知ってるでしょ?」

「人並み程度には」

 ほぼ何も知らないと同義。

 この山には、代々呪いを祓う一族――納家が住んでいる。

「タテマはね、ああやって建物に取り憑いた呪いを祓ってるの。いわゆる事故物件ね」ミフギさんがヒソヒソ声で言う。「触媒ってゆってね? 呪いを祓うために相手が必要なの。呪いをなすり付ける都合のいい男が」

「へえ、都合のいい男」

 ちょっと待て。

 いま、とんでもない情報が飛び出なかったか?

「呪いを?なんだって?」

「なんの代償もなくわたしの弟とセックスできるとか思わないでくれる?」ミフギさんがタテマくんを手招きする。

 タテマくんは、ミフギさんの後ろに立って、ミフギさんの髪を愛おしそうに指で梳く。

 この姉弟の肉体的距離感がいまいちわからない。

 知らないほうがいいような気もしないでもない。

「つまり? 俺がお姉さんの恋路を応援すると?弟くんとエッチできるけど?代わりに俺には呪いが溜まってくと? そうゆうこと?」

「ねえねえ、早速シマくんに会いたいんだけど」ミフギさんが言う。勝ち誇ったような表情を浮かべながら。「会わせてくれたら、溜まった呪い、どうにかしてあげなくもないよ?」

 それ俺詰んでないか?

「ねえ、タテマ、いくつになったんだっけ?」ミフギさんが上目遣いで弟を見る。

 タテマくんが無言で両手を広げる。

 ということは。

「協力する気になった?」ミフギさんが意地悪そうに笑う。

 ダメだ。

 俺、

 詰んでたわ。











     2


「ごめん、さすがに今回はちょっと」ミツ姉が憐みの眼差しを向ける。「味方できないってゆうか、ううん」

「別にはっきり言ってくれていいけど」

「見境なし?」

「仰る通りで」

 ぐうの音も出ないとはこのことで。

 ミツ姉は俺に甘いからこの程度で済んでるけど、世間一般ではこうはいかない。

 時間を戻してやり直したところで、同じトラップに引っ掛かることは想像に易い。それにあの女は絶対に憶えている。存在しない記憶だって掘り起こしてあることないこと捏造しそうな顔をしている。

「これから行くんだっけ?」ミツ姉が心配そうな顔をする。「場所はわかったの?」

 本当に誠に心底不本意だったが、シマの弟に頼み込んだ。拝み倒したら終いには折れてくれて、シマと連絡を付けてくれた。

 あいつそこそこ使える奴なのな。

 俺がシマと仲良くしてるのが気に入らないらしく、すぐつっかかってきてたってのに。

「まーた碌でもないこと考えてない?」ミツ姉には俺の思考がダダ漏れている。

 伊達に産まれる前からの付き合いじゃない。

「はいはい、浅はか浅はか」

「気を付けてね。新幹線乗るんでしょ?」ミツ姉が手を振って見送ってくれた。

 待ち合わせの駅。新幹線の改札前にミフギさんがいた。

 昨日の比じゃないくらいに全身に手間がかかっている。

 なんというか、

 え、

 誰?

