第1話ー2 否定でなく中枢でなく


     02


 ノウ水封儀みふぎ

 彼女はとても危うい。

 極めて薄い氷の上に立っているみたいに。

 いつ凍える海の中に呑み込まれるともわからない。

 母親が同じ仕事をしていた。いや、順序としては逆だ。

 母親がいなくなったので、一人娘の彼女は、必然的に跡を継いだ。

 父親は、母親の仕事を手伝っていた。いわゆる触媒だった。

 母親は、触媒に“黒”が蓄積することを知っていた。

 父親は、それを知った上で協力していた。

 つまり、二人は、この状況がいつか近いうちに破綻することを知っていた。

 触媒を毎回交換すれば、触媒に蓄積する総量を抑えられる。触媒の命を守ることができる。

 母親は、この仕事をする上で、特定のパートナを作ることは不利益であると考えていた。

 しかし、父親と出会ってしまった。

 父親側に些かの独占欲はあったかもしれないが、父親は毎回触媒を変えることを良しとしなかった。

 母親はそれを拒んだ。

 愛しているからこそ、そんなことはできないと。

 父親はそれでも構わなかった。

 終いには、母親が折れて、父親を特定の触媒にすることにした。

 二人は結婚した。

 母親は仕事をしたくなくなってしまった。

 仕事を続ければ、それだけ父親との別れが早まってしまう。

 彼女によると、父親が死んだあと、母親もいなくなった。

 後を追ったのかも知れないし、触媒を取り替えながらどこかで仕事を続けているかもしれない。

 行方はいまだ知れず。

 母親と契約していた会社は、一人娘の彼女を雇い入れた。

 母親と同じ仕事をさせるために。

 彼女には、選択肢があったのだろうか。

 僕は。

 彼女の本心を聞いていない。









第2章 否定でなく中枢でなく




     1


 背中を覆うほどの黒く長い髪。

 黒いワンピースが体格をぼやかすが、身長はそこそこ高い。というか長い。

 長いまつ毛と分厚い唇に視線を誘導させる顔面で以ってベッドを一瞥する。

 女は。

 おもむろに納に馬乗りになって。

 何をするのかと思ったが。

 むしろ、こっちは止めに入ろうとしたが。

「やばい。落ちる。あとは」頼む、と納は言いたかったのだろう。

 黒い塊の中から納の寝息が聞こえた。

 て、寝たらまずいのでなかったのか。

「大丈夫」女はベッドサイドに座って黒い塊(納)を見下ろす。「眠ってもらう必要があったから。ただのマッサージだよ」

 その眼差しがどことなく優しかったので任せることにした。

 というか、馬乗りになってやっていたのはマッサージか。紛らわしすぎて肝が冷えた。

「ところで君、誰?」女が尋ねる。

「こっちのセリフなんですけど」

「まあいいや。いまはこっちが先決」女が指の骨をぽきぽき鳴らした。「見学するなら黙っといてね。気が散ると失敗するかもだから」

 長い髪を顔の前に垂らして、ぶつぶつと何かを唱える。

 同業者か?

 黒い塊に両手を入れて施術を始めた。

 納をすっぽり覆っていた黒い塊が消えていく。

 濃霧が晴れて、たちまち晴天になるイメージ。

 納がベッドにうつ伏せになって寝息を立てている姿が見えた。

「これでよし」女が長い髪を後ろに流す。「どうせ眠れてないだろうからこのまま寝ててもらうとして」

 じろり、と大きな黒瞳がこちらを向いた。

「みっふーの眼は君が奪ったの?」

「勝手に押し付けられたのを奪ったというのなら」

「返す気があるんならいいよ。問題はどうやって戻すかだけど」

 なんとかなった、のか?

 黒は消えた。

 納と同じく黒を祓える存在。

「どなたですか?」敵ではないと思うが。

「そっちは?」

 俺の名字を聞けば正体がすぐに伝わる。便利だけど面倒くさいときも多い。

「ふうん。時寧氏の甥は君か。僕はジャン=シャオレー。本名じゃないよ。日本人だし」

 仕事用の名前ということだろう。

 納水封儀と同じ。

「時寧氏は留守だね」ジャン=シャオレーがぐるりと部屋を見渡す。人という熱源をレーダーでサーチスキャンするような視線の動かし方だった。

「お知り合いですか?」

「みっふーのパートナになり損ねたバディて言えば信じる?」

 パートナ?

 バディ?

「いろいろあってね。君に話してもどうしようもないし、話す気もないから言わないよ。目下問題は、みっふーは君なしでは仕事もままならないってことかな。見えないから、あんな状態になっても暢気に寝転がってた」

「返せるのならとっくに返してます」

「悪意で奪ったんじゃなければ君に責はないよ。君が協力してくれれば仕事は続けられるから」

「一応、これが戻るまでは、そうゆうことになってます」

「じゃあいいよ。みっふーが起きたら仕事だ。付いてきてくれるかな」

「あなたは見えないんですか?」

 ジャン=シャオレーに黒が見えるのなら。

 わざわざ俺が付き添う必要は。

「見えていたら、と何度思ったかな。正直、君が羨ましいよ」

 西日が差し込む。

 夕方になって納の眼が覚めた。

 寝ぼけ眼でなくて、すっきりした顔をしていた。それこそ憑き物が落ちたみたいに。

「いつ帰ってきたんだ?」納が訊く。「それこそ修業は?」

「師匠を三十秒で落とせるようになったよ」ジャン=シャオレーが指の関節を鳴らす。

「破門じゃなければいいさ」納が鼻で笑う。「よく帰ってきてくれた」

 このやり取りだけで、この二人の関係の深さがうかがい知れる。

 ローテンションがデフォルトのはずの納に、人並みの体温が宿ったみたいに見えた。

「仕事だろ? 着替えてくる」納が隣の部屋に消えた。「先に出ていてくれ」

 事務所の駐車場に見知らぬ白いワゴン車が止まっていた。普段は時寧さんの車庫だが、時寧さんは出掛けているので空いている。

「なんで黒じゃないのかって思ったかい?」ジャン=シャオレーが思考を先読みした。「黒い車は目立つ。黒というだけで特徴になるからね。その点、白は埋没する。没個性という最高の平凡だよ」

