サラの祈り

和正

フォーレのシシリエンヌ(1)


白いのカーテンの隙間から部屋に射し込む光は、部屋に舞う埃の一つ一つを照らしていた。そしてカセットプレイヤーから流れる音楽が部屋を満たしていた。


カセットテープの擦れる音が音楽の美しさを邪魔することはなかった。その旋律は皮が剥げたソファーで横になっているアフメド医師に安らぎを与えるとともに、古い記憶を呼び覚ましていた。


目を閉じているものの眠っているわけではなく、フォーレのシシリエンヌのフルートとハープの音色が彼の二つの耳に流れるとき、初めて聴いた日のことを思い出した。


アフメドは十歳だった、その日から四十年ほどの月日が流れていた。その日、頭と喉の痛みが彼を苦しめたものの、ただの風邪であり、病院に行く必要もなく、家事の合間に母親がアフメドの面倒を見てくれた。


そして、昼頃ベッドの近くにある机に何かを置く音で目を覚ました。皿やコップではなくもっと重たい何かだった。突然その重たい何かから聴いたことのない音楽が流れ出した。新しいカセットプレイヤーは父親のものだったが、仕事で家にいない日中は母親が家事をしながら音楽を流しているのをアフメドは知っていた。


ベッドで横になりながら何度も何度もその音楽を聴いた。聴いたことがない音楽だったが不快ではなかった。優しい旋律が柔らかい布団のようにアフメドを包み込んでいた。他のカセットテープも置いてあったが、アフメドが取り換えることはなかった。


日は沈み、夜が近づいていた。夕飯を食べ終えた後もその音楽を聴き続けた。熱も下がっていたし、咳も止まっていた。その日アフメドを夢中にさせたその音楽の名前は何だったのか、気にもしなかった。


旋律はうっすらと彼の頭の中に残ってはいたものの、風邪が治ると同時にその音楽に対する興味もどこかに消えてしまったように、それからカセットプレイヤーに触れることもほとんどなかった。


「フォーレよ、シシリエンヌね」とサラは言った。


彼女の声には古い友人を思い出したような懐かしさがあった。彼女によって記憶の海から救い出された音楽の名前とともに、十歳の自分自身を取り戻したのかもしれない。


十八歳のアフメドにその音楽の名前を教えたサラは美しい女性だった。彼女について「美しい」という一言で説明できるほど単純な女性ではなかったし、彼女の美しさには複雑な何かがあった。そもそも、その年齢のアフメドにとって女性とは神秘に満ちた存在だった。


「彼のレクエイムもまた素晴らしいのよ」


猫のように、ひっそりと噴水の端に腰掛けているいるサラを初めて目にした時に、何か特別な力が働いたような気がした。その力について説明することはほとんど不可能に近く、敢えて例えるのなら磁力のようなものだった。


この世界にある全てのものを知ることができると考えるのは人間の傲慢の象徴なのかもしれない。そこは高校の通学路から外れた道で、アフメドはすぐに家に着きたくなければ、遠回りをするためにその公園を通って家に帰っていた。


そこは大きな公園だったが、ただ広いだけで、その噴水のほかに特別なものはなかった。いくつかのベンチと子供が遊ぶための砂場があった。


そこを通り過ぎる学生はほとんどいなかった。

でもアフメドにとっては、落ち着くことのできる場所で、嫌いな場所ではなかった。


人通りが少ない場所で、だからこそ、そこに腰掛けているサラにすぐに気がついたのかもしれない。何を思ったのか彼女に声をかけようと歩み近づくと、今までにないほど心臓が昂っていた。


彼女が何を考えているのかわからなかったが、ただ遠くを見つめる不思議な視線の先には、アフメドが決して見たことのないものがあるかのようだった、それがどんなものなのか想像するのも難しかった。


風と共に波打つ髪が彼女の顔を少し隠していた。サラもゆっくりと近づく足音に気がつき、顔をアフメドに向けた。アフメドのの口から言葉が出てこなかった。声を失ったかのように、ただ立ち尽くす彼を見て「どうしたの?」と声を掛けたのはサラだった。


大きな緊張を見せるアフメドに対して、彼女は落ち着いていただけでなく、言葉を失う事はなかった。彼女の声は、はっきりとアフメドの二つの耳に届いていた。


自分自身に向けられたこの言葉に大きな意味はなかったが、不思議な声の響きによって誰も知らない洞窟にいるような不思議な感覚に包まれた。


それはもしかすると噴水のせいかもしれなかった。アフメドの目の奥を見るようにゆっくりと顔が持ち上げられた時、アフメドに向けられたサラの瞳は信じられないくらい透き通っていて、自分自身に向けられた彼女の視線に耐えることができなかった。


「この噴水はとても綺麗だと思うんだけど・・・」


アフメドは自分から声をかけようとしたのにも関わらず、今だに自分からは何も言えずにいた。


「今日は雨が降らないの。だから、ここに水の音を聴きに来たんだけど、あなたもそうなの?」


「いや、僕はただ・・・」そのまま再び黙ってしまった。

「私は長い間ある人を探している、その人はここには来ないかもしれないけど、いつかどこかで、この噴水みたいに水が流れる場所でまた会えることを祈っているの」と言う彼女の声の中にはなぜか大きな悲しみがあった。

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