「なに? いくらわたしが可愛くても付き合うとかないからね?」じろじろ見られているのに気づいたのか、ミフギさんが肩を抱いて首を振る。

「天地がひっくり返ってもあり得ないのでご安心を」

「ほんとう? 信じるけど。んじゃあ、行こっか」

 移動だけで2時間超え。

 会話が苦痛だったのでひたすら寝たふりをしていた。ミフギさんは一生鏡を見てちょこちょこメイクを調整していた。

 ここに来るのは修学旅行以来。

 京都。

「大学こっちなんでしょ?」ミフギさんが得意そうに言う。

 知ってんじゃん。

「お一人でご勝手に会いに行ったら良かったのに」

「わたしのこと忘れちゃってるだろうし。軽い女だと思われたらヤだし」

 何より自分の都合を優先する女だということがよくわかった。

「顔見知りじゃないのか?」

「ううん、小学校のときちょっとね」

 10年以上前だ。

「ちょっとってなんだよ。なんかあったのか?」

「何もないよ。なんにも」ミフギさんが首を振る。これ以上触れるなと言わんばかりに。

 駅は観光客と外国人でごった返していた。ちょっと眼を離すとミフギさんとはぐれそうなほどで。

 待ち合わせの場所は、確か。

 さらに電車で移動。

 降りた駅から徒歩2分の喫茶店。

 まだ午前中なこともあって、店は開店直後のガラガラ状態だった。

 奥の席に座っていた男が、こちらを見て片手を上げた。

「久しぶり」シマの声だった。

 だいぶ雰囲気が変わってて、人違いかと思った。

 最後に会ったのは、中学の卒業式。引っ越しの見送りには行ったんだっけかな。

 憶えてない。

「お、おう、元気?」反応が遅れたことを誤魔化そうとして向かいに座った。「そっちはどうよ」

「どうも何も。用があったんだろ?」シマは眼鏡越しにちら、とミフギさんを見る。刺すような視線で。「大方用があったのは、こっちなんだろうけど」

「あ、あの、シマくん、もう憶えてないと思うけど、わたし、その」ミフギさんが刺すような視線にビクつきながら甲高い声で鳴く。

「まずは座ったら? 待たせてる人もいるし」シマがミフギさんの後ろに立ち尽くすウェイトレスに視線を移す。

 俺はカフェオレ、ミフギさんは紅茶を注文した。

 シマの手元にホットコーヒーがあった。

 店内に立ち込めるコーヒーの匂いをようやく認識した。俺もそこそこ緊張していたらしい。

 何に?

「想像がつかないわけじゃないけど」シマが口火を切る。「とりあえず最後まで聞くよ。どうぞ?」

「あ、はい。あの、えっと」ミフギさんが明らかに動揺してる。「あの、わたし、納深風誼といいます。小学校のとき、会ったことあるけど、憶えてないだろうから、あの、はじめまして」

「はじめまして? 私の名前聞く?」シマが言う。

 ミフギさんが顔を真っ赤にして首を振る。

 隣に座っているので、顔から出た蒸気まで見えそうだった。

 あ、これ、

 ちょっとどころか結構面白いかも。

 ふうん。

「あ、えっと、あの、その、わたしね、シマくんと、その、仲良く、なりたくて」ミフギさんがスカートの裾をぎゅうと握る。

「仲良く? 友だちになりたいってこと?」シマが真っ直ぐミフギさんを見ながら言う。

「ちが、あ、えっと、そうじゃなくて。そのね、友だちもうれしいんだけど、そうじゃなくて、その、あの」

「わざわざこんなとこまで追いかけてきたくせに、要望は随分遠回りなんだね」

 ミフギさんが俯いて黙った。もにょもにょと何かを言いたそうにするが、声になっていない。

「なんか手伝う?」笑顔で仕返ししたれ。

 ミフギさんが首を振る。俯きながら睨まれた。

 おもしれー。

「言いたいこと終わったなら帰るけど」シマが立ち上がろうとする。

「待って。待って、シマくん、わたし、あの」

 がんばれー。

「なに?」

「わたし、シマくんが、好きで、あの、わたしと、その、付き合って、ほしいです」

 よし、

 よく言った。

「だろうね。そうゆう顔してた」シマは無感情にそう言って。「ただ悪いけど、返事はノーだ。私の生活圏にずかずか土足で踏み込んできた段階で断ろうと思ってたよ」

「え」ミフギさんが表情を欠落させて凍りつく。

「しかしもっと悪いのが君だよ、モリ」シマの鋭い視線が俺を射る。「悪ふざけにもほどがある。私との関係を完全に断ち切りたいがためにやったのなら、最初からそう言えばいい。すでに私に未練はない」

「あ、いや、別にそういうわけじゃ」

 まずいな。標的が俺に移った。

「3年間何の連絡もなかった。それで理解できないほど莫迦じゃない」シマが静かに言う。「いま君がやっていることは、すでに息のない死体を八つ裂きにする残虐な行為だ。無自覚でやったのなら謝罪が欲しい」

 無理に感情を押さえているようにも見えて痛々しい。

 ああ、そうか。

 シマはこうゆう奴だった。いま思い出した。

「悪かった。でも、それとこれとは」

「別とでも? 私の中で同一線上だと結論付けたんだ。真実になった。どんな言い訳も無意味だよ。もう少しマシな別離を期待した私が愚かだったな」シマがレシートをつかみながら立ち上がる。「会計は私がもつから、頼むから二度と顔を見せないでくれ。モリも、そっちの」

「ミフギです」

「納さんも」

 うわ、これ、絶対名前知ってたな。

 最悪だ。

 最悪なことが一気に二つも襲ってきた。

 違う。

 二つとも俺が原因だ。

 ミフギさんはシマの背中が見えなくなるまで見つめていた。

 沈黙。

 カフェオレのカップが冷たい。

「モリくん、わたし、泣きそびれたんだけど?」

 さすがに気づきますか。

 だから女には嘘がつけない。

「ねえ、聞いてる?」

「聞こえない聞こえない」

 なんで忘れてたんだろう。

 俺、

 シマと付き合ってたじゃん。











     3


 シマと付き合ったのは。

 やべえ。よく憶えてない。

 大方シマから付き合ってくれと言われて断らなかったからだろうと。

 なんで俺断らなかったんだ?

