短編集
冬堂
人魚姫になれなかった人魚の話
初めて陸に顔を出したのは18歳の時だった。
建物や人、雨も夕日も何もかもが綺麗に見えて陸という世界に憧れた。
陸を知ってからというもの来る日も来る日も海から顔を覗かせ色々な景色を見ていた。
大きなクジラのようなものは人間の作った船だということを知った。
それに乗ってる人達は皆陽気で自由だった。
夜という真っ暗な世界になってもその船の上は明るく、いつもわいわいと賑やかで楽しげな雰囲気を醸し出していた。
船乗りたちが歌う歌だってもう全て覚えてしまった。
いつものように船の近くへ行き、同じ歌を口ずさんでいた。
そうすると一人の男がこちらに気付いたでは無いか。
驚いた顔でこちらを見て、それから男は誰に言うでもなくただ微笑んで歌を聴いていてくれた。
それからは同じ時間に同じ場所で彼と歌を歌うのが日課になっていた。
いつぞや彼が言った。
「君はいつもどんな生活をしているんだい。君と同じ景色を見てみたい。」と。
考えてもみなかった。
私の世界に彼がいたらなんて素敵なんだろう。
たった数時間だけでなく、毎日のようにずっとずっと一緒にいられるなんて、どんなに幸せなのだろうか。
それからというもの、私たちは歌ではなくたくさんの話をした。
海の世界がどれほど素晴らしいものか、彼に全身全霊で伝えた。
日が出ている時は海の底からも水面が見えてとても美しいこと、時の流れがゆっくりでみんな好きなことをして過ごしていること。
色とりどりの小さな魚たちがとても可愛くて癒されること。
少しでも彼によく映るように、彼にもこちらの世界で暮らしたいと思って貰えるように。
私の話を彼はいつも羨ましいと相槌をうっていた。
僕もそんな暮らしをしたいと。
「あぁ、私は貴方のその言葉を聞きたかったの。私と一緒にこっちへ来て一緒に暮らしましょう?」
それはそれはとても美しい声だった。
誰もが惑わされてしまうほどに。
男は一言「うん。」と頷いて海へと音もなく落ちていった。
それを待っていましたとばかりに人魚は強く抱き締め海の深い深い底へと連れて行く。
人間が水の中では呼吸が出来ないと誰かが伝えていれば男はこんな苦しみに身を置くことは無かっただろう。
息が出来ずズンズンと水底まで連れていかれる。
苦しくて必死にもがこうとするが力も出ず、男はただ人魚の身体を抱きしめることしか出来なかった。
あぁ、こんなにも強く彼も私のことを思っていてくれたのだと思った。
言葉も出ず、私をただ抱きしめてくれる彼をただ愛おしく感じる。
「今日はもう遅いからゆっくり寝ましょうね。」
そういうと強く抱き締めていた腕を離し、彼は子供のように眠りについてしまった。
きっと色々なことがあったため疲れてしまったのだろう。
私も眠りにつこう。また明日も彼に会えるのだから。
「おやすみ、私の愛しい人。」
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