第5章 第1話 エリア015 西園寺巴の日常

鼎達から連絡が来る数時間前…


「ふぅ…眩しい」


西園寺巴はカーテンを開けて、窓から差し込んでくる日の光を浴びた。日が出てきたばかりで、まだ朝早くである事が分かる。


(もう朝ごはん食べるか)


そう思った西園寺巴は、手早く朝食の準備をする。この日の朝ごはんはトーストとコーヒー、ベーコンとフライドエッグだった。


ーー


桃香が住んでいて最も栄えているエリア003から半周程離れた場所に存在するエリア015。巴はこのエリアにある大きな家で、一人暮らしをしていた。


過去に住んでいたエリア013で起きた事故が原因で、既に家族はいなかった。先祖が残してくれていた家と財産のおかげで、生活が貧しくなる事は無かった。


だが一生遊んで暮らせる程の遺産では無かったので、巴はプログラマーとして生計を立てていた。彼女はまだ19歳だったが、015にある飛び級制度で既に大学を卒業していた。


(よし…)


巴は男性向けの服を着て、自分が勤めている会社へと向かった。巴は現実世界で外出する時は、男物の服を着る事に決めているのだ。


ーー


(寒い…)


もうすぐ12月になるエリア015は、かなり冷え込んでいた。巴は白くなる吐息を見ながら、会社へと急いで歩いた。


巴が歩いている015の街並みには、旧世代の建物が多く存在している。最先端の技術で作られた建物ばかりが存在する他のエリアの都市部とは、大きく景色が異なる。


エリア015はロストテクノロジーの保全、研究に力を入れている。その為、他のエリアとは異なる制度もいくつか存在している。


他のエリアで造られた機器の中には、015に持ち込めない物もある。親を亡くした巴が、先祖の家があるこの地に移住する時も苦労した。


ーー


2040年の技術革新を機に、人類社会は大きな発展を見せた。人類にとってもっとも幸福だった時代は、30年続いた。


しかし、人類は些細なことで争いをする生き物である。国家同士が資源を巡って敵対した結果、すぐに世界大戦になってしまった。


20年続いた戦争によって環境は破壊され、多くの人間が犠牲になった。過ちに気づいた人類は、ようやく不戦を誓う事が出来た。


人類の国は一つになり、生活圏はエリアで区切られる様になった。だが、多くの文化が破壊された世界での生活は、心が貧しくなるだけだった。


それを重く見た統治者たちによって、仮想現実アナザーアースの計画が開始して今に至る。しかし、エリア015では受け入れられるのに時間がかかった。


最先端のテクノロジーを警戒する015が、正体不明のシステムエンジニアが作ったものを受け入れる筈が無かった。だが、一部の住民から使われて欲しいという意見が上がり、最終的には認可された。


ーー


西園寺巴は、かつては両親と共にエリア013で暮らしていた。環境と治安の悪いエリアでの暮らしは、かなり苦しかった。


(いつか、ここを出るんだ)


013での暮らしは、いつ反社会的勢力に脅かされてもおかしくない。巴はいつか別のエリアへ移住したいと思っていたのだ。


厳しい生活を受け入れて共働きをしている両親との仲は、決して悪い訳では無かった。だから巴も、両親を9年前の交通事故で失った時は泣いていた。


子供一人だけで生きていくのは、特に013では困難だ。別のエリアに先祖の財産が遺されている事は聞いていたので、それに頼る事になった。


013は住民の出入りを異常に厳しく管理するエリアである。当時10歳の少女だった巴が、親族がいない状態で別のエリアに移住するのは困難だった。


それでも彼女は、エリア015への移住を強く希望していた。その希望が叶った結果、015のリーダーが介入して来た。


015の上層部が介入した結果、013のリーダーは口出しできなくなった。015基準でのスムーズな審査の結果、巴はすぐに移住することが出来た。


巴は先祖が015に遺してくれていた家で、一人で暮らす事になった。リビングには大小様々な天球儀があり、物置には使い方が分からない機械も保管されていた。


親を亡くした巴は悲しんではいたが、寂しさは感じていなかった。元々人付き合いを煩わしいと思っているタイプだったのだ。


とはいえ、一切他人と関わらずに生きていくのは不可能だ。彼女も近所の人との付き合いが必要になっていた。


015は最先端のテクノロジーを嫌う人が多く、013から来た巴から見れば風変わりに見えた。だが、彼らは考えが少々偏っているだけで助け合いながら生きていて、引っ越してきたばかりの少女に対して優しかった。


