私の見る水溜りは決して『異世界』には繋がらない。
ぽた
プロローグ
夕暮れの丘の上。
高台にある閑静な住宅街にさらさらとした心地の良い風が吹く。空を見上げると、さっきまで空を覆っていた濃い灰色の雲は薄く溶け始めていた。
「ちょうど帰る頃に雨があがって良かったね」
俺に向かってそう言ったのは、同じクラスの鹿沼(かぬま)ミハルだ。
鹿沼とは下校途中、高台へ向かう坂道で偶然出会い、成り行きで一緒に帰ることになった。
誰かと下校を共にするのは俺にとって小学生以来の事だった。
「そうだね。てか鹿沼さんって家こっちの方だったんだ」
高一、高二と同じクラスだったにも関わらず、下校時に鹿沼とばったり出くわしたのは今日が初めての事だった。
まぁ、俺が学校をさぼりがちだったのが原因なのかもしれないが・・・・・・。
隣を歩く鹿沼ミハルをちらちらと見る。鹿沼ミハルは学校でも一目置かれるほどの美少女で、こんな子が俺なんかと一緒に歩いてくれていることがいまだに信じられない。夢のようだったが決して良い夢とは限らない。こんなところ他の生徒にでも見られたらと思うと内心ヒヤヒヤものだった。
「ううん。家は丘の下。今日はおばあちゃん家に行くの。だから普段はあまりこの道は通らないよ」
「へ、へえ、そうなんだ」
柔らかな彼女の声は俺の動悸を激しくさせ、顔を紅潮させるのには十分だった。
だから必然的に俺は挙動不審になってしまう。
「鴫野(しぎの)君、なんだか顔紅くない?」
隣を歩いていた鹿沼の顔が覗き込むように俺の目の前に現れる。
「ひゃぁっ!」
突然の美少女に俺は体感5メートルは飛び退いてしまう。
「人の顔を見て。その反応は失礼なんじゃないかなあ」
そう言いながら鹿沼がわざとらしく片頬を膨らませてみせた。
「い、いっい、いきなり覗き込んでくるからだろ! そりゃこんな感じになるだろ!」
「そんなもんかなあ」
鹿沼のおっとりとした独特の喋り方には相手の戦意を喪失させる不思議な力があるように思えた。
「そんなもんなんだよ。てかこんな所、誰かに見られたらやばいって」
「えっ、どうして?」
鹿沼が首を傾げる。
この娘は自分が学校でどんな存在なのかいまいち理解していないらしい。
鈍感というかなんというか……。
「こんな所、学校の奴らに見られでもしたら、何言われるか想像するだけで悲惨だろ!特に俺が‼」
こいつもこいつで、もう少し可愛い自覚をもてよ!
さっきの膨れた顔とか、どう考えても自分が可愛いの分かってやってるだろ。でなきゃヒロイン属性強すぎるだろ‼
「どうしてって、鹿沼さん……学校でも有名人だし……」
照れくさくなって、後半部分はほとんど声にならなかった。
「えっ? なんて言ったの?」
その瞬間、鹿沼の顔がグッと俺の方に近づく。
一瞬にして俺の視界は彼女の可愛い耳で埋め尽くされてしまった。
「だ……だっ、だからっ! そう言うのやめろって‼」
次は10メートルほど後ろへ飛び退く。
「鴫野君顔真っ赤だよ。大丈夫?」
「お前が可愛すぎるのがいけないんだろっ!」とは言えず、照れ隠しで俺は
「ゆ、夕陽が反射してるだけだからっ!」
「……夕陽?」
鹿沼は近づけていた顔を離し、空を見上げた。
瞬間、鹿沼の髪からシャンプーの優しい香りがふわりと漂ってくる。肩まで伸ばされた柔らかな黒髪はまるで鹿沼とは別の生き物のように自由に意思をもって空中を泳いでいるように見えた。
そして空を見上げる大きな瞳は夕陽に照らされ、宝石のようにキラキラと輝いていた。彼女を取り巻く全てが美しく優艶だった。いつの間にか俺はそんな鹿沼ミハルに見惚れてしまっていた。
「鴫野君、空すごく綺麗だね」
風に
言われて俺も空を見上げる。
んっ――。
眼前には息を呑むほどの綺麗な夕焼け空が広がっていた。さっきまでの濁り切った暗い雨雲は夕空に完全に溶けきっていた。
夕焼け空はオレンジや赤だけでなく、紫や青、緑といったたくさんの色が混ざり合って出来ているように見えた。あまりの迫力に手を伸ばせば届いてしまいそうなほど近くに空があるみたいな錯覚すら覚える。そしてそんな夕焼け空の下での鹿沼は、まさに天使と形容するにふさわしく俺の目の前に控えめに、それでいて神々しく佇んでいた。
「ねえ、鴫野君は水溜り好き?」
水溜り?