「要は目立たないようにこそこそやってるってことでしょう?」

「当たり。君は年齢の割に察しがいいね。苦労するよ?」

「余計なお世話ですね」

 納が事務所から出てきた。脛まで隠れるベンチコートを、フードを目深に被った重装備で。

「助手、甕と水は持ったか」

「抜かりないです」手荷物を見せた。

 納が後部座席を陣取ってしまったので、俺が助手席に。あの身なりで助手席に座れば目立つだろうから仕方ないだろうが、ジャン=シャオレーの隣に座るのが割と苦痛だった。謂われのない嫉妬を向けられているので。

「じゃあ出発」ジャン=シャオレーがエンジンをかけた。

 最初に引っ掛かった信号の辺りで、時寧さんからメールが来た。要約すると、夜までには帰宅するように。

「トキネは放任か過保護かわからんな」納が呟く。

「なんでわかったんですか」振り返って睨んだ。

 納は後部座席の中央ではなく、助手席の真後ろに座っている。手元が見えるはずはないのだが。

「律儀にメールを返しただろう? 母親からなら無視だろうし、昼間に呼びつけた社員ならそんな顔はしない。簡単な消去法だ」

 自分では表情を出していないつもりだったが、これから注意したほうがいいだろうか。

 メール返信の間ナビから眼を離した隙に、まったく知らない通りを走っていた。建物も風景もどことなくよそよそしい。土地からすれば、よそ者はこちらだ。人間は自分の負の感情を自覚しないために、さも相手側が持っているかのように投影することがある。

