そうめん一緒に食べようよ
蔵
第1話 ゆるくほどけるそうめん鍋
17時ともなれば、もう空は紺色に染まっている。
冬の日暮れは早い。実家にいたときも同じことを思ってはいたものの、就職が決まり上京して、高いビルが立ち並ぶこの町に引っ越してきてからは更にそう思うようになった。顔を上げても星の1つも見えないこの町に住んで、もう3年になる。
「ただいまー」
何度言っても玄関の鍵を閉めないことに若干のイラつきを覚えながらも、同居人に帰宅の挨拶をする。履いていたパンプスの向きを揃えようとして少しかがむと、踵に小さなキズがあることに気が付いた。どこで引っかけたのだろう、まだ2回しか履いていないのに……。
「おかえり~」
キッチンへ続く扉を開けると、ゆるく全身を包み込むような暖かい空気が、冷たい廊下へ逃げていく。あったかい、と呟くと、グレーのエプロンを着けたハルが笑った。これだけで、今日のイライラがどこかへ飛んでいくのだから私は案外簡単なのかもしれない。
「寒かったでしょう。今日はお鍋だよ」
「え、やったあ」
お鍋、と聞いてやる気が沸き、持っていた鞄をソファに放り投げて洗面所へ直行する。電気を点けるのも惜しくて、真っ暗な洗面所で手洗いうがいを済ませ、早足でキッチンへ戻った。ハルに近づくと、ふわりと漂う体に良さそうな出汁の香りに癒される。
「あやちゃん、お鍋好きだよね」
「好きだよ、冬にしか食べられないし」
「よかった」
私のことをあやちゃん、と呼ぶ背の高い彼は、私の年下の彼氏。彼の就職を機に、去年の春から同棲を始めた。元々は高校の美術部の後輩だったハルと恋人になったのは、私も彼も高校を卒業したあとだった。私を呼ぶ少し高めの声が、先輩、から、あやちゃん、に変わった今も、名前の通り穏やかで春風のようなこの恋人がかわいくてたまらない。手を前に伸ばすと、少し屈んだふわふわのくせ毛を撫でる。
あ、やばい沸騰してる、と慌てて鍋の方へ戻るハルの頭から名残惜しくも手を離す。もう少し撫でていたかったのにな。
しかし、他の家事は分担しているけど、ハルが料理上手で本当に良かった。なにせ私は壊滅的に料理ができない。どれくらいできないかというと、かに玉を作ろうとして美味しくないお好み焼きができてしまうくらい。それから我が家の料理はハルの担当になった。
鍋が完成する前に、食器の用意や食卓の準備くらいはしよう、と狭いキッチンをハルの背中を押しながら食器棚の方へ向かう。棚の扉を開けようと腕を伸ばした時、私の趣味ではないピンクのモコモコスリッパが、何か固いものを蹴とばす感覚がした。下を向くと、見覚えのない小さな段ボールが食器棚の横に置いてある。
「ハル、これなに?」
「あ、えーと……その……」
見つかった……とでも言いたげに視線を逸らすハルを不審に思って、問答無用で段ボールの前に屈みこみ、それを開ける。側面に「とうもろこしおかき」という謎のお菓子の名前が書かれたその中身は、数えきれないくらい大量のそうめんだった。
「なにこれ……」
一番上のそうめんを手にとっても、まだまだ段ボールの底は全く見えない。長方形の箱にぎっしりきれいに詰まれたそうめん段ボールを持ち上げようと底に両手を入れると、ものすごい密度のそれはぴくりとも動かなかった。どれだけ入っているのだろうこのそうめん。パッケージの表面に書かれた「1パック6束入り」という文字が無限に連なる光景は、なにか果てのない地獄を見せられているようで眩暈がする。
「ごめん……スーパーでセールしてて、たくさん買いすぎちゃって……」
「たくさんって……」
たくさん、というレベルではない。いくらかわいい言い方をしたって、怒られた柴犬みたいにしょんぼりしてみせたって、これは量がありすぎる。夏休みに毎日子供の昼ご飯を考えるのが面倒になったお母さんだってこんなには買いこまないだろう。これをこれから消費しなければいけない、と考えると、今度は頭痛がしてきた。
「ねえ、今冬だよ……」
だから安かったのだろう、なんてことはわかっている。スーパーの担当者が間違えて夏の量で発注してしまったのかもしれない。それを偶然ハルが見つけて、家計のことを考えて買ってくれたのかもしれない。わかっている。わかっているけど、このストレス社会で生きる社畜な私にとって、ハルの作る夕飯はたった1つの癒しなのだ。それがこれからそうめんまみれに……。
「あのね、そうめんって冬でも美味しいんだよ」
ぼんやりとそうめんの入った段ボールを眺めていたら、とにかく座って、と食卓のイスに座らされた。いつの間にか食器も箸も用意してあり、少し遅れてミトンを着けたハルが湯気を放つ土鍋を持って現れる。
「はい、そうめん鍋」
どうぞ、と少し申し訳なさそうにしているハルの手の指す鍋の中を見ると、白く柔らかそうなそうめんと、薄緑の白菜。焼き目のついた豆腐がグツグツと揺られている横には、大きく切られた豚肉がぎゅっと詰まっている。
ぽかん、と鍋を見ていたら、目の前にあったはずの取り皿に同じような小さい鍋が再現されていた。エプロンを取り、正面に座ったハルが、どうぞ、とにこにこ笑う。
私、怒ってるんですけど……と思いつつ、立ち上る美味しそうな湯気に抗えるわけもなく、そうめんに箸を通して持ち上げた。つやつやした白い糸に息を吹きかけて、口に含む。
「……美味しい」
「でしょう」
濃すぎない、優しいスープの味がそうめんに絡んで、疲れた体に染みわたっていく。柔らかく煮込まれたそうめんを噛むとすぐになくなり、待ちきれずに次を口へ運んだ。ほうっと熱い息を吐くと、鼻からごま油の香りが抜けていって、なんとも言えない幸せに包まれる。くたくたに煮込まれた白菜は、豚肉と一緒に食べると食感が違ってより美味しかった。
よく煮込まれた具材を食べ進めるほどにわかる。これは、私の好きな具材で作った鍋だ。目の前に座る年下の恋人は、目を細めてこちらを見ている。
「これだけじゃあ、許さないんだからね」
鍋ごときで丸め込まれたことが悔しくて、苦し紛れに放った言葉はあたたかい湯気に消えて行った。
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