自らを育てる魚

Chapter 1

「未来じゃなきゃだめなの」


「うん、だから夢が鉄則なんだとか」

「はあ」


 水でいっぱいになった銀のボウルに、白い泡が浮かんでいる。泡はシンクの至る所に跳ねていて、蛇口の脇に置かれた洗剤の蓋は開きっぱなしになっている。

 皿を片手にシンクに立ち尽くしている文男ふみおは、宙に蝶でも浮いているかのように瞳を蛍光灯のスイッチの紐に巡らせている。蛇口から出しっぱなしの水とボウルが触れ合う音が体の奥から響いてくるようだ。蛇口を閉めがてら、文男の横に立った。

 文男の両肩に触れ、右肩にだけもう一度触れ、水でぐしょぐしょになったトレーナーの袖を肘までたくし上げる。同様に、左肩にだけ触れ、先ほどの手順を繰り返す。文男の持っていた皿を自分の手に移し、ボウルに潜らせる。

「あ、ごめん」

「いいよ 俺も話しかけちゃったし」

「水が無駄になったよね」

「いいよ」

皿もボウルも水を切って、食器かごに伏せる。


 朝になると、僕は仕事に出かける。大きな麻袋にゴム手袋、錆びたハサミ、潮と日の光に焼けたノートを詰める。冷蔵庫を開けて、ドライフルーツと水の入った瓶を選び取り一緒に詰める。家を出るときの麻袋は軽い。帰るころ、たくさん詰められるようにするためだ。

「青」

振り返ると、寝間着の裾を引きずった文男が眠たそうに立っていた。

「青?」

 そう聞き返すと、文男はにっこりと笑った。やわらかい髪が窓からの朝日に照らされている。僕はその髪に触れて、自分の胸に引き寄せた。

「楽しい夢を見たよ」

「そうか。でも、帰ってから聞くよ」

「帰ったころには忘れてるよ」

「なら、絵にして残しておいて」

 僕がそう提案すると、文男はまたにっこりと笑って寝室のほうに消えていった。帽子をかぶって、僕が家を出た。

 

 港町の朝は、たった今割った卵みたいに明るい。目を凝らせば凝らすほど、まぶしさにやられて何も見えなくなる。白い壁に沿いながら石畳を下りる。そこから臨む海は、町を眠らせる毛布みたいに広がっている。船を出すには問題ないほどの風だが、あまり吹かれると海鳥が怒る。

 同じような、白くて脆そうな壁の家々を通り過ぎ、僕は港へ向かった。新聞屋が茶色い扉に新聞を挟んで回っている。目が合って声をかけられそうになったので、会釈して足を速めた。

 海のほうから、汽笛合図が聞こえる。反射的に目をやると、黒く塗られた大きな貿易絵船が港へ着くところだった。目を細めると、船体に白いペンキで書かれた数字が見える。330-90。今から80年前ぐらいに造られた客船を貿易のためにやりかえたものだとわかる。僕は高くなっている空を見て、仕事場へ急いだ。

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自らを育てる魚 @umibashira

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