 踏切を渡ったので、どこかの路線なのだろうとは思うが。単線だった。

 どこだ?ここ。

 雑草が生い茂る空き地に車を止めた。

 日はすでに落ちた。

 17時半。

 1時間程度しか走っていないはずだが、ここが本当に地図上に存在する場所なのか確信が持てなかった。

 上下左右に長い巨大な団地がそびえたつ。

 生ぬるい微風が頬を撫でた。

「トキネの管轄外だな」納が遠くに焦点を合わせながら言う。

「時寧氏は関係ないよ。僕が受けた仕事だから」ジャン=シャオレーが電子キーを手の中で転がす。

「なるほど。トキネが帰ってこないわけだ」

「管轄外にも評判が広まれば、みっふーの活躍の場が増えるよ」

「わたしはなにも引っ張りだこになりたくてやっているわけじゃない」

「僕には祓えない」

「どこから拾ってきた仕事かは知らんが、わたしに嫌われに帰って来たわけじゃないだろ?」

「触媒ならあるよ」ジャン=シャオレーが荷台を開ける。

 角度的に見えないが、おそらく。

 触媒が載っている。

「あと一時間はもつかな」

「それこそどこから拾ってきた?」

「対価にカネさえ積めば大抵のことは仕事になる」

「同意があるのは驚いたな」納が深く息を吐く。

「やってくれるよね?」

「世のため人のために働くなんてお前らしくもない。どうした? 師匠に扱かれすぎて頭がイカレたか」

 日はとっくに落ちている。影もできるはずはない。光源が上空から消えているのだから。

 しかし、その巨大な団地は。

 影じゃない。

 そうか。

 これは。

「あまり直視するな。寺のとは比べ物にならん」納が視線を誘導する。建物を見るなと首を振る。「こいつを取り壊して何を造るつもりだ?」

「さあそこまでは。無事に取り壊せる下準備をするのが僕の仕事だから。興味がないといったほうが正しいかな」

「いくつある?」

「三つ」

 納は黙ったまま。

 持ってきた触媒の数だろう。

「追加もできるよ」

「そうゆうことを言ってるんじゃない」

 遮断機が下りる音が聞こえる。

 電車はいつまで経ってもやってこない。

 長いことあの耳障りな警報が鳴っていたが、やがて諦めたかのように遮断機が上がる。

「運搬はこっちでやるよ」ジャン=シャオレーが台車を地面に降ろした。

「いざとなったら助手を載せて逃げろ」

「触媒を捨ててもいいなら」

「そいつはわたしの知る所じゃない」納の表情はフードに隠れて見えない。「助手の安全が最優先だ。こいつに何かあったら、わたしが許さん」

「交渉成立かな?」

「行くぞ」

 経慶寺のは練習みたいなもんだから、きっとこれが。

 初陣てことになる。

 黒を直視しないように、黒の内部に侵入した。








     2


 納水封儀。彼女と出会ったのは、忘れもしない、あの雨の日。

 とにかくカネがなかった。

 いわゆる事故物件だと説明を受けた上で契約した。

 風呂トイレ付きの1Kで月1万。

 他の部屋は通常の家賃。その部屋だけが格安だった。

 中途半端な霊感みたいなものがなければ問題はなかった。

 住んでからわかった。

 なにか、いる。のがわかる体質だということが。

 とにかく体調が悪くなった。身体のあらゆる場所が痛みを訴えた。

 見えるはずのない物が見えた。聞こえるはずのない音が聞こえた。

 引っ越すカネはない。ここを出るイコール路上生活しかない。

 雨と風さえ凌げればなんでもいいと考えた浅はかな自分を叱るために時間を戻したい。

 室内にいなくても具合が悪いまま。むしろどんどん悪化している。

 お祓いするカネがあればそもそもこんなところ契約しない。

 外に出て1円でも多く稼がなければ食っていけないのに。馬車馬のように働くだけの身体と心が壊れかけていた。

 そんなとき。

 彼女が、

 納水封儀がやってきた。

「ここの所有者が管理を手放した」そう言って、彼女はずかずかと室内に踏み入った。「任せろ。わたしは専門家だ」

 なんの?と訊こうとした声音は、彼女にしっかり届いていた。

「清掃以外はわたしの仕事だ。ただし、お前の」

 ハジメテさえ。

「もらえたらな」

 彼女はベンチコートを脱ぎ捨てて、白い襦袢姿になった。

 持ってきた甕にひたひたに水を汲んで。

 自分の頭の上でぶちまけた。

 血とも汚れともつかぬ正体不明の染みのうえで。

 彼女は、

 僕に手招きをした。

 雨は昨日の夜からずっと降り続いていた。

「お前、童貞でよかったな」

 そう言って彼女は、ベンチコートを着て、フードを目深にかぶり。

 雨の中を傘も差さずに帰って行った。

 その日以来、体調不良は嘘のようになくなり、

 なにか、いる。感覚が消えた。

 彼女は、お祓いをしてくれたのだ。

 物件の新しい所有者が来月から家賃を他の部屋と同額にすると言ってきたので。

 僕は、

 また。

 格安の物件を探した。

 曰くつきのヤバい物件を。









     3


 霊感みたいなものはないはずだが、それでもここは居心地が悪かった。

 面白半分で廃墟で肝試しする輩の気がしれない。命が要らないとしか思えない暴挙だ。

 とにかく1秒でも早くここから脱したい。

 寒い。

 とにもかくにも寒い。

「大丈夫か」納が振り返る。

 黙って首を振った。

「だろうな。これなら退去はとんとん拍子だったろうに。引っ越し代のおまけつきなら釣りがくる」

 納からの助言は、

 最低限足元と周囲だけ確認して付いて来い。

 やばいものを見つけたら、声を出さずに。

 照らせ。

「いたか」

 蛍光灯が割れているし、電気も通っていないので。

 頼れるのはこの頼りない、いつ電池が切れるともわからない懐中電灯。

「レー」納が顎でしゃくる。

「はいはい」ジャン=シャオレーがてきぱきとブルーシートを広げて、その上に。

 ごろんと。

 触媒を転がす。

 全身がずた袋に納まっている。申し訳程度に、四隅に空気穴があるので呼吸は問題ないだろうが。

「万一眼が覚めたら」

「心得てるよ」ジャン=シャオレーが指の関節を鳴らす。「二十秒もあれば」

「助手」

 ベンチコートは車に置いてきた。

 納の白い襦袢の背中越しに。

 ペットボトルの水を甕に入れて、納の頭上でひっくり返した。

「あとは任せろ。眼を瞑るか、あっちを向いていろ」

 閉眼が怖かったので、反対側の壁に対した。

 懐中電灯をシートの上に立てる。

 天井が仄かに明るく照る。

 ただでさえ暗いのだ。

 カビたような臭いも、得体の知れない不気味な気配も。

 黒が。

 拡大する。

「まとめて3フロアは射程圏内かな」ジャン=シャオレーが呟く声が聞こえた。「11階建てだから、さて、いくつ触媒が要るかな」

 単純計算で、一人足りない。

「いまのうちに補充の算段を立てるか、もしくは」

 どれかを2回使うか。

 ぞくり、と背筋が冷えて。

 黒が。

 後退した。

「次だ」納が裾を直しながら立ち上がる。

 さっきが1階だったので。

 3フロア上の。

 4階。

「急げ」

「仰せの通りに」

 もはや流れ作業で触媒がシートの上に転がる。

 水をかけるのは一度でいいらしいので、俺の仕事は黒溜まりを照らすだけ。

 黒が。

 消失する。

「最後」

 3フロア上の。

 7階。

「一気に5階分行く」

 無茶だとは思ったが、納を信じるしかなさそうだった。

 ジャン=シャオレーも特に止めようとしない。

 1回目や2回目より遥かに時間がかかっている。

 黒が。

 霧散する。

 までに触媒が目覚めかけたので、ジャン=シャオレーが落とした。

 肩に圧し掛かっていた正体不明の重さがすっと引いた。

 終わった。のか?

「どうだ」納はシートに座り込んで肩で息をしていた。

 そうか。成果は俺が見るしかない。

 心許ない懐中電灯で手当たり次第照らした。

 天井。

 壁。

 床。

「大丈夫です」

 黒は。

 消滅した。

「そうか、よかった」

 触媒(使用済み)を置いてまずは、納を台車に載せて車まで戻った。

 ジャン=シャオレーは文句も言わずに2往復した。

 触媒は何事もなく再び荷台に収容される。

 内一体は覚醒しかけたのでいいとして、他の二体は本当に生きているのだろうか。

 なにかに。あてられたのか。

 思考の澱がじっとりと纏わりついて離れない。

「駄目だ。寝る。着いたら起こせ」間もなく納の寝息が聞こえてきた。

 窓の外は真っ暗で。

 自分の顔がよく映る。

「疲れたよね。寝てていいよ」ジャン=シャオレーが言う。「学校もあるだろうし」

「学校行ってないんで」

「そうなんだ」ジャン=シャオレーの返答はどうでもよさそうだった。

 少なくともこれまでで一番好感が持てる相槌だった。

 自分以外の事情なんかに首を突っ込んでいる場合ではない。それなのに、ニンゲンは自分以外の事情に爛々と眼を輝かせて世話を焼いてくる。お節介極まりないし、迷惑以外の何物でもない。