ある程度、生活に慣れた巴に対して、エリアリーダーは再び学業に励む様に指示した。彼女はすぐに015のアカデミーに転入する事になった。


015のリーダーが巴の移住を手助けした理由は、学業成績が優秀だったからである。事実、彼女は飛び級制度を駆使してあっという間に大学へ進学した。


そして一年前に卒業した彼女は、プログラマーとして働いている。基本的には在宅勤務を希望しているが、出社せざるを得ない日もあるのだ。


巴がアナザーアース専属のプログラマーになるのは難しかった。彼女はエリアに穴を開けて通路を勝手に作るという、ルールに違反する行為をしているからだ。


それについては、巴も自分が悪いと理解している。だからこうして、出勤する必要のある会社で働いているのだ。


ーー


「巴さん、おはようございます。早速ですが…」


「分かっていますよ。すぐに取り掛かるので、今日中には…」


巴はチーム内の他のメンバーからも頼りにされている存在だった。他の社員と比べて明らかに若かったが、実力は本物である。


「巴さん仕事が終わったら…」


「お断りします。早く帰って、家で休みたいので…」


彼女は社内の人間とは友達になる必要が無いとしている。仕事場での人間関係が複雑化すれば、作業に支障が出ると考えているのだ。


ーー


「ずいぶん独特なシステムでしたが、これで正常に作動するはずです」


巴はエンジニアが設計した独特なシステムに驚いたが、無事に作動させる事が出来た。この日も彼女は、定時に帰る事が出来そうだった。


巴は同僚や上司からの飲みの誘いを断って退社しようとしたが、その前に上司に用がある事を思い出した。動作するようにしたシステムについて、気になっている事があったのだ。


「私が担当したシステム、アナザーアースでも機能するタイプですね。仮想現実での展開も、考えているんですか?」


「うん、その通りだ。最近は、このエリアでもアナザーアースが受け入れられてきてるからね…」


巴はアナザーアースで使うアカウントを幼少期の頃に作っていた。だが、9年前に015に移住した際に、アカウントの削除を命じられた。


巴は少し名残惜しいと感じていたが、すぐにアカウントを削除した。アナザーアースのアカウントと自分の住む家、どちらが大事かは明らかだった。


そうして巴はアナザーアースのアカウントを手放す事になったが、1年前に015でもアナザーアースの利用が認可された。巴はすぐにアカウントを作り直して、再びアナザーアースのユーザーになった。


巴はアナザーアース内ではアカデミーブロックの一室を使って、セキュリティをチェックしている。セキュリティに不備があった時には、すぐに運営に報告している。


「やっぱりアナザーアースの方でも、事業を広げていくんですね」


「もちろんだ。君にも手伝って欲しいと思っているよ」


その言葉を聞いた巴は挨拶をして、退社して行った。彼女はアナザーアースでの違反行為がバレない様にしなければと考えていた。


ーー


(よし、いつもの喫茶店に寄って行こう)


メインストリートから少し離れた路地に、巴の行きつけの喫茶店がある。百年以上前に創業した喫茶店の外見は、当時の落ち着いた雰囲気のままだった。


「いらっしゃいませ」


この喫茶店のマスターは、白髪混じりの頭をした品の良い男性だった。客は既に数人いて、彼らはテーブル席を利用していた。


「カレーを一つ。食後に紅茶も」


巴はカウンター席に座って、この喫茶店で一番人気があるメニューであるカレーを注文した。ここのカレーはエリア015の隠れた名物として評判だった。


(落ち着く内装だけど…あの器具とかマスターはちゃんと使い方知ってるのかな?)


