1.2

 おあつらえ向きにホームへ十両連結車両ご到着。扉が開き一歩二歩。ホームと車両。境界線の手前。ここで、止まる。

 実のところ、バックれ上等のサボタージュに不安を抱かないわけではない。ひとときのアグレッシブの末に安定を手放すのはリスクばかりかノンリターン。金の悩みが浮かばぬはずなく、先行きに立ち込める暗雲に尻込み。

 だが逆にいえば金さえあればなんとでもなる。食う寝る所住む所も金で買えるこの時代。金は重要ではあるが、なければ生きていけない以上得る手段はいくらでもあるし、家族もいない守護する物もない俺一人が命を維持するに必要な金などたかが知れているわけだから、額さえ考慮から外せば扶持の憂慮など取るに足らない。


 途端、漲る活気、活力。


 気にせず行けよ、行けばわかるさ。


 三歩、四歩。境界線を超え乗車。思いの外軽い足取りのまま着席用シートに向かって直進し腰をかける。上々、爽快。最高潮。眠ろうと思っていたのに気持ちが浮かび目は冴え渡る。決断の末に生じた精神的変化は私に若き日の好奇心を与え、日頃の苦心を排斥。衆から個に戻る瞬間、社会から飛び出し無頼となったこの時、日常を犠牲に尊厳と自信を取り戻した私は復活を遂げた。縛られる事のないパーフェクトリバティーが土壌を潤し花を咲かせる。枯死していくだけだった私の運命は再び、再び色彩を取り戻し人間としての価値を生み出したのだ! 素晴らしきかな我が人生!




 胸元が震える。

 感動の様子を伝える表現ではない。人工的に発生した物理的現象である。スマートフォンがスーツの内ポケットにてバイブレーションしているのだ。発芽した人権の意思が萎む。渋々とスマートフォンを手に取り名を見ると部長の名が表示されているではないか。出勤時刻までまだあるというのにどういう了見だろうか。義理もあり、話だけは聞いてやりたい所だが生憎の電車内。マナーを遵守するのであれば、通話ボタンをタップするわけにはいかない。しかし震え続けるスマートフォンが気にならぬわけではない。どうしたものか、風に当たりたい。当たろう。車窓を開き涼を得る。


 あぁっとしまった。


 窓からスマートフォンを落としてしまった。風に飛ばされ線路の外の用水路にダイブだ。失態失態。しかしこれで無用の悩みは死んだ。これは不可抗力でのやらかし。市民の皆様、大目にてご容赦を。

 いやしかし、空が青いじゃないか。素晴らしいな、世界は。

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