タウ・デプス
伏潮朱遺
第1話ー1 来る(う)な止まれ
0
薄暗い部屋に一人、女が立っていた。
逆光なので顔もよく見えない。表情もわからない。
でも、女だとわかった。
女はこちらの存在を把握して、手招きのような眼差しを向けた。
近づく。
ゆっくりと。
足が。
勝手に歩んでいる。
手が。
触れようかという。
そんな距離。
ぱっくりと。
大きな口を開けて待っている深海魚。
いや、罠を張って、飛び込んでくる阿呆を。
嘲笑っている?
白い。
細い。
指が。
躊躇っている?
ここにいてはいけないという意志と。
ここにいたいという意志が。
渾然一体に混じり合う。
いなくなったほうがいい。
虫の報せというやつが。
聞こえたときにはもう遅い。
早くここから。
出たところでどうだというのだ。
どうもならない。
すでに。
済んでしまった。
半裸の女が上体を反らす。
息を。
吸って吐いて。
ああ、と女が呟いた。
「なんだ。人違いだ」と。
タウ・デプス
第1章 来る(う)な止まれ
1
「だからごめんって」伯母――
「じゃあ時間を元に戻してください」
「うーん、そうゆうのは、ちょっと」
「じゃあもう俺に構わないでください」
帰ろうとしてドアに手をかけたところを時寧さんに呼び止められる。
「わかった。わかったから、時間は戻せないけど、私に出来ることはするよ? そうだ。あっくん、いま欲しいものない? 私が買ってあげる」
「時寧さん、俺がいま一番欲しいもの、何だかわかりませんか?」
「あるの?欲しいもの。言って?」
「本人からの謝罪です」壁際に眼を遣る。
簡易ベッドに寝そべっている姿に。
視線は合わない。
向こうが背を向けているから。
「もともとあっちのせいだと思うんですけど」
「だからね、あの子の代わりに謝ってるんだよ?」
「あの人は、口がきけるでしょう? それなら本人から謝るべきではないんでしょうか」
「わたしは眠っている」息だけの声がした。
「みふぎ」時寧さんが溜息を吐く。
それが彼女の名。
本名ではないらしい。
「あれが、みふぎの仕事でね」時寧さんが前髪を掻き上げる。「あの方法で、その、なんてゆうか、霊を」
「時寧さんはこの世に幽霊なんかいると思っているんですか」
「そうゆう話をしてないんだけどなあ。まったく、こうゆうところが妙に現実的で誰かさんそっくり」
時寧さんに勧められた椅子に座る。
診察用の、ゆったりとした肘掛椅子。体重をかけると背もたれが倒れて話にくいので、前のめりに踏ん張った。
「今日、時間あるの?」時寧さんが腕時計を見ながら言う。「帰りは送るからさ、心配しないで」
納水封儀。
「本名は私もよく知らないんだよね」
時寧さんがわざとそう言ったのか、本当に知らなかったのかはわからない。
仕事をするに当たって付いているラベルの真偽なんてどうだっていい。後ろを向いているとき、大勢の中にいるとき、その人を確実に呼べるのであれば、なんだって。
彼女の仕事は、
この世ならざるものを成仏ないし浄化させること。
彼女が言うには、それは地縛霊であり、その場所に留まっている霊である。
ただの霊であればいようがいまいが問題ないのだが、時折それは、人に対し害を与える存在になり得る。
住人がいなくなった家屋や建物に留まる霊を、彼女は。
「倒したり消したりするんなら、方法的にはわかりやすいんだけどね」時寧さんが言う。「まあ結果的には霊は倒されているし消えているから間違っちゃいないんだけどさ」
「その方法のせいで、俺が犠牲になった、てことなんでしょう?」
犠牲。
敢えてオブラートに包んだ。
彼女が霊を解き放つために必要なものが3つある。
1つ目、自分自身。
2つ目、
そして、3つ目。
「童貞じゃないから中途半端になった」加害者が言う。
「童貞じゃなかったの?」仲介者が言う。
「童貞です」被害者が言う。
つまるところ、人違いだったらしい。
本来協力すべき人間がそこには行かず、
たまたま待ち合わせの時刻に立ち寄った俺を協力者だと勘違いし、
強制的に儀式とやらを行ったものの、
思う通りの結果が出ず、
彼女は大変ご立腹で不貞寝をしている。とそういうわけなのだが。
「初めて失敗した」彼女がうわ言のように呟く。「絶対上手くやれるビジョンがあった」
「俺のせいってことですか?」彼女の後頭部に言葉を叩きつけるつもりで言い返す。「そもそも人違いだったわけでしょう? それに責めるなら、来なかった協力者のほうを」
「敵前逃亡は死罪だ」
「じゃあ、人違いに気付かずに無理矢理襲っておいて挙句失敗したのは、あなたのせいじゃないっていうんですか?」
「そうだ。わたしのせいじゃない」
なんでそんな堂々と責任転嫁が出来るのだ?
