第48話 ~解~


 ……手が軽い。左手が軽い。

 こんなに自由に動かせるなら、また先生と小指を繋げるかしら。


 だけど見えない。貴方は何処に居るの?

 冷たい宙を泳ぐ手に、大きな温もりが触れる。


「先生……」


 アーシャは微笑み、自分の左手ごとそれを頬に寄せる。

 が……先程まで温かかった手は、みるみる冷気を放ち、氷の様に冷たくなる。


 違う……これは先生の手じゃない。


 震えながら瞼を開けると、そこにはランドルフが暗い目で自分を見下ろしている。


「あ……」


 私……首を絞めかけられて……それからどうなったのだろう。覚えていないが、どうやら自分は生きているらしい。身体の芯から沸き上がるこの恐怖は、生きているからこそのものだから。


「……やはりお前には、手枷が必要な様だな」


 ランドルフは自分と誰かを間違えた左手首に、包帯の上から容赦なく手枷を嵌めた。

 痛みに顔をしかめるアーシャに、ランドルフの嗜虐しぎゃく心が掻き立てられる。自分が与える痛み……それを感じている間は、彼女の中は自分で満たされる筈だ。



 身体を支え、水の入ったコップをアーシャの口にあてがうも、上手く飲めずに唇から溢れてしまう。

 ランドルフはぐいと自分の口に含むと、そのままアーシャに口付け、喉の奥へ流し込む。


 ゴクリ


 白い喉が上下したことを確認すると、溢れた雫を丁寧に舐めとった。


「……お前はまだ生かすことにした。魔女だろうが何だろうが、飽きるまでは傍に置く」

「私の本当の顔が醜くても……ですか?」

「……見せてみろよ。その醜い顔とやらを」


 アーシャは震える右手を顔にかざすも、弱々しい赤い光が浮かぶだけで、何も変えることは出来なかった。

 ふっと笑い、ランドルフはその右手を取ると唇を落とす。


「追放された醜い魔女と、爵位を剥奪された元侯爵か……なかなか面白い組み合わせかもしれんな」


 爵位を……剥奪?

 目を見開くアーシャに、ランドルフは愉快そうに言う。


「マリウスのヤツ、娼館に子供を売っていたらしいぜ。慈愛に満ちた院長が……聞いて笑わせる」

「娼館に、子供を?」

 寝起きでどこかぼんやりしていたアーシャの頭が、忽ち覚醒していく。


「そんなこと、そんなことあの人がする訳ありません!」

「それが残念なことに、証拠も見つかったらしい。公共事業に認定された今となっては、アイツは医師免許剥奪だけでは済まないだろうな……拷問、懲役刑。いや、お前と同じく他国へ追放か?おかげでハミルトン家の家門もとんだとばっちりだ」

 眉を寄せながらも、残酷な笑みを浮かべるランドルフ。


 拷問に懲役刑……

 青ざめていくアーシャは、ふとあることに気付いた。

「今……証拠が見つかったとおっしゃいましたね。何故貴方はそれを知っているのですか?公共事業に認定された病院の家宅捜索であれば、恐らく皇室が行うでしょう。ヘイル国の皇室は、そんなに簡単に外部に情報を漏らすのですか?」


 ランドルフは一瞬真顔になると、クックッと身体を震わせ笑い始める。

「無駄に賢い女は面倒だな。まあ、そこがお前の面白い所でもあるが」

「貴方は……一体何をしたのですか?あの人に何をしたのですか!?」

「良いことを教えてやろう。何かしたのは俺ではなく、お前の父親だ」

「え……?」

「お前の父親が、マリウスから子供を買って店に出していたと証言したらしい」

「どうして……どうして!手を切ってくれたのではなかったの!?」

「殺しても良かったんだが……一応お前の父親だからな。大事に大事に取っておいたんだ」


 興奮し激しく動かした為、再び血の滲み始めた左手の包帯。

 ランドルフはそれを指でつっとなぞる。

「……自分と同じ血を持つ男が、自分の愛する男を脅かす。皮肉な運命だな」

 アーシャの瞳から、涙がどっと溢れる。

「助けて……あの人を助けて」

「……あれを出せばいいんじゃないか?ほら、契約する時に言ってただろう。俺が父親の店の悪事を隠蔽した証拠を持っているって。それと一緒に、俺が証言しに行ってやるよ。隠蔽したのは俺でマリウスは無実だ、マリウスに罪を着せようとしたってな」


 涙に濡れたアーシャの顔が強張り、それは確信に変わる。

「どうした……まさか、証拠などないと?まさか、ハッタリだったと」

 ランドルフは高らかに笑い出す。

「……証拠がないなら、ヤツを助けることは出来んな。残念だが」

 ひきつける様に泣くアーシャをランドルフは抱きすくめる。

「俺とお前との間にはもう何もない。マリウスも、父親も……邪魔な契約も」


 茶色い巻き毛、薄い耳朶、細い肩……

 どれも愛しい彼女の一部。

 優しく撫でては唇を落としていく。


「安心しろ。爵位がなくなっても、頭さえあれば簡単に金は稼げる。お前一人ぐらい食わせていけるさ」

 熱を持ち、温かくなっていくランドルフの手とは反対に、アーシャの心は冷え凍っていった。


「お前さえ居ればいい。他は何も要らない」






「順調でございますね。つたい歩きもお上手ですので、じきに歩かれるでしょう」

「良かったわ。素敵なお靴を用意しないとね、ドロシー」


 間もなく1歳を迎えるドロシーの定期検診を無事に終え、第一夫人イライザはほっと胸を撫で下ろした。


「薬箱を確認させて頂きます。……あら、ジャノヒゲと甘草が大分減っていますね」

「ドロシーが肺炎をおこした時、アーシャ様がお薬を作って下さったの」

「そうでございましたか」

「アーシャ様が診て下さらなかったら、ドロシーは助からなかったかもしれないわ」

「本当に……ようございました」


 その言葉には深い意味が込められていた。

 今まで様々な家の女達を見てきた女医。その多くが夫や跡継ぎを巡り火花を散らしており、このハミルトン家も先日の流産騒動を見る限り、例に漏れず不憫な関係かと思っていたのだ。