「触媒のことは気にしなくていいよ。君には何の関係もない」ジャン=シャオレーは俺がちらちらと荷台を気にしているのを見通しているような口ぶりだった。

「どこに捨てていくつもりですか」

「捨てる? それもいいね」

「冗談でしょう」

「冗談に聞こえる?」

 ナビが親切に目的地付近だと教えてくれたので、会話はそこで終わった。

 事務所の駐車場は空いたまま。時寧さんは自宅に戻っただろうか。

 ジャン=シャオレーは納を起こさずに背中に載せて、事務所のベッドにゆっくり下ろした。触媒を無造作にシートに転がすのとは雲泥の差があった。触媒がそのへんの石ころだとしたら、納は取扱要注意の壊れモノ。濡れた髪を清潔そうなタオルで丁寧に拭って、濡れた白襦袢を着替えさせようとしたところで。

「わたしは起こせと言ったはずだ」納が眼を開けた。

 ジャン=シャオレーの腕を掴んで、行動を制止する。

「チップくらいくれたっていいのに」ジャン=シャオレーは大げさに肩を竦める。「助手くん、家まで送るよ」

「なんで助手を連れていくんだ。強欲なのも見過ごせんが」

「送るだけだよ。信用ないな」

「先に触媒を返して来い。助手はわたしが責任もって帰す」

「はあい。じゃあ、ここで。お疲れ様」ジャン=シャオレーは背を向けて手を振った。

 車が遠ざかったのを聞き届けてから。

「レーをどう思う?」納が神妙な顔で言う。「よく帰ってきた、と言ったのを撤回する。あいつは帰ってこないほうがよかった」

「パートナって言ってましたけど」

「バディてのもあいつが勝手に言ってるだけだな。この仕事に連れも相棒も必要ない」

 こっそりケータイを見た。

 サイレントにしていたから気づかなかったが、通知が十数件。わざわざ開いて確認しなくてもわかる。

 ぜんぶ、同一人物からだ。

 もちろん母親でも、時寧さんでもない。

「心配してくれる他人がいるのはいいことだ。だいじにしたほうがいい」

「そっちこそ。甲斐甲斐しく世話されてるじゃないですか」

 時寧さんにも。ジャン=シャオレーにも。

「トキネはわたしの世話が仕事なんだ。恩を感じる必要はない。比べてシャオレーは下心しかない」

「どういう関係なんですか」

「袖がすり合った程度の他人だ。勘繰らなくていい」

 それ以上聞くなということだ。

「ところでどうやって責任を持って帰してくれるんですか」

「明るくなったら帰ればいい。安心安全だろ?」

 泊まれということか。

「トキネが噛んでると思ったんだ」

 喜び勇んで仕事に出かけたのに、直前で躊躇ったことへの言い訳だろう。

「あいつの師匠はただのマッサージ師だよ。安眠専門の。てっきり万年不眠のわたしをなんとかしようと導き出した答えだと思ってたんだが、本音は別のところにあったらしい」

 触媒を眠らせる云々は、寺の帰りに納が言及してた気がするが。

「わたしが言えた義理じゃないが、レーが触媒の人権に配慮できるようには思えんな」

 納がゆっくり立ち上がる。まだ足元がふらついている。

「大丈夫ですか」支えようとした手を。

 ぎゅう、とつかまえられる。

 相変わらずの、冷たい冷たい手で。

「シャワーに行く。なあ、少しでも助手だという自覚があるなら、しばらくわたしの傍についていてほしい。嫌な予感がする」














     4


 とにかくカネがなかった。

 どのくらいないかというと、今日一日どこで寒さをしのごうとか、食い物をどうやって確保しようかってのを、毎朝起きた瞬間考えなきゃいけない程度には。もっと言うと、眠る前からずっと考えていて、起きてからそれを実行に移せるのかをまた考えて。

 手っ取り早いのは、誰かに寄生することだ。宿と食べ物を無償提供してくれるお人好しを見つけて、食いつぶしてやればいい。伝手や友人とも言い換えられる。家族とも言うのかもしれない。

 でもそんなものがいたら、そもそもこんなことにはなっていない。

 誰もいない。頼れる人が誰一人いない。そうゆう奴だって存在している。

 存在しなければよかった。

 最初から生まれていなければ、こんなに苦しむこともなかったのに。

 手っ取り早くまとまったカネが手に入る方法。美味しい話には裏がある。わかっている。

 でもそれでも。

 生きていくためには、なんだってしないといけない。

 生きていきたいのだろうか。

 それほどに価値があるとも思えない。このまま生き永らえたところで何の役にもたたない。

 そんなとき。

 声をかけられた。

 おそらくかける側としては誰でもよかった。俺みたいなカネに困った碌でもない輩なら。

 そいつは、マッサージの練習台を探していた。

 マッサージの前に、まず丁寧に身体を洗えと言われた。たしかにこんな何日もまともに湯を浴びていない臭う汚い見た目はなんとかしろと思われても仕方ない。

 浴室で目隠しをされて、椅子に座らされた。一瞬だけそうゆうサービスを想定したが、単に全身を洗われるだけ。ゴシゴシと。たわしでも使ってるんじゃないかというくらい。溜まりに溜まった垢どころか、皮までベロンベロンに剥けたと思う。しかし、特に念入りに洗われたのは。

 まあ、いいさな。そんなことはどうでも。気持ちよかったからよしとする。

 身体の水分を念入りに拭われ、ふかふかのベッドに案内された。

 目隠しはそのまま。

 仰向けに寝そべって。

 頭皮のマッサージを。

 されるがまま、そのまま意識が遠ざかって。

 気づいたら息苦しいわ、手足は縛られてるわで。口には何か咥えさせられてるし。

 やけに下半身だけが灼熱に焼けている。

 頭皮のマッサージをまたされて。気づいたら今度は。

 寒空の下、やけに風の通りのいい場所に磔にされていた。両手首と両足首をそれぞれ強く括りつけられたまま、大の字で立っている。

 目隠しはなかった。猿ぐつわはそのまま。

 ここは、

 どこだ?

