Graveyard

@seas0

Outerlands ―― V

Not A

Keeper:01

 混凝土コンクリートの宮殿、喧騒の中を少女が駆けてゆく。

 患者衣か囚人服か。仄かな闇に翻る襤褸布は肌と同じく薄汚れていた。稚さを残す顔はよく見ると大人の妖しさを備え、渾沌を吸い上げた艶やかな黒髪と伸びた手足が見る者に何かが決定的に食い違う恐怖を想起させる。お前は何を視ている?

 壁に罅這い粉舞う中に軽やかな足取り、しかしその眼には何も映っていない。脆い虚構の内を蝶のように踊り歩き、突如現れた通路へと飛び込んで少女は姿を消した。


 旧き善き狂いは遥か何処に。

 ざらざらとした世界。人々は在るのに色彩を喪う場所。気付きもしない刹那がまた刹那を塗り替え、明日を剝がしてゆく。お前は誰だ?

 焦げ臭さが充満し何を商っているのか不明な店の連なりが成す街角。シャッターが半分降ろされ床の四方にはゴミが散乱する店内で男は紙片を眺めていた。

「それで、連中は何と?」

 興味も無さそうに紙片を机に放った男は同行者を見据える。皴の酷いコート、全く整えられてない毛髪。清潔感の欠片もない姿で現れた時には一瞬だけ顔を顰めたが、慣れてしまえばそこは問題ではなかった。それより問題なのは――

「いやぁ、そんなのは分かりませんよ。僕はただの使いですから」

 この態度だ。へらへらとした笑顔を貼り付け、男を煽る口上で言い逃れをする。作った態度だが、それを道具に有益な情報を全く渡さない様子に男は気怠さと若干の呆れを覚えていた。しかし殺意の距離は互いが熟知している。

「今まで貴方には多くを与えてきました。我々の要求は変わらずただ一つ」

 殺気も怒りも面に一切出さない男を笑顔の下で観察しながら”オルフェ”と名乗った使いが言葉を繋いでゆく。奇妙な静けさの中に、意味が落とされた。

「罪過を全て取り戻す。ただこれだけです」


 宙は何処までも濁り震えている。尖塔が頭をこちらに向け、雲となる筈の白霧の中に沈んでゆく。自らの足元が地に根差していると一体誰が定めたのか。

 正しく『崩壊』の一言を現すこの建造物は集合住宅の形を取り、部屋から部屋へと伝播し呑み込んでは新たな空間を吐き出していた。灰色に塗りたくられた景色、人の気配がするのに指先から迫る孤独。捻じ曲がった”現実”が立つ者を圧倒する。

 此処には存在しない世界。何処か遠く、だが人の口端に吊り下がり未だ消える事の成らぬ土地。繰り返される狂騒と静謐に誰かが名を与えてしまった。

 ――”最も終りに近い場所O u t e r l a n d s”と。


 匣ではない。口を開いたのは罅の入った甕だ。

 現実はお前の認識ではない。悟性など疾うに死んだ。口を開きただ嚥下するだけで何もかも理解出来る、そんな低俗な智慧を何時まで抱きしめて生きている?

 此処で出来る事はお前には無い。可能なのはたった一つだけだ。


 陽の射さない通りに目をやれば人が消え、騒めきが耳朶を打つ。

 使いは席を立つと早々に姿を消した。そして二人のいた店もノイズを吐いて建物に呑み込まれ、男は気付けば細い裏路地に佇んでいた。

 軒先にぶら下がり消えかかった看板。堅気ではない者が出入りする料理屋。人々を脅かすのは何時だって隣人の囁きだ。割れた王都も、仮初の知に溺れる紛いの暴君も此処では一切が薄れてゆく。世界の在り方を思い返して、男はそっと息を吐き出す。

 誰もが知っているのだ。この空間では、明日を願うなど児戯の様だと。

 行き交う人の顔を眺める者、項垂れて歩む人の背中を追う者。生命の重さを思えば思うだけ鎌首をもたげたそれは口を開いてゆく。だから、ヒトは――。

 そう考えるのも束の間、通りの向かいに人影が揺らぎ近付いてきた。やたら屈強な連中が二人、物陰に隠れた男には気付かぬ様子で理髪店の裏口へと入っていく。

 同時に、彼らの背後に僅かに走ったノイズも男は見逃さなかった。


 何と下らぬ駄文だ、淡々と状況を報告するだけ。誰に?