腹が立つを通り越していっそあきれてきた。
「触媒の質が悪かった」彼女がぶつぶつ呟く。「あれだけ準備して臨んだのに。あそこのはここいらでも最上位に性質が悪い。それを失敗したんだ。どうなると思う? 考えただけでも悪夢だ。また不眠になる」
駄目だ。
これまでそれなりにあらゆる理不尽や不条理には遭遇してきたつもりだったけど、
ここまで話が通じない相手は初めてだ。
この場にいるのがひどく不快になってきた。
「時寧さん、もういいです。帰ります」
「トキネ、これに懲りず活きのいい童貞を仕入れてきてくれ」
「その言い方はどうかと思うけどね」時寧さんが肩を竦める。「眠剤を増やしたいなら、そろそろ帰って来るはずだから」
帰って来る、の主語は、時寧さんの夫だろう。
俺の伯父。
どこぞのあの人の会社の、産業医も務めている。
時寧さんの車で家まで送ってもらった。
「気ィ悪くした?」時寧さんが言う。「悪い子じゃないの。ただ仕事熱心すぎてね。そこが唯一の欠点かな」
「一つ聞いていいですか」うんともいいえとも言いたくなかったので話を逸らした。
「みふぎは私の子でも、ダーリンの子でもないよ」
「でも住まわせてるじゃないですか」
「誰も面倒を看ようとしないし、みふぎ自身も自分のこととなると途端に放置になる。それにね、これは大人の言い方をすると、お互いに利用しあっていることを両者共によしとしているんだ。契約関係ていうんだけど」
「どうでもいいことを聞いてすみませんでした。もうしばらく会いたくないので」車のドアを丁寧に閉めて背を向けた。
「ねえ、あっくんは、どうしてあそこにいたの?」
「答えたくないです。じゃあ」走って家に入った。
放っておいてほしかった。
しかし、放っておいてほしいときに限って、世間様はお節介に構ってくるのだ。
窓枠にぶら下がっているあの黒く細長い物体と、
廊下を行ったり来たりする黒く丸い塊は、
一体何なんだ?
何度眼を洗っても同じ。
何度眼をこすっても、眼をつむって開け直しても。
それは、
そこにいた。
認めたくないが、あの女の体質が感染ったのではないだろうか。
中途半端。
失敗。
まさか、そうゆうことか?
