第三章 お疲れ様です金曜日

 はぁー、疲れたわぁ。まったくどうしたら良いのかしら


 ショートボブの頭の後ろに両手を組んで、背もたれがメッシュ状な高級ビジネスチェアーに背中を預けて天上を見つめて、ため息をつくアタシ。


「どうしたんすかー? 今日は花金じゃないですか。例の『わけありの男』と付き合い始めたんでしょう? 噂は澤田女史から伺ってますよ」


 アタシの後ろで仕事をしていたはずの後輩君は、ぬーっと後ろからアタシの顔を覗き込んできた。


「それとも、そっこーで分かれちゃったんすか。であるなら、僕が先輩の寂しい独り身の夜を慰めてあげましょうか? いやいや、エッチじゃなくてネットゲームでですけどね」


 後輩君の両方の親指は、まるでゲームのスティックを自由自在に操るかのように、クイクイと動いてた。


「うんもぉー、そうじゃないのぉ。そんな簡単に分かれるわけ無いじゃないっ、まだ本格的にお付き合いしているわけでもないし。だってさー、アタシより身長高いし、まあ、顔もそこそこだし、優しいし、目は小さいけどね。でもね、問題はそこじゃないんだよね」


 アタシは、体を預けていたチェアーの位置を元に戻して、ぐるりと後輩君の方に体を向き直して、後輩君が聞こえるかどうかの小さな声で返事をする。

 後輩君も自分のチェァーに座りなおして目線をアタシと同じ位置に揃えて来た。立ったままだと目立っちゃうし、ひそひそ話をするにはこのポジションだよね。


「そーじゃないんだよ、そこじゃないんだよ、アタシが悩んでいるのはさ、後輩君。アタシが悩んでいるのは、彼が『わけありの男』である理由がなんなのか? そこなんだよね。だって、彼の言っていること、ぜーんぜんわかんないんだもの」


 ☆ ☆ ☆


「あのー、初めまして。わたくし、この間の日曜日に貴方から傘を貸していただいた者ですけど。これ、お返ししたくて……」


 水曜日の夜、アタシはそう言いながら彼に向かって柄の長い黒い傘をおずおずと差しだした。


「あー、そうでしたか。貴女に傘を貸していたんですね。いや、貴女のお役に立てたのなら、僕としては満足ですよ。あ、立ち話もなんですから、どうぞお座りください」


 彼はそう言いながら、彼の横の椅子に置いてあった自分のカバンをどかしてアタシに勧めてくれた。


「どうりで日曜日の夜から見つからなかったわけだ。日曜日朝の天気予報で、夕方から天気が不安定になるから傘が必要ですよと言われて、大きめの傘を持って出かけたところまでは覚えていたんですけどね。でも、気が付くと全身びしょ濡れで自宅に戻っていたものでね」


 独り言なのか、アタシに言っているのか、彼は不思議な事を口にした。もしかしたら彼は記憶に関する欠落がある病気を抱えているのかしら? 一瞬そう思った。でも、それなら、マスターが言ってた『わけありの男』の答えにはなっていない気がした。

 かと言って、初めて会った人に、いきなり面と向かって『わけありの男』って何ですか? と聞くのもはばかられるし。

 アタシは、そのあと彼と差しさわりの無い話をしてから、また一緒に飲みましょうという約束を交わして別れた。


 ああ、フラストレーションがたまるぅー。


 ☆ ☆ ☆


 結局水曜日は、傘を返して次に会う約束を交わしただけだった。


 傘を貸してくれた彼は、後輩君の推理通りアタシ達と同じビルの上層階に居を構える大企業のオフィスで働いているサラリーマンだった、のだけど、それ以上の事は結局聞けなかった。

 ただし、少しだけ話をした限りでは、挙動不審者というわけでもないし、一般教養は申し分なかった。それに健康面でも持病を抱えているような話が一切でなかったし。


 じゃあ、日曜日にアタシに傘を貸してくれた『わけありの男』はいったい誰なの? 雰囲気は違ったけど、でもやっぱりカウンターに座っていた彼に間違いないのだろうし。

 木曜日は、あまりに忙しくて何も考える時間がなかった。だけど、花金に会おうと約束して、いざ約束の時間が近づいて来ると、あらためて彼の『わけありの男』の部分が気にかかるし。


「んでさー、結局『わけありの男』の意味がわからないまま、こうして悶々としながら今日のデートの時をまっているわけなのよー、どうしたら良い後輩君?」


 アタシは後輩君の方にチェアーをガラガラと移動する。と、その音を聞きつけた先輩女史の澤田さんがこちらに向かって、少し下がりぎみなメガネのレンズ越しにじろりと睨みつける。


「何言ってんのー。気になるんだったら直球勝負しなよ! 後輩君に聞いたって彼が迷惑なだけでしょ? 付き合い始めてから悶々とし続けるなら、最初に真実を聞いちゃって、早めに『GO』・『NO GO』を決めれば良いじゃないの。まあ、それを実践してきたらこうなっちゃった、ていう見本がココにいるんだけどね。タハハ」


 最後に、ニカリと笑った先輩女史の口元からは、昼間食べたのり弁の『のり』が歯の隙間に付いていたのがちらりと見えていた。

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