突然の質問に驚いたのもあって思考が追いつかない。
「水溜りって? あの水溜り?」
そう言って俺は偶然目の前にあった直径60㎝ほどの水溜りを指さした。
「そう。その水溜り」
「水溜りに好きとか嫌いとかあんの?」
「あるよぉ。水溜りが出来ると避けなきゃいけないし、気付かない内にバシャんってなっちゃうこともあるでしょ? そういうの嫌いな人は水溜り嫌いじゃない?」
そりゃそうだけど。それなら好きな人の方が少ないだろ。いまいち鹿沼ミハルの意図していることが掴めない。
「なら、俺も嫌いだ」
そう言った瞬間、鹿沼の顔がほんの少しだけ暗くなったような気がした。
「そっかぁ。そうだよね。ほとんどの人は嫌いだよねぇ」
鹿沼が何を言いたいのかさっぱり分からない。それでも一つ分かる事があるとするなら、鹿沼が水溜りを好きなんだろうなということだけだ。
「鹿沼さんは水溜りが好きなの?「好きだよ」
ほとんど食い気味に鹿沼が言った。
こんなにも感情っぽくなる鹿沼を見るのは初めての事だった。
「……そうなんだ。な、なんで?」
俺が聞くと、鹿沼はてくてくと弾むように水溜りの方に歩いていき、俺の方を振り返って手招きをした。
俺は呼ばれるがままに小走りで鹿沼の方へと近づいた。
「見て」
そう言って鹿沼が水溜りを指さした。
注意深く水溜りを観察してみるが、変わったところは特にない、ごく一般的な水溜りのように思えた。
「……普通の水溜りだな」
「普通の水溜りだね」
それが良いと言わんばかりに鹿沼がドヤ顔をして見せる。
いやいや可愛いけど、可愛いんだけど、何が言いたいのかさっぱりなんです。
そんな俺の想いを察してくれることは無く、目の前に立つ鹿沼はドヤ顔にプラスして胸まで張りだす始末だ。
鹿沼の控えめな胸が強調される。
「鴫野君、ちゃんと水溜りの良さ理解できた?」
「お、おう何となく理解した……」
話しを合わせるように俺がそう言うと鹿沼はジト目で、
「絶対理解してないよねぇ。だってさっきから私のおっぱいにばかりに視線が向いてるんだもん」
「お、おおお、おっおお……おっおお……‼」
見てた?