急いで時寧さんに連絡してあの女に。
「やっぱりそうか」納水封儀は妙に納得した様子で。「やけに視界があっさりしてると思ったんだ。お前、ちょっと持っていったな」
「いますぐにお返ししたいんですが」
それは無理だ、と彼女が電話口で空笑いする。
「わたしだって、そんな迷惑な能力は要らない。他人に押し付けられるんなら」
願ったり叶ったりだ、と。
冗談じゃない。
「もう一度やったら戻せますか」
「これは勘だが」彼女が他人事のように言う。「時間経過に伴って、いまわたしから失くなりつつあるこれは、完全にお前に移行する」
「じゃあ」
どうすればいいのだ。
「わたしにだってわからんよ」
2
年齢、20歳前後。
性別、女。
職業、自称・祓い巫女。
仕事内容、いわゆる事故物件の清掃以外の処理。
伯母に聞いたら、自営ではなく、あの人の会社に籍がある専門職だそうだ。
そんなことはどうでもよくて。
「脅威度は、存外わかりやすい」納が得意そうに言う。「見た目の大きさに比例する。手の平サイズまでは無視していい。犬や猫くらいの大きさのは、眼が合わないように注意しろ。ニンゲン大の大きさのが、わたしの祓う対象だ。ただ、うろうろしているのは専門外なんだ。家屋の中で、じっとしてるヤツ。そいつを」
「見えなくさせる方法を考えてください」
時寧さんの事務所に住みついている納を翌朝訪ねた。時寧さんは朝ご飯を差し入れするとさくっと出掛けてしまった。たぶん、こっちの叱責を避けて逃げた。あの人は昔からああゆう人だ。
サイドテーブルに読みかけの本が伏せてあった。タイトルはこちらから見えない。
「言ったろう、不眠だって」納があくびを見せつける。「一睡もできなくてな。いろいろ考えた。お前にそれが完全に持ってかれた場合」
納が突然、動きと息を止めた。
上体を起こして座っているベッドの足元。
黒い塊がうぞうぞと蠢いて。
納の身体を這い上がって来る。
動くな、と納の口が動く。
その塊の大きさは。
大型犬程度はある。つまりは、
ニンゲンの。
「なんでここにこんな」納の声は相変わらず息だけ。「わたしに
――うろうろしてるやつ?
声を出すなというお達しなので、ケータイの画面に表示させた。
納は不可解そうな表情で眉を寄せただけ。
黒い塊が納の腰辺りまでを覆う。
――祓えない?
「触媒がない」
――俺は?
「童貞じゃない」
なるほど。
「玄関に花瓶がある。そいつに水を入れて持ってこい。できるだけ、静かに」
言うとおりにした。
部屋に戻ると、黒い塊で覆われていない部分は眼から上しか残っていなかった。直感だが、脳天まで覆われたら終わりな気がした。
水は花瓶の容量すれすれまで入れた。廊下にちょっとこぼしたがあとで拭いておけば問題ないだろう。
「頭の上でぶちまけろ」
躊躇っていた理由が納にはお見通しだった。
「莫迦か。わたしの頭だ」
言うとおりにした。
脳天から、額、鼻筋、顎、そして掛け布団に水が滴る。
納は閉じていた眼を開き、聞き取れない音で呪文のような唸り声を上げる。
すると、
黒い塊が。
ふう、と納が息をこぼす。
「大丈夫ですか」
「なんとかなった」納が顔に張り付いた髪を払う。
シャワーと着替えを済ませ、濡れた布団を外に干した。
曇天。
「乾かないと思いますが」
「カネ貸せ」納が手の平を見せる。「布団乾燥機を買う。隠蔽だ」
買い物の帰りに、どこかで見た覚えのある老人に声をかけられた。
年齢は50代後半。近所を散歩するような作務衣で、人当たりの良さそうな笑顔を向けていた。気になったのは、頭髪が非の打ちどころもないほどに見事にハゲあがっていたことだが。
こちらを一切眼中に入れず、納のほうにのみ他愛のない挨拶をして、ものの数分。印象が薄すぎて、老人が去った後も誰なのか思い出せない始末。
「クソ坊主だろ?」納がどうでもよさそうに言う。「ほら、あの屋敷の裏の」
市内で一番大きな寺院。
大きなというのは、所有地の広さと檀家の数の両方にかかっている。
「わたしが死ねばあそこを心置きなく更地にできるからな。ああやって、無害なフリして生存確認してるんだ」
ということは?
あの屋敷は。
「ああ、言ってなかったか。あれはわたしの所有になってる。前の持ち主が私の親だから、相続ってことになるかな」
ということは?
