サラの祈り

和正

フォーレのシシリエンヌ(1)


白いのカーテンの隙間から射し込む淡い光は、部屋に舞う埃の一つ一つを照らしていた。カセットプレイヤーから鳴る音楽は部屋を満たし、流れるような旋律は美しかった。テープの擦れる音がその美しい旋律を邪魔することはなかった。


その音楽は皮が剥げたソファーで目を閉じて横になっているアフメド医師に安らぎを与え、古い記憶を呼び覚ましていた。


フォーレのシシリエンヌ。フルートとハープの音色は初めて聴いた日の記憶と強く結びついていた。アフメドは十歳だった。その日、頭と喉の痛みがアフメドを苦しめたものの、ただの風邪だった。小学校を休み、母親がアフメドの面倒を見てくれた。


昼過ぎ、ベッドの近くにある机に何かを置く音で目を覚ました。皿やコップではなくもっと重たい何かだった。突然、その重たい何かから聴いたことのない音楽が流れ出した。その新しいカセットプレイヤーは父親のものだったが、仕事で家にいない日中は母親が家事をしながら音楽を流しているのをアフメドは知っていた。


ベッドで横になるアフメドは流れる音楽に耳を傾けていた。優しい旋律がアフメドを癒し、その音楽は決して聴き飽きることなかった。母親はしきりにモーツァルトを勧めてきたが、アフメドが取り換えることはなかった。


夕飯を食べ終えた後もアフメドはその音楽を聴き続けた。夜には熱も下がり、咳も止まっていた。翌朝、目が覚めると、昨日の風邪は嘘だったかのようにアフメドは元気になっていた。昨日、アフメドをあれだけ夢中にさせた音楽の名前は知らないままだった。


旋律はうっすらと頭の中に残ってはいても、風邪が治ると同時にその音楽に対する興味もどこかに消えてしまったように、カセットプレイヤーに触れることもほとんどなかった。


                   * 


「フォーレよ、シシリエンヌね」


サラの声には懐かしさがあった。忘れ去られていた音楽に、長い時を経て名前が与えられた。曲の名前を知らずに今まで記憶に残っていたことが不思議に思えた。


十八歳のアフメドにその音楽の名前を教えたサラは美しい女性だった。彼女について「美しい」という一言で表してしまうのはあまりにも言葉足らずで、その複雑な美しさはアフメドが触れたことのないものだった。


そもそも、十八歳のアフメドにとって女性とは神秘に満ちた存在だった。


「フォーレのレクエイムもまた素晴らしいのよ」


噴水の端に腰掛けているいるサラを初めて目にした時に、何か特別な力が働いたのかもしれない。アフメドはそこから目を離すことができなかった。


その噴水は高校の通学路から外れた公園にあった。アフメドは何となく家に帰りたくないときに、その公園で時間を潰していた。


大きな公園だったが、その噴水のほかに等間隔に置かれた古いベンチと砂場がある普通の公園だった。


通学路から外れていたからこそ、公園を通り過ぎる学生はほとんどいなかった。

ただアフメドにとっては落ち着くことのできる場所で、嫌いな場所ではなかった。


人通りが少ない場所だからこそ、そこに腰掛けているサラにすぐ気がついたのかもしれない。何を思ったのか彼女に近づくと、今までにないほど心臓が昂った。


ただ遠くを見つめている視線の先にはアフメドが決して見たことのないものが映っていたのかもしれない。


風と共に波打つ髪のせいで顔はよく見えなかった。サラもゆっくりと近づくアフメドに気がついた。サラと目が合った瞬間、アフメドのの口から言葉が出てこなかった。声を失ったかのように、ただ立ち尽くすアフメドを見て「どうしたの?」と言葉を発したのはサラだった。


大きな緊張を見せるアフメドに対して、サラは落ち着いていただけでなく、言葉を失う事もなかった。彼女の声は、アフメドの二つの耳にはっきりと届いていた。


言葉に大きな意味はなかったが、不思議な声の響きによって誰も知らない洞窟にいるような感覚に包まれていた。噴水のせいだろうか?サラの瞳は信じられないくらい透き通っていて、アフメドは自分自身に向けられた彼女の視線に耐えることができなかった。


「ここに水の音を聴きに来たんだけど、あなたもそうなの?」

「いや、僕はただ・・・」


アフメドは黙ってしまった。


「私は長いこと、ある人を探しているの。その人はここには来ないかもしれないけど、いつかこの噴水みたいに水が流れる場所で会えることを祈っているの」


サラの声の響きからはっきりと、悲しみが伝わってきた。それはアフメドの抱える後悔と似た形だった。


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