俺そんなに鹿沼の、学校一の美少女のおっぱい見てた⁈
しかも本人にばれるって、やばすぎる! 俺キモすぎる‼ 動揺を隠せないまま俺は恥ずかしさのあまり、着ていたブレザーで顔を覆った。
「鹿沼! いっそ俺を今この瞬間に殺してくれ!」
”さん”をつけ忘れたことも忘れ、俺は閑静な住宅街の地価を下げるほどの大声で叫んだ。
「私のおっぱいを見てたのは悪いけど、殺すはどう考えても罰が重すぎるよ。それに過剰防衛で私が罰せられちゃうよ」
冷静なツッコミありがとう。
心の中で鹿沼に感謝の言葉を贈る。
「ごめん。本当はおっぱい見てて水溜りの良さ分かってない……」
「だよねぇ。わかんないよね」
鹿沼の顔がすこしだけ曇る。
「ご、ごめん」
「ううん、大丈夫。今までもそうだったし、私の言うことってあんまり理解されないんだよね」
もじもじと居心地を悪そうにしながら鹿沼が言った。
雨上がりの爽やかな空気とは裏腹に重い空気が漂いはじめる。
やばい、何か話さないと気まずい……。
「鹿沼……さんはさ、水溜りのどんな所が好きなの?」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに鹿沼の瞳が発光するのが分かった。
夕暮れの住宅街が少しだけ明るくなる。
子供のように無垢な笑顔を向けながら俺の質問に対して鹿沼が答えた。
「鴫野君、もう一度水溜り見てみて」
言われるがまま俺はもう一度、水溜りをじっくりと観察してみる。
「何か気付くことない?」
「鹿沼さんと」
「鹿沼で良いよ」
「じゃ、じゃぁ鹿沼と俺が映ってる……」
「それ、それだよ鴫野君‼」
「どれ、どれだよ鹿沼さん」
鹿沼が「何で分からないの?」という風に首を傾げる。
いやいやいや、これで分かる奴の方が少ないだろ。
「鴫野君。私ね水溜りに反射する景色がすごく好きなんだよ」
そう言われて俺はもう一度、水溜りを真剣に見てみる。
確かに、水溜りには俺たちの他にも美しい夕空や薄くて赤い雲、空を飛ぶ数羽の鳥なんかがくっきりと鮮やかに映し出されていた。
「吸い込まれそうだ」
自分でも驚くほど無意識で漏れるようにそんな言葉が出ていた。
「そう! それだよ鴫野君‼」
嬉しそうに鹿沼が俺を指さして笑った。
「私は空の景色が好き。そして、水溜りはそんな私の大好きな空の景色をもっと鮮やかに限定的に加工してくれる存在なの」
楽しそうに話す鹿沼を見ていると自分もなんだか楽しい気持ちになってきた。
「そうだな、なんか鹿沼の言いたいこと少しだけ分かった気がする」
うんうんと激しく頷きながら鹿沼が続ける。
「たまにね、思うの。ここに映っている空は私たちが普段住んでいる世界とは別の世界の空なんじゃないかなって」
ん?・・・・・・ま……まてっ! 急に電波路線になったぞ。
「べべっべべっべべぇつの世界……?」
「そう。別の世界」
恥ずかしげもなく凛とした佇まいで鹿沼が言い切る。
「俺らってもう高二だよね?」
「もしかして鴫野君私の事、痛い奴っておもってる?」
「少しだけ……」
素直に言うと鹿沼が笑い声をあげた。
「怒った?」
「これが怒ったように見える? 鴫野君が思ったより素直だから嬉しくて」
そう言って鹿沼ミハルは目じりに滲んだ涙を拭った。
「なんだよそれ」
鹿沼のペースについて行けず、俺は苦笑いを浮かべる。
彼女がここまで不思議ちゃんだったとは予想外だった、しかしそれが良い‼
ギャップ萌えとはこの事か!俺は心の中で「鹿沼サイコー‼」と叫んだ。
「さっきの話に戻るんだけどね」
戻すのかよ!
どこまでマイペースなんだ。しかし、鹿沼の顔を見ているとツッコむ気にもなれず、諦めて俺は話を聞くことにした。
「はい、なんでしょう」
「私ね――――・・・・・・・・・・・・・・・」
「おい! 起きろ‼ 鴫野‼」
強く体を揺さぶられ俺は閉じていた重い瞼を開いた。
あれ? 夢??
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