つまり。
「お前は、他人の家に出入りしていたことになる。そいつが見えるのも自業自得だな」納が指を差した先に、虫ほどのサイズの黒い塊が浮遊していた。
布団乾燥機は、夕方着の便で届く。明日の便が最速だったが、懇意にしている店なので融通が利いた。
時寧さんの事務所に戻って、外気と一緒に冷え切っていた布団(まだ濡れている)を取り込んだ。
「珍しく動いたせいで腹減ったな」納がぽつりと呟く。
「料理とか無理です」
「頼んでないさ」
絶好のタイミングで時寧さんが帰ってきた。テイクアウトのオムライスを持って。
「あっくんもどう?」3人分買ってきたらしい。「ここのをみふぎが好きなの」
「伯父さんのは?」
「ダーリンは休日出勤」
「取っておかなくていいんですか?」
「なんで? 食堂あるじゃん」
断るのが面倒なので一緒に食べた。冷めていても美味しい料理は信用できる。
不自然に濡れた布団を見られたが、時寧さんは特に何も言わなかった。不可思議な現象は見慣れているのだろう。
「見えてるってやつは解決したの?」時寧さんが思いついたように言う。
「解決してたらとっくに帰ってます」
「それもそっか」
沈黙。
納は。
「もうお前、わたしに弟子入りするしかないんじゃないか?」
とんでもないことを。
言いやがって。
「え、それいいんじゃない?」
時寧さんも。
ちょっとでいいから頭を使って発言することを憶えてくれ。
「弟子入りしたら見えなくなるんでしょうか?」
いまも、部屋の隅にころころと転がる黒が。
「ほら、あれ。飛蚊症?みたいな感じで、チラつくのが鬱陶しいけど日常生活には問題ないみたいな」
「時寧さんも、自分で見えたらそんなこと言えなくなりますよ」
「え、ごめん。結構困ってる?」
「最初からそう言ってたと思いますが」
「あ、えっと」時寧さんがチラ、と納に視線を移す。
「残念だが前例がない。取り返そうにも、取り返したい意思もない」
「諦めてもらえってこと? さすがにそれはさ、みふぎだって見えなかったら仕事にならないでしょうに」
「見えなくなったんじゃない。薄っすら見えるから何の問題もない。あくまで仕事の遂行上は」
含みのある言い方だった。
「今朝の話が途中だったな」納がこちらを見る。「お前にこの眼が完全に持ってかれた場合。わたしは失職する。フツーの失職は別の就職先を見つければいい。それだけの話だ。だがわたしの場合、この仕事は失うわけにいかない。失った瞬間、わたしはこれまで祓ってきたそいつらに呑み込まれる。考えただけで身の毛もよだつし、そいつだけはなんとしてでも避けたい。というわけだから、勝手な都合で悪いが」
仕事を手伝え、と。
そう言ったらしい。意味不明すぎて一瞬意識が飛んでた。
「断ったらどうなりますか」
「そう、それだ。お前側には何の保証もない。わたしと一緒にいたところで、元通りになるという確証がまったくない。だが、一緒にいれば得もある」
「でっかいのが現れても、あなたが確実に消してくれる」
「お前を危険に陥れることは絶対にしない。わたしが約束できるのはそれだけだ」
納がいままでにないくらい真面目に語りかけているのでつい勢いで頷きそうになったが。
冷静に考えればわかる。
「無理だったらいいです」
一緒にいたっていなくたってどうにもならないのなら。
「一生関わってくれないほうがありがたいので」
「あっくん」時寧さんが悲痛そうな顔を作る。
「もうほんと、二度と会いませんので。さようなら」
どちらにも呼び止められなかった。
呼び止めたのかもしれないけど無視した。
真っ直ぐ家に帰った。
見える黒が更に濃く。
なってはいまいか。
この眼が完全にこちらに移ったら。
納は。
そんなことは俺の知ったことじゃない。
納が。
どうなろうと俺のせいじゃない。
翌日。
その翌日。
そのさらに翌日。
どんどん。
見えている黒が深くなって。
血相変えた納が俺の家に殴り込んでくるのも時間の問題だった。
「頼む! 手伝ってくれ」
そうするしかないし。
そんな予感もしていた。
「いいですよ」
ただし、条件がある。
この眼が。
元に戻ったらその時点で終了。