 断るのそんなに面倒だったのか?

 わからん。

「何考えてる?」シマが言う。口に何か入れているのか、声がくぐもっている。「集中してほしい」

「なあ」

「なんだ?」

「なんで俺、お前と付き合ってて、付き合ってるのに3年も放置してすっかり忘れてたんだ?」

 シマが顔を上げる。口に含んでいるものを一旦外に出す。

 すーすーした。

「私に答えさせるのか?」シマが上目遣いで言う。

「それもそうか」

 またシマの脳天しか見えなくなる。

「ところでお前何やってんの?」シマの髪を撫でる。髪質が硬くて手の平にちくちく刺さる。

「未練がないと言ったのが嘘だと証明する」

「別にそんなことしなくても」

「じゃあ私が勝手にやっているだけだ。ただ、この3年間に謝罪を示したいなら」

 このまま応じろと。そうゆうことらしい。

「暗くなる前には戻らねえと」

 ミフギさんは傷心旅行に行くと意気込んで、俺を置いて京都観光に出かけた。

 その直後、シマにつかまった。

 シマは先に帰ったと見せかけて、喫茶店の外で待ち伏せしていたらしい。

 誰にも聞かれたくない話をしたいと懇願されて、シマの住んでいるボロ、いや古いアパートに連れて行かれた。

 六畳一間。

 風呂とトイレ共同。

 家賃いくらだろう。立地は悪くないが、如何せん内装がボロすぎる。改装すればまあそこそこ。

 毛羽立った畳に座って話をしていたはずだったが、いつの間にかシマが、俺の脚の間に顔をうずめている。

「ほら、俺が戻らなかったら心配?するだろうから」

 と言いつつも、結構どうでもよくなってきた。

「流されやすいのが、君のいいところだ」シマが満足そうに口の端を指で拭う。

 このまま何もしなければ、たぶんシマは最後までやる。

 それで問題ないけど、ミフギさんにバレると面倒くさいことこの上ない。

 ところで俺に溜まった呪いというのは、放っておいたらどうなるのだろう。

 死ぬのか?