「あ、おはよう」マッサージ師が言う。暗いのでよく見えないが。

 女か?

 長い髪が風になびいている。

「たのむ、おねがいだ、おれがなにしたっていうんだ」切羽詰まった金切り声が響いた。

 ケータイがスピーカになっており、女が通話しているらしかった。

「なあ、おねがいだ、きいてるのか。たのむ、たのむから」

「君の役目は終わったんだよ」女は俺の股間に顔を近づけて。

 べろべろと舐め始めた。

「その路線、電車が来たり来なかったりするんだけど、あ。噂をすれば」

 遮断機の下がる音が聞こえる。通話相手の環境音を拾っている。

「いやだ、おねがいだ、なんでもする、かねもかえす、だから」

「大丈夫大丈夫。なんかその遮断機壊れてるみたいでね。終電が行った後も何度か下がったり上がったりするんだけど、結局何も通らないんだよ。ほら」

 カンカンカンという音が止まった。

 女は俺の股間を執拗にしゃぶり続ける。

「なあ、たのむよ、もどってきてくれよ、こいつを、ほどいて、そうしないと、おれ、おれは」

「始発が5時台だったから、あと、えっと、暗くて時間がよく見えないや。やっぱり三つも同時に処分するのもめんどくさいな。そのまま待ってれば君は電車に轢き殺されるんだから、大人しく待ってなよ」

「いやだ、いやだ、おれは、おねがいだ、なあ、あんた、こんやのことは、ぜんぶわすれるから、おれはなにもみてないし、なにもしらない。なあ、それでいいだろ。おねがいだ、だから」

「触媒が生体じゃなきゃけないのはたぶん後々の不都合につながると思うんだよね」

 快感を与えるためにやっているというよりは、表面に付いている何かを余さず味わい尽くしたいかのような。

 不気味で不可解な舌の動きだった。

「うるさいな。せっかく汁を堪能してるってのに。味がまずくなる。ちょっと電話切るね」

「うそだ、いやだ、たの」

 スピーカが沈黙した。

 女が顔を上げる。

 眼が合った。

「おまえらはこのだんこんにしかいみはない」

 ひどく抑揚の欠いた平板な声音で女は喋る。

「じんかくだとかいのちだとかなくなってくれたってだれもこまらない。どうていでよかったな。おまえらはさいごにひとのやくにたった」

 黒い闇のような眼が呑み込む。

 やっと、

 恐怖が追いついた。

「ああ、そうだった。もう一つあった」

 女は(女か?)俺から離れて、片手でずた袋を引きずってくる。

 ちょうど人がひとり入りそうな大きさの。

 いま気づいた。ちょうどそれと同じようなずた袋が、俺の足元に落ちている。

 女はハサミを使ってずた袋に穴を開ける。

 そこに手を突っ込んで、竿を引きずり出す。

 一心不乱にむしゃぶりついた。

 似ているのは、肉食動物の捕食。

「おいしい、ああ、まだ、あじがある」

 意味がわからなかった。

 しばらくの間、唾液の絡まる音を立ててしゃぶり続けていたが、なぜか。

 そのずた袋はぴくりとも動かない。

 そこに入っているのは、なんだ?

 生きているのか。

 それとも。

「あーあ、もうあじがしない」

 女はすっと立ち上がり、ずた袋を力の限り蹴り飛ばした。

 眼が、

 合った。

「なんだまだいきてたの」

 おかしい。

 こいつは、気が狂ってる。

 だめだ。

 俺は、殺される。

「なーんてね」女はにっこりと笑顔を浮かべて電話を耳に当てた。

 ゾッと背筋が冷えた。

 汗だか涙だかわからない液体がこぼれる。

「ごめんごめん。まだ生きてる?」

 スピーカからはすすり泣く声が聞こえた。

「気が変わった。いまからそっち行くから。ちゃんと生きててよ」

 女はケータイをスピーカ状態にして、俺の足元に置いた。

「いいこと教えとくけど、手も足も、力づくで引き千切れる程度の拘束だから。逃げたくなったらどうぞ? ただおカネが欲しいんだったら、僕が戻るまでは待機のほうがいいと思うなぁ。直接渡してあげるから」

 そう言い残すと女は、手ぶらでその場からいなくなった。

 電話口で話していた男のところに行くのだろうか。線路に括りつけられているという哀れな男の。

「ここだ、ここだ。おねがいだ、たのむ、これをはずしてくれ」

 しばらくして、体感10分弱なのでそう遠くではないだろうが、女が現場に到着したらしい。

 男はここぞとばかりに命乞いを続ける。

「なあ、おねがいだよ、かねはほとんどつかってねえんだ、ぜんぶ、ぜんぶかえすよ、だから、なあ」

「自分がどうしてこんな状況になってるのちっともわかってないよね?」女の声が大きくなる。

 男の耳元にあるケータイに顔を近づけたのだ。

「お前もう死ぬしかないんだよ。わかんない? 童貞でもないし、味もしないし。生きてる意味とか、僕に会うずっと前からなかったじゃん。なのに今更何? まとまったカネが手に入れば、人生やり直せるとでも思った? 無理ムリ。おカネってのは貧乏人が大嫌いだから、すぐになくなっちゃうよ」