 定量化された感情の摂取。慟哭も”我々”には無駄でしかない。そうかな?

 では尋ねよう。「お前はこれを見ていて面白いか?」


 あの瞬間は網膜に焼き付いている。悲鳴、荘厳な音楽と共に落とされた二つの頭。何故彼らでなくてはならなかったのか。そうしてただ一つの足場を喪った獣は居場所すらを失い、こうして彷徨っている。

 ”届かぬ終りを祈る場所O u t e r l a n d s”、陳腐だが...美しい。


 そっと建物裏へ回り込み木製の扉を押す。錆びた蝶番が泣き明滅する照明。扉横のパイプ椅子には半壊した遺体が蛆虫に憩いを提供するべく腰掛けており、その奥では通路を遮る垂布が手招いている。腐臭。通路先から新鮮な死の芳香が鼻先を掠める。

 足音を消して通路を抜けると、そこには理容椅子に沈む二つの肉袋があった。僅か数分前までは人だったもの、今はただ温い廃棄物。そしてその傍に立つ若年の男。

 視線を感じたのか青年はふっと面を上げると呟いた。

「これは珍しい。貴方には僕の姿が視えるんですね」

 長身痩躯、やや傷んだ黒髪。左腕には刺青――粗野で不敬な文言と幾つかの紋章、傾いていない天秤――が刻まれている。青年は手にした剃刀を腰に仕舞うとこちらを見据え、敵意はないと言うように手を振って答える。

「僕は本来、此処の住人ではありません。貴方に危害を加えるつもりはない」

 その姿は酷く脆く、自身の吐き出すノイズにすら呑み込まれそうなほど儚い。

「で、押し入りで強盗して何をしていたんだ」

 噎せ返る様な血生臭さ。変色を始めた緋塗れの壁を眺めながら男が問うと、青年の双眸が細くなる。美しい、穢れを識らぬ翡翠の瞳。

「僕はある組織と男を追っている。この場所には意図して来た訳じゃないが」

 おもむろに肉袋の袖を裂くと奇妙な図形が露になる。その刺青は男も見覚えがあった。

「貴方も知っているようだね。その昔に”胎の教会”と名乗っていたものだ。今は姿も名も変えてしまったみたいだけど」

 そう。僕は忘れない。この手で左腕を切り落とし、左眼すら奪った男を。

「僕の名は…ネフ。”胎の教会”の元指導者、奴を殺す為に此処まで来た」


 降り頻る雨、響く哄笑。水溜りの中で壊れたラジオは繰り返して告げ続ける。

「死は人生の出来事ではありません。午前十三時をお知らせします」

 闇の帳、そよ風吹き身を包む暖かさに安楽椅子へ沈む微睡の内。人々は背後に立つ闖入者には気付かない。際限のない再現性を玄関で迎えた誰かの為に、この瞬間にも誰かが午睡の苦しみを噛み続ける。そうして静かに頭へと向けられるのだ。銃口を。

 世界は死ぬ。断章は、かつて始まった事がない以上、終わる事もありえない。

 君達は愛した筈の明日に捨てられた。私は、君達が捨ててきた昨日だ。


 数々の書架、大理石の彫像、革張りの椅子。整理された卓上には線のない古電話が鎮座している。奇妙な事に、置物である筈の受話器から声が聞こえてくる。

「それで…ええと、あなたは今でしょうか」

「どうでもいい事だろう。報告を」

 三つ揃えを着込み腰には金鎖の伸びた男が古電話に向かい立っている。濃紺の背広は椅子に掛けられ、隆起を描くその背中には少なくない圧があった。

「予想通り、敵性勢力が既に接触を試みている様子です。区画は未だ我々の支配下にありますが...対象の行動次第では、衝突も止むを得ないかと」

「構わん。この瞬間の横槍が一番無粋だ。主体は我々だが、主役は我々では無い」

 すぅ、と息を呑む音が入る。たった一言、その重みを理解するが故の戸惑い。

「今は”オルフェ”と名乗っていたか。君の役割は実に簡潔だよ、必要な事を成せ。我々はラザロでも塩の柱でもない。その価値は罪過を全て取り戻す事に在る」

「了解しました、早急に手配します。署名サインはお願いしますよ――”α”」

 硬い声が離れると同時に通話が切れる。古電話は受話器を外したまま黙りゆく。



「どうだ、つまらぬものだろう?」

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