「約束してもらえるのなら」
やるしかないのか。
元に戻るなんて保証もないのに。
「わかった」納が手を出す。「これからよろしく」
冷たい手だった。
それこそ、真冬の水道水みたいに。
3
この山が丸ごと寺の所有物。長い長い階段をひたすらに上がる。それこそのあとに待ちかまえる筋肉痛がどうでもよくなるくらいに。
仁王像が左右に構える門をくぐると、ぞわりと、気温が下がったような錯覚。
白い息。
灰色の曇天。
受付(拝観料徴収窓口)の脇に立っていた愛想のいい案内役に顔を見せる。
「お待ちしていました。どうぞ、こちらへ」
回廊はまた一段と冷えた。スリッパを貸してもらえないのが更に爪先を凍らせる。
空気に深く染み込んだ白檀のにおい。
本尊の前に、昨日すれ違った住職その人が座っていた。
「昨日は大した挨拶もなく失礼した。しかし」
天井の高い本堂によく響く。
住職の手元の数珠がリズミカルな音を添える。
「呼んだのは、懇意の企業だけだったのだがね」住職がこちらに向きを変えて座り直した。
「檀家を大切にしたほうがいい」納がすかさず言う。「罰が当たるそ、クソ坊主」
案内役が客用に座布団を二つ用意し、当人は床張りに正座した。
「御用向きを伺います」面倒なので話を切り出した。
「そこのあばら家は、君のところの管理だったかな」住職が言う。
「いよいよボケが始まってるな」納が言い返す。「あれはわたしの」
「そちらさんが土地ごと買い上げてくれたら、こちらはその十倍で引き取ろう」
「耳も遠くなってるのか、クソ坊主。あれはわたしの家だ。誰にも」
「お嬢さんは、何のためにあんな娼婦まがいを続けるんだね」住職が諭すように言う。「生きていくためなら金があればいい。私の提案は、結果的にお嬢さんを助けることになる。それがわからないほどに愚かでもあるまいに」
男は、
知っている。
納が、
何をしているのか。
「いくらあれば、お嬢さんはアレをやめるんだね」
「住職、口を挟むようですが、別に商売敵でもないでしょうに」
それとも。
単に、
「屋敷が眼障りなんですか?」
「そこが何と呼ばれているか、聞いたことはないか」住職が言う。「売春宿」
「クソ坊主!」納が声を張り上げた。「大概にしろよ。いい加減、何の権限があって」
「お節介で言っていると思っているのか。ムスブさんが浮かばれないな」
納が住職に掴みかかった。
案内役が立ち去らない理由がやっとわかる。
これを止めるためだ。
「離しなさい」住職が静かに言う。
「赦さない。赦さないからな!このクソジジイ。お前が呪われてもわたしは祓ってなんかやらない!」
案内役が他の坊主を呼んで、強制的に納を住職から引き剥がした。
手負いの獣のごとく、納は歯ぎしりと唸り声をやめない。
「だから、お嬢さんは呼ばなかったんだ」
帰ったほうがよさそうだった。
案内役に軽く会釈して、納を引き取る。
「せっかくお呼びいただいたところ申し訳ありませんが、お取引でしたら、僕でなく」
「失礼だろう? 老体と女性を、こんな寂れた山奥に呼びつけるのは」
納と一緒に寒空の下に放り出された。
鐘が、
轟音と共に鳴り渡る。
午前6時。
納が何かを言ったようだが、うるさい鐘のせいでほとんど聞こえなかった。腹部をさすっていたので、空腹でも訴えたのだろう。
山を下りてから、街まで歩き、24時間営業のドーナツチェーン店に入る。
納はドーナツをトレイに山盛りにして席に付いた。
「スープだけか? 頭働かないぞ」
自分たち以外の客は、ヘッドフォンをした青年だけ。漏れ出た流行りの歌が鼓膜をさわさわと撫でる。
「どれかやろうか?」納が順番に指を差す。
「甘くないやつなら」
「ドーナツから甘さを取ったら何も残らないぞ」
「じゃあドーナツの穴だけもらいます」
「望みのないやつだな」納がドーナツを頬張りながら笑う。「ゆくゆくは継ぐんだろ?」
「申し訳ないんですが、家の話はしないでください」
考えたくない。
触れられたくない。
「次この話をしたら協力は打ち切ります」
「わかった。悪かった」
家に戻る気がしなかったので、時寧さんの事務所に付いて行った。