「シマ、ちょっと」俺にもたれかかっていた身体を両手で支える。「俺も話がある」

「いまこのタイミングでどうしても言わなければならない話か?」これからってときに止められたので、滅茶苦茶機嫌の悪そうな顔と声を向けられる。

「聞いてくれ。聞いてくれたらそのあと好きにしていいから」

「なんだ?」シマが超絶不快顔で睨んでくる。

「ここ、なんか、いない?」

 はっきり見えるわけではないが、嫌な感じと背筋の悪寒がどんどん強まってくる。

「お前、そうゆうの大丈夫だっけ?」

「問題ない。信じていない」

「てことは、いるんだな?」

「だからなんだ? 気のせいだと思えばいい」

 やばい。

 認識したせいか、身体が重くなってきた。

「どうした?」

「お前マジに大丈夫なの?」

 やばい。

 視界が。

 遠くで、

「まったくもう、厄介なとこにいるんだから」ミフギさんの声がした。気がした。

 来客のブザー。

 戸を叩く音。

「シマ、頼む、開けてやってくれ」座ってられない。畳にへばりつくのがやっと。

「どういうことだ?」

「いいから、早く。俺を助けると思って」

 シマは何度も後ろを振り返りながら、しぶしぶ玄関の戸を開けた。

「ごめん、シマくん。事情は後。ちょっと外出ててくれる?」ミフギさんの声が近づいてくる。「モリくん?よかった。ギリギリだけど」

「なんとかなんの?」なんとかしてくれ、という嘆願の意を込めて見上げた。

「そのために僕がいるんだよね」ミフギさんの陰からタテマくんがのぞいた。「なんだ。準備万端じゃん」

 いや、これはそうゆうことではなくて。

 ミフギさんは、ぎゃあぎゃあ喚くシマを無理繰り部屋の外に出してくれた。

 確かに。

 こんなところ見られたら、俺の人生が終わる。

「付いてきてたんだね」さっすがシスコン、という揶揄の意を込めて息を吐いた。

「しー、黙って」タテマくんが唇に指を当てた。「触媒は口をきいちゃいけない。呪いに魅入られるよ?」

 それは困る。

「素直なの長所だよ。さ、ちゃっちゃと済ませようか」

 タテマくんの蒼白い人外的な肌を見てたらさくっと終わった。

 意図しない偶然とはいえ、シマがをしてくれていたのが功を奏した。

「モリ!」シマが戸を荒々しく上げて駆け込んできた。「大丈夫か?」

「お、おう」脱いでたの下半身だけで助かった。

 タテマくんは溜息をつきながらミフギさんと入れ違いで部屋の外に出た。シャワーないから我慢してもらうしかないのが申し訳ない。

「事情は大方聞いた」シマがミフギさんを顎でしゃくる。さっきより機嫌が悪そうだ。「それでも君でないといけないのが納得いかない」

「んじゃあ、お前代わってくれる?」

「君でも私でもなくてもいいんじゃないのか?」シマがミフギさんを見る。「それこそ男なら誰でもいいと聞いたが」

「いまここでモリくんを解放するってことは」ミフギさんが意味深に首を傾げる。「2回分の呪いをそのままにして知らんふりするってことだけど、いいの?」

「そうそれ。呪いってのが溜まると俺は」

「死ぬよ。ううん、死ぬってのは正確じゃないかな」ミフギさんが言う。「呪いに呑み込まれてこの世から消えるの。遺体はこの世に残らない。消えちゃうの」

「見たことあんの?」

「あるから言ってるの。わたしのお母さんはそうやって消えちゃった」

「マジ?」

「うん、マジ」ミフギさんが肯く。

「じゃあさっさと2回分の呪いとやらをモリから祓うなりなんなりしてくれ。そうすれば」

「うーん」ミフギさんがまた首を傾げる。

「そうやってモリの命を人質タテに、言うことをきかせようとしてるだけだろ? 性根が曲がっている」

「あれ? 言ってなかった?」ミフギさんが俺とシマの顔を見比べる。「わたし、祓ってなんかないよ?呪い」

 ?

 ??

 ???

「あー、わかった。ミフギさんは無理でもタテマくんならできるとかいう」

「タテマにも無理だよ? あ、そっかぁ。あれ、祓ってるように見えるのかぁ」ミフギさんがふんふんと頷く。

「え、どうゆうこと?」

「あれね、呪いを祓ってるんじゃなくて、モリくんを触媒に集めた呪いを、タテマが吸収してるだけなの。モリくんがライトで、そこに集まった虫の死骸を、タテマがむしゃむしゃ食べてるってだけ」

 ?

 ??

 ????

「え、じゃあ、呪いが溜まってるってのは?」

「嘘じゃないよ。短時間とはいえ濃度の高い呪いに触れてるんだから、無害なわけないじゃん」

「ミフギさんは、なんもしないの?」

「してるよ。タテマ連れてきたでしょ?」

「いや、だから、そうゆうことじゃなくって」

「シマくんて見えてるの?」ミフギさんが言う。戸の向こうに視線を送りながら。

「なんとなく」

「やっぱそっかぁ。呪いも見えてる?」

「蜃気楼みたいなのことか」

「うん、やっぱりシマくんはすごいね」ミフギさんが嬉しそうに身体を揺らす。

 あれ?

 この二人、

 俺が触媒ってのになってる間にそこそこ打ち解けたのか?

「でも私は君を完全に信用したわけじゃない」シマが厳しい声で言い放つ。「これ以上、理解不能なことにモリを巻き込まないでくれないか」

「シマくんがわたしをシマくんのお嫁さんにしてくれたらなんとかするよ」

「伝わらないかな」シマが大きな溜息を床に叩きつける。「モリも、私も巻き込むなと言ってるんだ」

「もう遅いよ」ミフギさんが無感情に言う。「モリくんはタテマの触媒になるしかないし、シマくんはわたしをお嫁さんにするしかないの。もう決まっちゃったの」

 それはあたかも、

 預言のような祝詞だった。











     4


 モリの傍らにいるは、なんだ?