 女がケータイを置いて行った理由がわかった。

 俺に聞かせるためだ。

 女は、線路に括りつけた男の様子を見に行くのに見せかけてその実、俺に話しかけている。

 たしかに生きる意味なんかすでになかった。このまま俺みたいな人間のクズが生き残っていたところで、社会に貢献できるわけもなく。世のため人のためと考えるのなら、このまま静かに消えたほうが。

 いや、でも。それでも。

「ないよ。ないんだよ。断言できる。なぜならお前は」

 カンカンカンカン。

 踏切の遮断機が降りてくる。

 ゴゴゴゴゴゴと地鳴りのような音が近づいてくる。

「聞こえるかい? まだ終電じゃなかったみたいだ。ほら、見えるだろ?」

 男が半狂乱で暴れている。

 彼の手足は申し訳程度の拘束ではないらしい。どれだけもがいても外れない。

 どんどん音が大きくなってくる。

 泣き叫ぶ悲鳴と。

 会話の声が掻き消されるくらいの。

 でかい。

 音がして。

 ケータイが沈黙した。

 体感で10分後。女がここに戻ってくる。

 試しに手を強く動かしてみたら。

 本当だ。

 自由になった手で足の拘束も解いた。

 ここが、

 どこか。

 わかった。

 建物の屋上。

 地面がよく見えないのは暗さのせいではない。

 女が、

 歩いてくるのが見えた。

 いや、俺はそんなに眼がよくない。

 だからきっと、幻を見ている。

 女は俺を殺すだろう。

 いや、直接手を下さないかもしれない。

 ただ黙って、死ぬのを見ているだけかもしれない。

 見たいのなら、

 見ればいい。

 屋上のフェンスを乗り越えて、縁に立つ。

 女の足が止まった。

 こちらを見ている。

 女が手を振った。

 さようなら。

 そうゆうことだ。

 地面がやけに遠かった。

 永久に落ちているような地獄。

 いや、あのまま生きていたほうが地獄だ。

 女が嗤った声が聞こえた。

 気のせいだ。













     5


 翌朝。結局家に帰ることはなく、納に連れられて新幹線に乗った。

 地上か空か選べと言われたので、地上を選んだらなんのことはない、新幹線のことだった。

 切符代は納が払った。こないだ貸した布団乾燥機代はこれでチャラだとか言われたが、新幹線代のほうが圧倒的に高い。額の大小にこだわるなとも言われたが、おそらくこれはただの貸し。近いうちに無理難題をごり押してくる布石でしかない。

「雪で止まってるとかじゃなくてよかったな」納は満足げにリクライニングシートを限界まで倒した。

 後ろは誰もいない。それどころか車両内はほとんど人がいない。

 俺の気のせいでなければ、切符に書いてある行き先は。

「秋田?ですか」

 ここからおよそ4時間弱。

「寝てていいぞ」

 いや、そうではなくて。

 もっとだいじなことがあるのではないだろうか。

「なんだ、不満げだな」

「何をしに行くのかまだ聞いてないんですけど」

「東京の本店をぽいっと任せて自分はさっさと田舎に引っ込んだのが悪い」そう言って、納がケータイの画面を突き出した。

 安眠マッサージを謳っている店舗のウェブページ。

 創始者の写真。

「師匠って人ですか」

 眼を離した次の瞬間には存在すら忘れていそうな、これといった特徴のない顔つきだった。

 男だったのはちょっと意外だが。

「駅に迎えに来いと言ってある」

「電話じゃ駄目なんですか」

「どっかの誰かがどこで聞いてるかわからんからな」

 ジャン=シャオレーの師匠に直接文句を言いに行く、という趣旨で間違いないのだろうか。

 なにがなんでも俺が付き添わなければいけない回避不可能な理由が見当たらない。

 これ以上の追及を鬱陶しく感じたのか、納は窓側に顔を向けて眠りの体勢に入った。

 目的地は終点なので眠っていてもよかったが、妙に眼が冴えてしまい。ぼんやりといろいろ考えて、考えれば考えるほど俺とは無関係なところで世の中が動いている。そんなことは当たり前なのだが、俺を余所によけたうえで進んでいくのは一向に構わないし、これまでだってずっとそうだったはずだ。

 なのに、何がどうしてこうなったのか。

 相変わらず黒はちらつくし、気にするなと言われれば視界の隅に追いやることもできるのだが。

 この状況が普通になってしまったらと想像すると、遣る瀬無いというか、やってられないというか。

 納は最初この力は不要と言った。取り戻したくないとも言った。

 しかし、すぐに撤回して俺を巻き込んで、物は言いようだが、協力関係を乞うてきた。

 なぜ、見えるようになったのか。

 触媒にされたことが発端だとするなら、これまで触媒となった相手も同じ状況になっていなければおかしいし不公平だ。なんでよりにもよって、無関係で巻き込まれただけの俺に。