早起きしすぎたせいで眠くなってきた。他人に電話で叩き起こされることほど、苛立たしいことはない。
「寝るならベッド貸すぞ?」
7時半。
「ところでお前、学校は?」
「その話も禁句です」
居間のソファを借りた。時間差で納が布団をかけてくれた。ところまでは意識があった。
眼を瞑れば、
黒い塊は見えない。
納には言わなかったが、寺に。
本尊に匹敵するほどの大きさの、
黒い塊が。
住職の横にぴったりと張り付いて佇んでいた。
何も起こらなければいいが。
昼すぎに眼が覚めた。
納はラジオを聞いていた。
「起きたか?」ラジオを消そうとしたので。
首を振って、そのままでいいことを伝えた。
窓の外はいつも曇天。
「見えたんだろ?」納がラジオの音量を絞る。「大きさは?」
「ここにはいないです」
「ああ、気を遣わせたな」
鉄道運行情報。
人身事故で運転再開の見通しが立たない。
「放っておいたらどうなりますか」
「敵意は?」
「特には」
「じゃあ、まだ成長中なんだろう。敵意がなくても放っていいわけじゃない。最初に言ったろう。だいじなのは大きさだ」
「すでに人間大はありました」
「じっとしてただろ? ああゆうのが、わたしの祓う対象だよ」
月曜日は、憂鬱だ。
線路に飛び込みたくもなるし、屋上から飛び降りたくもなるし。
死の危険にある他人を放っておきたくもなる。
「クソ坊主は昔からお節介でな」納が言う。「勝手にいなくなられてもそれはそれで面倒でもある」
「戻るなら付き添います」
ラジオをスイッチオフ。
代わりに、布団乾燥機のタイマーをオン。
「帰る頃にはふかふかだ」
日中に学校の近くを通るのは嫌だったが、已むを得まい。
お得意先の命がかかっている。
心臓破りの階段を駆け上がる。
心はそこそこ重い。
足はそれなりに軽い。
「問題は活きのいい童貞なんだが」納が思い出したように言う。
あ、そうか。
「昨日みたいにはいかないんですか?」
「あれは小さいの限定なんだ。弱ったな」
受付(拝観料徴収窓口)に事情を話して、住職に会わせてもらう。
本堂の拝観は一般開放されていないため、客を退去させる手間が省けた。
「祓ってやらないとか言ってなかったかね」住職はあきれたような反応をする。
「黙って見てればいい」納が手を伸ばす。「助手、水だ」
助手になった覚えはないが、寺に器を借りて水を汲んできた。
住職の横に。
いる。
大きさも朝と変わらず。
納に目配せで伝えた。
「クソ坊主」納が言う。
「触媒とやらなら」住職が俺の方をじいっと見た。「違うのかね」
「残念だがこいつは水を汲む以外のことで役に立たない」納は堂々と嘘を言った。「寺なんだから童貞の一人や二人くらい用意できないのか?」
「私にそれを言うのかね」住職は心底あきれている。「万一何かよからぬものが憑いているとして、職業柄別段変わったことではないよ。自分で何とかできる」
「そうやって軽く見てるやつから消えてったのを、忘れたなんて言わせないからな」
「私が懐疑的なのはお嬢さんの手段だけだ。触媒を遣わずに祓ってみろと言っている」
「そんなことできたら最初っから」
ずぞぞ、と。
黒い塊が。
「納!」
「どうした」
上下方向に細く伸びて、本当と天井と床に薄い膜を張った。
そこまでほんの数秒もかかっていない。
「なにがあった? 説明しろ」
チカチカ、と照明が点滅し。
ぷつん、と。
真っ暗になった。
蝋燭の火のお陰でまったくの闇というわけではないが。
「停電か? 誰か、ブレーカを見てきてくれないか」住職が電話口で呼び掛けるが。「おい? おかしい。つながらない」
天井と床を覆った黒が、壁も覆い始めている。
まずい。
「開かない」遅かった。「ここって鍵かかってないですよね?」
「誰かいないのか? 誰か」住職が扉を叩くが。「なぜ開かない? 鍵は付いていないはずだが」
「あっくん」納に襟首を掴まれた。「何がどうなってる?」
ここまで見えた経緯を手短に伝えた。
住職が蝋燭を追加で灯す。
少なくとも足元に注意する必要はなくなった。
それでもその程度の明かり。