「ここって、でしょ?」納ミフギと名乗った女が言う。玄関の戸にもたれて私を中に入れないようにしているのが姑息だ。

 そこは私の家だし、なによりあんな調子の悪そうなモリを一人にしておけない。

「どけ! モリになにかあったら」

「1階に住んでるのが大家さん?」ミフギが見透かしたような眼でこちらを射る。「ああ、大家さんだけど、シマくんの叔父さんなんだね。あとでちゃんと挨拶しよっかなぁ」

 なんで、

 わかる?

 表札か?

 それともあらかじめ調べて。

「わたしの家のこと、知ってるでしょ。わたしはそこの現当主。いまこの力を使えるのは、納家でわたしだけ」

 力というのは。

「家とか建物に溜まった呪いを、そうね、わかりやすく言うなら祓う力。シマくんの叔父さんが管理してるこのアパート、しばらく前から住んでる人いないでしょ? いてもすぐにやばいことがあって出てっちゃう。お祓いとかしたけど全然効果なくて、叔父さんもシマくんが卒業したらここを売るつもり」

 どこまで知っている?

 違う。

 私の思考や記憶を読んでいる?

 そんなわけないのに、そう思わされる。

 真っ黒い闇のような、

 嫌な眼だ。

「駄目だよ、売ったって。呪いはそこに残ってる」

「そろそろ種明かしをしてくれないか」やっと声が出た。「君は一体何なんだ。何をしにわざわざ」

「喫茶店で言ったじゃん。わたしは、シマくんが好きで、シマくんのお嫁さんにしてほしいって」

「悪いけど、悪意しか感じられないな」

「ううん、どうしたら伝わるんだろう」ミフギが顎に指をあてる。小さな爪がピンクに塗られていた。「わたしはただ、シマくんが好きなだけなのに。シマくん憶えてないだろうけど、わたし、ずっとずっとシマくんが好きで」

 なんだ、この。

 背筋と全身に走るそこはかとない嫌な感じは。

「ねえ、お願い。わたしのこと、好きになって?」

 駄目だ。

 この部類に言葉は通じない。

「シマくん」

「何が目的だ? 私の家か?」

「あ、そっか。シマくんのお嫁さんになったら、シマくんがうちに婿入りになるね。どうしよう。お寺が」

 全然通じない。

 全世界のあらゆる事象は自分の思い通りに回っていると信じて已まない。

 自分勝手も甚だしい。

「君は、私の一番嫌いなタイプだな」

「お婿さんなのが嫌なら、うーん、あの家、お姉ちゃんに継いでもらうしかないのかぁ。でもお姉ちゃんこの力使えないし。うーん、やっぱり早く後継者を」

 なにをぶつぶつ言っているんだろう。

 内容が理解できないわけじゃないが、到底了解しがたい。

 嫌だ、本当に。

 心から嫌な女。

「いいよ、だんだん好きになってくれれば。シマくん女の子と付き合ったことないでしょ? 女の子のこと知らないだけだって」

「はっきり言うが、私は女に興味はないし、女と付き合いたいと思ったことも一度だってない」

 ミフギは、そんなこと知ってるとばかりに眼を見開いた。

 そして、

 薄気味悪く笑った。

「どうせモリくんとは大学卒業と同時にお別れなのにね。知ってるよ? モリくん、婚約者いるじゃん。それこそ生まれる前から決まってた、お向かいの家の女の子。家族ぐるみの付き合いで、会社だってずぶずぶの癒着。決定は絶対に揺らがない。それにシマくん、いまから生涯独身を決めてるなんて、そこまで徹底しなくてもいいんじゃない? 妻帯は問題ないでしょ?」