 人違いだったのなら、気づいていたのならなぜ。

 俺のせいか。

 なるほど。自業自得とも言える。かもしれないようなそうでもないような。

 そんなこんなで約4時間後。

 さすが豪雪地帯。ここまで高く積もった雪は生まれて初めて見た。

 降り方もちらちらではない。黒に侵食されつつあった視界が白で上塗りされる。

 そして、寒い。

「帰れなかったら泊まりですか」首元までダウンコートのファスナを上げた。

「そのとき考えればいい。お前は石橋を叩きすぎて仕舞いに破壊するタイプだな。早死にする」

 雪にまみれるのを嫌って、駅舎の庇のあるぎりぎりの位置でロータリィのほうを眺めてみるも、迎えらしき人と一向に眼が合わず。

「雪で遅れてるんだったらいいが」納が電話をかけたが、しばらくして首を振る。「駄目だ。つながらん」

 妙に背筋が冷えるのは、ただ単に気温が低いせいだけではないのかもしれない。

「住所は?」

「わからんこともないが、最悪の結果になってるかもしれん」

「あの、最後に電話したのって」

「してない。ああ、そうか。メールの返信自体が別人だった可能性か」

「無駄足ってことですか」

 納がううんと唸って空を仰ぐ。

「行ってみますか?」マッサージ師宅に。

 風が強くなってきた。駅舎内に戻る。

「もう一度かけてみる」納が電話を耳に当てる。「やっぱりな。お前か」

 今度はつながったようだが、電話口の相手は本来の持ち主ではないのだろう。

 納が眉をひそめて、電話を指差す。

 電話に近づいて会話を聞けという意味らしい。さすがに往来でスピーカにするリスクは冒せない。

「いないんなら、乗る前に教えてほしかったんだがな」

「往復二人分いくら? 戻ったら払うよ」

「カネの問題じゃないんだ。お前はわたしと助手のそれぞれの時間を無駄にした」

 納にタメ口で話せるのは、時寧さんじゃなければ。

 俺が知ってるのはたった一人。

「それに随分と羽振りがいいじゃないか。カネなしヒマなし根性なしが売りだったろう?」

「お金があると暇っていくらでもできるんだね。根性は昔から曲がってたからどうにもならないよ」

 ジャン=シャオレー。

「わたしに言っておくことがないか」

「ごめんなさい?」

「なんで疑問形なんだ」電話を持っていないほうの手が、手持ち無沙汰に空を掴む。

 納特有のいつもの軽口に見えるが、相手の出方を最大限考慮しての最大攻撃かつ最大の防御をしている。かなりの神経を割いているのが、横に突っ立っているだけの俺にもわかった。

「昨夜の触媒のこと、憶えてる?」

「いちいち憶えていたら身がもたん。やり捨てが基本だ」と吐き捨てつつ、納の表情が凍る。「お前。まさか」

「匿名希望の触媒A、B、そしてCの正体を端から明かそうか?」

「あの中にいたんだな?」

「みっふーが気にすることじゃないよ。調達係がうまくやらなかったことが原因だから。師匠と連絡を取ることになったのが想定外なだけで」

 納が口を抑えて絶句している。

 あのずた袋の内の一つが、これから会うはずだった人物だったと知ったときの気持ちを五文字以内で答えよ。

 最悪だ。

「みっふーがそんなに師匠のことを思ってたのはちょっとショック」

「生きてるんだろうな?」

「それは希望? それともお願い?」

「事実だけを言え」

「みっふーの願いは届かないよ。残念だけど」

 納がついに顔を覆った。

「みっふーが覚悟を決めないと、触媒の山が増えるだけだね」

「二度と調達係を買って出るな」

「僕が黒に呑み込まれるまで、使い潰せばいいのに」

「いいか?事実だけを言え。昨日の触媒はどうした?」

「全部息してないね」

「お前が危害を加えたのか」

「殺したって言えばいいのに。そこそんなに人いるの?」

 納が深く息を吐く。

「帰るまでに自首する気はあるか」

「返答次第だね」

「固定のパートナを持つ気はない」

「交渉決裂?」

「何が望みだ?」

「あれ?伝わってない? みっふーのパートナになってバディとして隣に並ぶことだよ」

「天地がひっくり返ったとしてもあり得んな」

「そう? いい提案だと思ったんだけど。残念だな」

 納が持ち手を替える。右耳に当てたまま、左手で電話を押さえる。

 本当は左手に持ち替えて左耳に当てようとしたのだろうが、俺が横で聞いているのを思い出してやめたらしい。俺に視界の隅でちょろちょろ動かれるのが、少なからず気に障ったのだろう。

「帰る前に、じゃなくて、帰った後ならどうだ? 特別に付いて行ってやってもいい」

「みっふーが黙っててくれることを期待するけど?」

「逃げられると思っているのが浅はか極まりないな。どうせその辺に捨てたんだろ? すぐに見つかって」

「逆に聞くけど、見つからなかったら、いくらみっふーが証言したって意味ないよね?」

「大した自信だな。自分は絶対に捕まらないとでも思ってるのか」

「いま運行状況見ながら話してるんだけど、このまま降り続けるとさ、新幹線、止まっちゃうんじゃない?」

「忠告ありがとう。さっさと帰ってお前を然るべきところに連れていくことにしよう」

「どこだろう。市役所?」

「切る。逃げるなよ」納は、返事を聞かずに電話を耳から離した。ディスプレイに付いた汗を適当に拭う。「悪かったな、付き合わせて」

「それもうちょっと早く聞きたかったですね」

 滞在時間は一時間にも満たない。秋田の名物も何も食べなかったし、土産すら選ぶどころではない。

 雪は相変わらず吹雪いていたが、新幹線は辛うじて動いていた。ただ、これよりあとの便がどうなるかはわからないが。とりあえず、間に合った。

 徒労だけが、べったりと肩から背中にかけて貼りついていた。朝から大したものを口に入れていないが、エネルギィ補給という意味合いの食事すら億劫になるくらい、とにかく何もしたくなかった。