「触媒どころじゃなくなったな」納が床に腰を下ろす。「こうゆうイレギュラーは珍しくないが」
「祓ったら解決しますか?」
「祓ってみないことには何とも。だがまあ、何もしないよりは」
「お嬢さん、どうにも様子がおかしいとは思っていたが」住職が気づいた。「見えていないのか」
「クソ坊主が気にすることじゃない。仕事に支障はない」
「この状況が支障でなくて何だ」住職が溜息を吐く。「見えていればこんなことには」
どうにも。
住職は納の地雷原を踏み抜くのが得意なようで。
「言うに事欠いてクソジジイ! わたしが善意で戻らなかったら、いまごろお前なんか」
掴みかかったのを無理に引き離す。
「落ち着いてください。いまやるべきはそんなことじゃないでしょう」
「クソ坊主。もう一回聞くが」
「何度聞いてもうちから出すわけにいかない。例え、その扉が開いていてもだ」
そういえば。
「どうして童貞じゃないといけないんですか?」
「処女信仰の野郎版だよ」納が事もなげに言う。「汚れを落とすのに汚れたぞうきんで拭くか?」
例えの題材が身も蓋もないが、理屈としてはわかりやすい。
しかし、謎も残る。
「もし童貞じゃない触媒を使ったらどうなるんですか?」
「それをお前が言うな。誰のせいで失敗したと」
「あの、何度も言いますけど、僕は童貞だったんです」
「じゃあなんで失敗したんだ? わたしのせいとでも」
「仲間割れをしている場合かね」住職が割って入る。「お嬢さん。知っていることを敢えて言うが、ムスブさんの触媒は、そもそも一人だった。お嬢さんの父親、私の長男坊だ。つまりお嬢さんは」
住職の孫?
クソジジイは悪口でなくて本当に祖父か。
顔を見比べようと思ったが、生憎と暗い。
「リョウのやつの二の舞にならんように、わざわざ童貞を使っている。触媒に穢れが溜まって、その結果、命を落としたと思っている。違うかね?」
納は何も言わない。
天井を覆う黒い塊が、
雨のように滴ってきた。
4
雨のように降ってきた黒い塊が、足首の高さまで溜まってきている。
時限装置。
天井から落下が始まってからものの5分でここまでになった。
とすると、顔の高さまで達するのは。
「時間がないな」納が舌打ちする。「クソジジイ、ちょっとでも高いところにいたほうがいい」
「何が起こっているんだ」
残念ながら高いところが見当たらない。一番高いのは、現実的でないが、本尊の上くらいしか。
逃げ場はない。
つまりは、一刻も早く祓わなければいけない。
「まずいことになっている」納が胡坐をかく。
「具体的に言ってくれないか」住職が眉をひそめる。
甕いっぱいの水はある。
納本人もいる。
残るは。
「さっきの話なんですが」
「志願なら不要だ」納が食い気味で否定する。
「使えそうな触媒は俺しかいませんよ」ちら、と住職を見ながら言った。
「触媒なしで祓うことはできないのかね」
「どっちも不採用だ」納が前のめりに頭を抱える。
脛の高さ。
どんどん水位が上がってきている。
「外からも開かないんでしょうか」
「開けたら被害が拡がるだけだな」納が言う。
「あの、座ってて大丈夫ですが?」
「暢気してるように見えるか?」
「いえ、そうではなくて」
立っていたほうが闇の侵蝕が遅くなるのでは。
と思ったのだが。
「あれ?」
納の周りだけ。
「見えてるか?」納が片眼を瞑る。「見えてるなら、わかるだろ?お前がやることは」
床に置きっ放しになっていた甕を。
納の頭の上で逆さにした。
住職は特に反応もなかった。やはり見慣れているのだろう。
低く重い呪文。
ゆっくりだが、着実に、納の周囲から円状に黒が消えていく。
呪文。
呪文。
円が拡大する。
黒の嵩が減少する。
天井、壁、床の順に黒が消滅していった。
呼吸も忘れて見守る住職に、目線で合図した。もう大丈夫だと。
「どうだ?」納が俺を見上げる。
「あ、え、はい」
「なんだそのはっきりしない物言いは。見事お祓い完了と言え」
「お嬢さん、もういいのか」住職が恐る恐る口を開く。
照明が戻って、扉から坊主が大量になだれ込んできた。
火を見るより明らかな解決。
「帰るぞ、助手」納が立ち上がろうとしてふらついた。「おっと」