 だがどうやら、ドロシー嬢の治療を通して生まれたらしい妻達の信頼関係に、女医は涙ぐみながら薬草を補充していく。


「そういえば……最近アーシャ様をあまりお見かけしないわね」

 女医の手がピタリと止まる。

「お仕事がお忙しいのかしら。逆に旦那様はご在宅なことが多い様だけど」

「……奥様……あの」

 様子のおかしい女医に、イライザは問い掛ける。

「どうしたの?」

「アーシャ様は……お部屋からお出になれなくて」

 体調が悪いのだろうか。……生死を彷徨う程の流産だったのだ。もしそれが原因なら自分にも責任がある。


「……どうされたの?ご病気なの?」

「いえ……その……雇われ医師の私が口を出すことではないと重々承知しておりますが、ですがこのままではあまりにアーシャ様がお気の毒で」

 ボロボロと涙を流す女医。


 ……アーシャ様の身にただならぬことが起きているらしい。

「……話して。貴女のことは私が守るから」






 数日後、イライザと女医はアーシャの部屋の前に立つ。


 今日、ランドルフ様は貴族会議で早朝から深夜までお留守。決行するには最適だ。


「何か御用でいらっしゃいますか?」

 予想通り、兵に止められる。

「今朝、旦那様から頼まれたの。アーシャ様を女医に見せる様にと。私は旦那様の代理です」

「……ご主人様からは何も伺っておりませんので、お通しすることは出来ません」

 イライザは全く動じず、やれやれと言った調子で首を振る。

「あの方にも困りましたわね……出掛けだったので、きっと慌ててお前達に伝えるのをお忘れになったのでしょう。少し出血されているとのお話だったのに……どうしましょう、万一、また、流産だったら」

 二人の兵はドアの左右から、青ざめた顔を見合わせる。

「仕方ないけど諦めるわ。お前達のせいで入れなかったことは旦那様に報告させてもらいますけど」


 戸惑う女医の手を引き、くるりと背を向けるイライザを兵が呼び止めた。

「……手短にお願い致します」




 一歩入った瞬間に、その異様な室内に気付く。


 酒と情事の匂いが充満した薄暗い部屋。

 自分達が入って来たことにも気付かず、奥のベッドでクッションにもたれている、白く痩せた全裸の──


 アーシャ様!


 叫び出したい気持ちを堪え、イライザは静かに近付いていく。そこで気付いたのは、左手首の包帯に嵌められた手枷。


 これは……普通じゃない。

 あの人は狂ってる!


 ベッドサイドまで近付いても自分に気付かないアーシャに、イライザは静かに呼び掛けた。

「……アーシャ様、アーシャ様、イライザです」

 もうひと月以上も、ランドルフと侍女以外の者とは接していないアーシャ。

 突然現れた第一夫人に驚き、目を見開いていく。

 そんな彼女に、イライザは唇にしっと指を当て、真剣な顔で問う。


「……此処から逃げたいですか?もし逃げたければお手伝いします」

 イライザは侍女から預かっていた手枷の鍵を取り出し、すっとアーシャに見せる。

 アーシャは暫くそれをほうけた様に見つめていたが、突如コクコクと激しく首を縦に振る。

「承知致しました。あまり時間がありませんので、ご無礼を」

 イライザはベッドに乗り、左手の手枷に鍵を差し込み解放する。

 続けて自分の服を脱ぎだした。

「この服を着て外へ出て下さい。私は別の服を持って来ましたから」


 女医は診察鞄から、薄い部屋着を取り出しイライザへ渡す。

「奥様……何故」

「貴女を害してしまったお詫びと、ドロシーを助けて頂いた恩をお返したいだけです」

 イライザは微笑みながらもテキパキと下着姿になり、アーシャへ服を手渡す。

「さあ、早く」


 アーシャは頷き、女医に支えられながらイライザの服を着る。

 何とかベッドから立ち上がるも、よろよろ歩くのがやっとの状態だ。

 女医はアーシャの身体へ手をかざし、血と筋力を補う魔術を送っていく。


「さて……ここからが問題ね。部屋の前と、表門の兵を突破しなくてはならないわ」

 イライザの言葉に女医は頷き、アーシャへ問う。

「……アーシャ様、催眠魔術を使えませんか?此処を出る間だけでも、何とか奥様のお姿に変われませんでしょうか?」


 思うように食事が取れず、気力も体力も弱っているこの状態で、高度な催眠魔術を使うなど無謀なこと。

 だがそれでも、一縷いちるの望みにかけるしかなかった。


「……やってみます」

 それしか方法はない。

 アーシャは自分へ向かい手をかざした。

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