 駄目だ。これ以上この女と話していたくない。

 底の底まで浚われる。

「とにかく、モリは無事なのか? なんで巻き込んだ?」

「シマくん、わかってること聞かないでよ」ミフギが薄っすらと笑みを浮かべる。

 わかっていないわけはない。

 私を言いなりにするためだ。

「別に男なら誰でもいいんだけど、どうせなら、ほら、役に立ったほうが、ね」

 私の首を縦に振らせるためならこの女はたぶん、モリだけじゃなくて、私の家族は愚か、全世界ごと滅ぼしかねない。

 全世界のほうは知ったこっちゃないが、モリに被害が及ぶのは困る。

 でもそのためにはこの女と結婚を承諾しなければならない。

 そもそもなぜこの女は、ここまで私に執着しているのか。

 それが思い出せれば、なにか解決の糸口が。

「どうかなぁ。絶対思い出せないと思うよ」ミフギが肩を竦める。「そりゃね、思い出してくれたらそれはそれで嬉しいけど」

「思考を読んでるのか?」

「え、そう見える?」

「どっちなんだ」

 違うのか。

 ただ単にものすごく察しがいいだけなのか。

 それにしたって、調べなければわからないことまで。

「わたしね、シマくんのことなら何でも知ってるよ。なんでも」そう言って、ミフギはぐいと顔を近づける。

 甘ったるく不快な匂いが香った。

 後退して距離を取る。

「やっぱりシマくん、女の子に慣れてないだけだって」ミフギが勝ち誇ったような笑みを見せる。

「あいつにさせていることはなんだ?」

「聞いてみれば? あ、ちょうど終わったみたい」

 ミフギが戸の前から一歩退いたのを見計らって、室内に駆け込んだ。

 モリは、

 無事だったが。

 妙にすっきりした顔をしていたのが気になった。

 結局その日のうちにモリたちは帰った。本当に何をしに来たんだろうか。

 どっと疲れた。

 アパートのそこかしこに立ちこめていた重たい透明な膜がすっきりと晴れていた。

 夜。

 夕食のあと。

 叔父は、長年続く原因不明の体調不良から解放された喜びで、兄(私の父親)に長電話をしていた。

「ほな、兄さん。わしからもそれとなーく言うとくわ」

「叔父さん、ちょっといいですか」聞こえていなかったふりをしてこちらから声をかけた。

 叔父の声が無駄に大きいので会話は丸聞こえ。単に壁が薄いせいかもしれないが。

「ああ、シマ」叔父は受話器を戻してから向き直る。「よかったわ。上に戻っとったら呼びに行こ思うとったとこや。座ってくれへん?」

「なんですか?」話があるのはこっちなのだが。

「今日な、かっちゃんのとこの、ほい」

「モリですか」

「せや。モリくん。そのモリくんが遙々来たはったらしいな」

「ええ、まあ」

 かっちゃんというのは、モリの父親。

 叔父や私の父の幼馴染なので、昔のままの愛称で呼んでいる。

「なんや、冷たいな。ゆうたったら、市内くらい案内したんに」

「すみません。昨日の今日で突然来たので」

「そんでな、モリくんと一緒に来てはった子ぉのことなんやけど」柔和な叔父の顔が引き締まる。「シマ、あの子と結婚したらどや? だいぶ前に来とった縁談な。受けたらええやん。わしらは賛成やねんけどな」

 意味がわからなすぎて。

 そのまま家を飛び出した。













     01


 この女と結婚しないためなら何でもよかった。

「やっぱりこうゆうのは、もっと大人になってからのほうがいいと思うよ。ほら、お互い初めてなわけだし。君の家のこともあると思うけど、あ、そうだ。祓ったってことにするのはどう? 君にはできるんでしょ?」

 どんな耳障りのいい言い訳も並べたし、もしこの対応で嫌われるならそれはそれで好都合。

「だってこんなすごい力が、こんなわけのわからない方法で成されるのはおかしいよ」

 女は困ったような悲しそうな顔を浮かべていたが、私の必死な言い訳を好意的に解釈してくれたのか、次第に泣きそうな顔になってこっくり肯いた。

「わかってくれた? じゃあ、これは二人だけの秘密ね。呪いなんかなかったんだ。だから君だってこんなわけのわからないことをしなくたっていい。君はフツーに人を好きになって、その好きになった人とフツーに生きて行けばいいんだよ。君にだって幸せになる権利くらいある」

 誰にもバレなかったし、私だっていまのいままで忘れていた。

 このまま忘れたままいたらどんなによかったか。

 なんで、

 思い出したんだ。

 気づいたら、

 モリの家の前に立っていた。正しくは、モリがモリの父親から任されている事業をするための事務所の前に。

 モリは、

 あきれたような複雑な表情を浮かべたあと。

「お前、嫌なことあるといつも俺のとこ来るよな」と言って笑った。

 この笑顔のお陰でもう一つだけ思い出した。

 あれは、二人だけの秘密じゃない。

 モリも知っている。

 なので3人の秘密になっている。

 最初に約束を破ったのは私だ。

 そうか、それで。

 あの女は私に。

「どうした?」モリがドアノブをがちゃがちゃしながら言う。「入れよ」

 納深風誼は。

 私を、

「呪い殺そうとしている」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る