「大丈夫ですか」
「体力がもたんな。さっさと帰って寝るぞ」
「お嬢さん。やればできるじゃないか」住職が坊主を掻き分けて話しかける。
「まいどあり。追って請求がいくからな。値切らずちゃんと払えよ、クソ坊主」
嫌な予感がした。予感というより直感。
寺の境内から出たタイミングで、納が膝から崩れた。
なんとか支えるのが間に合ったが、見ないようにしていたツケが襲ってくる。
納の身体が黒に侵食されていた。
「全然大丈夫じゃないじゃないですか」そう言いながら気づく。
ついさっき、なかったものが一つだけ。
触媒。
触媒の代わりを納がやったのだとするなら。
「時寧さんに連絡します」
「いい。呼んだところで何もできない」
「そうじゃなくて、触媒を」
「この短時間でどうにもならんさ」納がついに地面に座ってしまった。「お前は触媒をどうやって使ってると思ってる?」
「どうやって、て」
「前時代じゃあるまいし。活きのいい童貞を、意識のある状態で使えると思うか? 同意がどうだとかそうゆう話をしてるんじゃない。触媒側には知らせていない。ただ短時間、とある場所に出向いて眠っていてもらうバイトとしか言っていない。眠らせるのがちょっとばかし難儀でな。うまくかかればいいが、かからなかった場合の保険が要る」
何が言いたいんだろう。
黒の侵蝕が激しくて、納が喋ってるのか、黒が意志を持って語りかけているのか混乱する。
内容がまったく頭に入ってこない。
「能書きを垂れ流し過ぎた。悪いが、タクシーを呼んでくれ」
「この上まで来てくれますかね?」
確かこの石段、千くらいあった気がするのだが。
「そこはお前がなんとかしろ。わたしの助手だろ?」
無茶ぶりが過ぎるが、なんとかするしかないだろう。
いま気づいたのだが、時寧さんは俺に納の世話を押し付けたんだろう。面倒事は他人に投げるに限る。
そうゆう大人にはなりたくない。
そんな大人ばっかで眼を背けたくなる。
納は、
そうじゃないといいが。
タクシーの運転手を信用できなかったので、知り合いを呼んで時寧さんの事務所まで送ってもらった。
母の会社の社員で唯一信用できる大人。
俺の心配をしてくれたが、どちらかというといまは納のほうが。
そうか。
俺以外には見えていない。
説明が面倒だったので、適当に理由を付けて追い返した。
納は。
真っ黒に覆われていて、ベッドのどっちに頭があるのかもわからない。
「助手、いまの私の状況を説明しろ」
「黒いゴミ袋に入れて遺棄されてる感じですね」
「最悪だ。自分の不調はわかるのに、全体像が把握できないせいでいまいち危機感がない」
「というと?」
「このまま眠ってしまいたい」
「寝たらどうなりますか」
「ゴミ袋の中身が空っぽになる」
「最悪じゃないですか」
「そうなんだ。最悪なんだが」
見えていないせいで危機感がない、と。
「祓えないんですか?」さっきみたいに。
「寺にいたのをまるっと持ってきたわけだからな。量が段違いだ。この量を捌くとなると」
「助手は何をすればいいですか」
「先代方式で、お前を伴侶に迎える覚悟をしている。つまり助手から弟子に出世だな」
「拒否したいんですが」
「師匠を助けたくないのか」
「見殺しにはするつもりはないですが、伴侶になるのはもっと嫌です」
「悪かったな。冗談だ」
「冗談言ってる場合ですか」
「冗談でも言ってないとやってられない。眠くてたまらん」納があくびをしたような間があった。
なんとかしないと。
でも、なんともできない。
そんなことわかっている。
それでも、なにかできるのなら。
「あ」納が間の抜けた声を上げた。
「なんですか?」
「悪いが、開けてやってくれ」
意味がわからなかったので、尋ね返そうとしたら。
玄関を叩く音がした。
叩くというより、力の限り体当たりしているような。
壊れされる前に、言うとおりにしたほうがよさそうだ。
そこにいた人物は、納を。
助けると言って。
黒い塊に馬乗りになった。
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