 時寧さんが事務所にいなくてよかった。この状況を一から説明するのが面倒くさすぎる。納は絶対に何も言わないだろうから、面倒事はすべて俺にお鉢が回ってきてしまう。

 間もなく20時になろうかというところ。

 シャワーを浴びた納が、スウェット姿でベッドにひっくり返る。

「待ち伏せがなかったなら、今日はもう動かんかな」

 ジャン=シャオレー。

 何度か電話もかけているが、電源が切れているというアナウンスが繰り返される。メールにも応答はない。

 あちら側に待ち伏せのメリットは何もない。むしろ納から逃げる必要がある。会えば自首ないし罪を公にされるだけ。とすれば、何らかの、それも勝算の高い狙いなしに、納に接触するメリットは現時点でないと判断していい。

「そろそろ帰ってもいいでしょうか」

 昨日だって結局帰れていない。生存確認のメッセージをずっと無視し続けるわけにいかない。

「レーが次に狙うのは助手のお前かもしれないのに?」

「一緒にいたところで守ってくれるわけじゃないんでしょう?」

「そいつは期待するな。でも二人のほうが何かと便利なこともある」

「例えば?」

 急に呼び出し音が鳴って吃驚した。廊下かもしくは他の部屋から聞こえる。

「電話だ。留守電になってるし、ドアの向こうは私の管轄じゃない」

 ほぼ納の自宅と化していたから忘れていたが、ここは時寧さんの事務所だった。

 時間差で車庫に車が止まった。

 この部屋からは見えないが、エンジン音が聞こえた。

「トキネじゃないな」

 と言われたので身構えたが、時寧さんじゃなければ、ここに来るべきはもう一人。

 もちろん、ジャン=シャオレーじゃない。

 納と一緒に、廊下で出迎えた。

「おや、誰かと思えば。久しぶり」時寧さんの夫。俺の伯父。「最近よく来てるって聞いたけど。仲良くなるなんて珍しい」

「先生。実はかくかくしかじかで、そいつはわたしの助手、いやいっそ弟子として迎えることにした。なかなか見所がある。ここまで相当の戦場を乗り越えたんだ。資格は充分にある」

「ええ? そうなんだ。それは大変だったね」伯父が俺を見て眼をぱちくりする。眼鏡の奥の小さい眼がちょっと大きくなった。

「ただの助手だった気がするんですけど」

 助手と弟子じゃ全然違う。

 手伝いと見習いでは、最終的に目指すポジションに差がありすぎる。

「お前もう腹を括れ」納が面白半分で言っているのがよくわかる。

 伯父は向かいの部屋に入って、電話機近くの紙の束をつかんで、ざっと目を通すと無造作に鞄に入れた。

 さっきの音は電話でなくてFAXだったらしい。

「いまどきFAXですか?」ちょっと皮肉を言ってみた。

「改竄とハッキングが難しいからね。医療現場はこっちのほうが重宝してるよ」

「素人がいい加減な口を挟むな」納が窘める。

「みふぎさん。いつもの出しとこうか?」

「それがかくかくしかじかで、いまは要らなくなった。また要り用になったらお願いするかもしれない」

「へえ、眠れてるなら使わないに越したことはないけど。今度ゆっくり聞かせてくれるかな」

「先生に頼らなくなる日も近いかもしれない」

「ますます気になるけど、今日は遅いし、帰ることにするよ。あっくんも送ってこうか?」

 はい、お願いします。と言いかけたところで。

 納が目線で首を振っているのが見えた。

「せっかくなんですけど、ちょっと野暮用がありまして」

「野暮用とはなんだ。わたしのボディガードと言え」納が不満げに野次を飛ばす。

「え、どうゆうこと?」伯父が俺と納の顔を交互に見比べる。「助手に弟子に、いろいろ忙しいね」

「それとなく用事があるふりして見に来たのはわかってる。口添えしてくれとは言わない。誤魔化さなくていいし、いまここで見たままを報告してくれていい。だが、もう少しだけ様子を見てほしい。それにわたしは、弟子を、あっくんを危険な目に遭わせないことを約束する。わたしの命をかけたっていい」

「みふぎさんに隠し事はできないね」伯父が苦笑いする。「でもそう簡単に命をかけなくていいよ。あっくんだって、みふぎさんだって、両方だいじだ。二人とも無事ならそれでいいよ」

 伯父はそう言い残すと、さっさと帰ってしまった。本当に仕事のFAXを取りに来るついでに、ちょこっと偵察がてら様子を見に来ただけなのかもしれない。

「先生はああ見えて喰えないからな。絶対に腹の内は晒さないし、晒す腹もない聖人君子ぶりだ。トキネが堕ちたのもわかる」

「やたらと評価高いですね」

 突然納が、伯父の部屋に入る。落ちていた紙を拾った勢いのまま、廊下を走って玄関を開けた。

「どうしたんですか」

「やられた。先生は車を持ってない。トキネの車しかないからここは一台しか止められない」

 つまり、さっきの車は。

 電話が鳴った。

「先生!?」納が応じる。すぐにスピーカに切り替えた。

「遅かったからかけたよ。疲れて判断力が鈍ってるね。遙々秋田まで行ってくれた意味があるかな」

 ジャン=シャオレー。

「先生は無事なのかと聞いている」

「助手?じゃなかった、弟子くん連れてでいいから、おいでよ。住所はいまから送る」

 メールの着信音。

「仕事も兼ねてるから、いつもの戦闘服でね。僕あの服好きなんだ。だって白無垢みたいだからね」

 電話が切れた。

 先生が落として行ったFAXには、履歴書のコピーが印刷されていた。

「これって」

「あいつ、自分を売り込みに行ったな」

 証明写真もまったく別人だったから気づかなかったが、これが。

 ジャン=シャオレー。

 本名は、

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