Svegliare

有明 榮

Svegliare

 目を開けると、突き抜けるような青空が広がっている。視界が一瞬白くなり、また青色が戻ってくる。真夏特有の分厚い綿雲である。

 空気中の塵を核に、水蒸気が凝縮した分子群。殆ど真上から叩きつけられる日光の熱と眩しさに辟易していた彼にとって、雲の中は冷たく、心地よかった。

 上空に目をやると、銀翼の飛行機が雲を引いて遠ざかっていくのが見えた。あちらもやはり日光を受けて、彗星のように明滅していた。

 彼は今、戦場に舞い降りる一体の救世主、あるいは悪魔であった。


 青空を駆ける中で、彼は彼自身の短い記憶の糸を手繰り寄せていた。短いとはいえ、それは鋼鉄のようにとても強く、頑強で、太い糸であった。


 彼は英雄として生み出され、そして送り出された。開戦からのわずか六年間で約一億人が犠牲になったこの凄惨な戦いに終止符を打つ、決定的な存在となる運命だったのである。

 彼は生まれながらにしての英雄であった。目を覚ました時の自分を取り囲む目線を、彼ははっきりと覚えている。期待、好奇、畏怖……いろいろな感情が織り混ざった粘っこい視線の中で、彼は己の役割を悟ったのだった。

 戦場の栄光が約束された時、またはそれを確信した時、大抵の兵士はそれを誉れとし、中には驕り、力を過信する。だが彼は違った。あくまで冷静に、淡々と、粛々と、己の力を蓄えた。教育には大学の教職員や研究者が直接携わった。鍛錬には長官レベルの軍人も参加した。いずれにしても超がつくほど一流のものを享受したのである。


 それらの訓練の成果は、実際の戦場に入ってすぐに現れた。

 彼は、爆撃機の編隊に合わせて空中から突如として飛来し、降り立った地上を暴れ回り、目的地の残存兵力や民間の潜在的兵力を叩く電撃的戦法に長けていた。一般の兵士には到底不可能な戦い方である。しかし上層部はこれを即時容認した。英雄に対する信頼、といえば聞こえは良いが、実際はなりふり構っていられないのだった。どのような戦法であれ、実験が必要だった。

 爆弾倉の扉が開くと、彼は鋼鉄の雨に混じって、鋼鉄の槍となった。上空一万フィートから地表に降り立つまでの約四十五秒間に、目の前の景色が目まぐるしく変化した。太陽を受けて白銀に輝く雲、すれ違う鳥たち、次第に詳細な姿を表す都市、その中で威嚇するように聳え立つ高層建築や電波塔。その千変万化が、彼の目を楽しませた。加えて、自分に先駆ける戦友と共に出撃するという状況は、いくらその戦友が敵地を破壊し燃やし尽くす爆弾たちという無機物とはいえ、彼の心を昂揚させた。

 彼の戦法は破天荒ながら、十分な成果を上げた。彼は約三週間で五十回にわたる急襲作戦をこなし、またその成果を踏まえて、上層部は戦法・戦略ともに有効性十分と見なし、彼の本格投入を決断した。

 


 「偉大なる芸術家グレート・アーティスト」と名付けられた作戦が伝達されたのは、出撃の三日前だった。

 ――えた知識と力の全てを瞬時に解放し、その情報量の衝撃によって街ごと敵の拠点を壊滅させよ。貴官の名誉の大爆死を以て、我が国を勝利へと導け。

 司令官は、彼と、何名かの爆撃機の搭乗員を前にして、そう放った。

 ――死。今まで幾人もの兵士に、あるいは偶然にも居合わせた民間人に与えてきたものが、同時に自分に与えられるものとして提示された瞬間であった。

 背後に立つパイロットの目線が、司令官の言葉を境に変質したのを彼は悟った。やめろ、そんな目で俺をみるな。喉元まで出かかった言葉を必死に飲み込み、彼は短い敬礼で答えた。

 


 出撃前夜、彼は自分が乗り込む爆撃機の隣に立っていた。海上の孤島に建設された飛行場に、生ぬるい海風が吹き抜ける。掌で触れた爆撃機の合金製の胴体はひんやりと冷たく、目の前のモノが単に兵器に過ぎないことを実感した。

 彼にとって、急襲作戦を繰り返した爆撃機の爆弾倉はもはや、第二の家のようですらあったのだった。あの窮屈な空間で投下命令を待つ時間が――言い表しようのない孤独が――感情を鎮めてくれ、戦士としての本能を昂めてくれた。その魂の故郷も、明朝には永遠に離れることになるのだ。

 彼は生まれて初めて、葛藤を味わっていた。運命として受け入れるのだという決意をいくら持ったとしても、そこには死の恐怖が影のように、あるいは音もなく地を這う蛇のように纏わりついていた。

 そしてもう一つ、己の中で嵐の如く脈動するのを感じられるほど強大な、否、強大すぎる力に対する罪悪感であった。俺はこれまで、ただ強くなることに邁進した。ありとあらゆる知識を吸収し、ありとあらゆる軍事的教練を積み、その身に宿した知識量は、他の兵士はおろか、他の兵器に比べても比べ物にならない程に成長した。しかし、その情報量を一身に背負い、それによってもたらされる犠牲の咎を受けるほどの価値が、果たして俺にあるのだろうか。


 兵舎の玄関で、司令官は言った。「戦いの後に受ける咎を戦いの前に考えるのはナンセンスだ。任務の遂行のみに集中したまえ」

 彼は思わず、それは前線に立たないあなただから言えることだろうに、と言いかけたが、反論したところで決定は覆らないと知っていた。彼は後ろ手にドアを閉めた。

 濃紺の空は星々で埋め尽くされている。明日も快晴の予報が発表されていた。



 翌朝、太陽が水平線から頭を出すと同時に、爆撃機は滑走路を離れた。

 彼はいつものように爆弾倉に身を収めた。いつもと異なるのは、そこにいるのが彼一人であるという点であった。戦友たちのいない爆弾倉は、いつもより広く、閑寂としていた。四基のエンジンの音がやけに大きく聞こえた。

 およそ二時間の航行の後、第一目標の都市に近づいたという音声が、頭上のスピーカーから聞こえた。しかし、その後約三十分ほど経ったが、投下待機の命令は下らない。機長は言った。「敵軍の地上からの反撃が激しすぎる。安全に君を送り出すことができない。やむを得ないが、我々は進路を変更し、第二目標地点へと向かう。そちらは天候にやや不安があるが、おおむね問題なく投下できる予定だ。投下時刻は約三〇分後……心の準備をしておいてくれ」


 そして約二五分の後であった。機長から投下命令が下った。爆弾倉の扉がゆっくりと開く。眼下には雲が厚く広がっていたが、その合間を縫って、わずかに一点、敵の拠点となる都市が見えた。

 エンジンの轟音と風を切る音に交じって、頭上のスピーカーから機長の声が途切れ途切れも聞こえた。



「わずかに……が敵の拠点……我々は君を切り離し……やかに退避……。わずか……であったが、……訓練は非常……であった。君……軍の歴史……名を刻まれ……だろう。グッドラック」



 彼はひとたび瞼を静かに閉じ、そして開いた。爆弾倉に繋ぎ止めるための安全ベルトはすでに外されていた。彼は軽く床を蹴り、目的地に向けて真っ逆さまに降下していった。

 


 そうして、彼は地上五百五十メートルの高さで摂氏四千度の火球と化した。

 午前十一時二分のことであった。

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Svegliare 有明 榮 @hiroki980911

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