喫茶店のカウンターやその奥には、旧世代の珍しい器具が置いてあった。マスターがレジスターと思われる装置を巧みに操作しているのは何度か見ていたが、それ以外の機器は飾ってあるだけかも知れない。


「お待たせしました」


この喫茶店のカレーは、豚肉と玉葱だけのシンプルなカレーに見える。しかしルーには人参や玉葱、大蒜が溶け込んでいる。


(黒っぽくサラリとしたルー…コクがあってやっぱり美味しい)


このカレーは、他と違う独特なものがある訳では無い。だからこそ変わる必要が無いという、確かな安心感があるのだ。


ーー


「このカレーには変わらない美味しさがありますね。でも、いつかは無くなってしまうんですよね…」


「まぁそれはそうですが…私がいなくなっても、まだ消えませんよ」


「息子か弟子がいるんですか?」


「はい、独立した息子が003で喫茶店をやっています。あっちは、こことは比べ物にならない程の大都会ですね」


エリア003は花を模った巨大なソーラーパネルがある、最先端のテクノロジーを擁するエリアだ。ロストテクノロジーの研究を続けている015とは真逆と言える。


ーー


この喫茶店の常連である巴は紅茶を飲みながら、マスターと話を続けていた。既に他の客もいなかったので、何かを気にする必要は無かった。


「ここの店内も、変わらないですね」


「変える必要も無いですし、派手に改装するお金もありませんので」


店内はとても清潔に保たれていたが、年季の入った匂いが消える事は無い。だが決して嫌な匂いでは無いので、改装したらむしろ味気なくなってしまうだろう。


「変化と言えば、015も少しずつ最新のテクノロジーを受け入れていますよね」


「アナザーアースが認可された時は流石に驚きました。私はすぐに始めましたが…あなたは始めてないんですか?」


「私は仮想現実に興味が無いので…この喫茶店を続けられれば充分です」


「仮想現実の食べ物は、美味しくないし実際に腹に収まっている訳では無いですからね…」


エリア015からログインしているアナザーアースのユーザーはかなり少ないらしい。他のエリアとは大きく異なる環境なので、仮想現実に興味を持つ若年層も少ないのだ。


「ここの文化は若い世代にも受け継がれています。根強い文化は、そう簡単には消えないと思いますよ」


「うちの息子はそれが嫌だったから、003に引っ越したのかも知れません」


「私はこのエリアが一番好きですよ。前に住んでいたのが013というのも大きいかも知れませんが」


「013…私は行った事ありませんが…そんなに住みづらい所なのでしょうか?」


「いつ何処でヤクザに目をつけられるか分からない土地です。アナザーアース絡みの犯罪者が一番多いエリアでもあります」


「このエリア015も、特別治安が良いわけでは無いですよ。時々、闇取引に関するニュースも見かけますし」


巴とマスターが話し込んでいるうちに、20時を過ぎていた。店をもうすぐ閉めるという事で、巴も帰る事にした。


ーー


「またお越しくださいませ」


丁寧な態度で接するマスターに会釈した巴は、帰路に着いた。エリア015には煌々と光を放つビル街はなく、落ち着いた雰囲気が保たれている。


既に冬が近く、空気がとても冷たいものになっていた。015の路上で犯罪に巻き込まれる確率は低いが風邪を引かない為にも、巴は家へ急いだ。


ーー


家に着いた巴が電気のスイッチを点けると、天球儀の横のランプが淡い光を放った。元からランプだった物と古い器具を改造したものが両方あったが、普通のライトと比べて趣のある見た目だった。


(今日はアナザーアースに…行かなくていいや)


部屋着に着替えた巴はアナザーアースにはログインせずに、リビングで小説を読み始めた。最近は読む人も減ってしまった昔のSF小説で、巴は続きが気になっているのだ。


ーー


(さて、風呂も済ませて歯磨きもしたし…)


既にパジャマに着替えていた巴は、ベッドで寝ようとした。しかし、まだ電源を切っていなかったデバイスから電話の着信音が鳴り響いた。


(何…鼎から?こんな時間に…)


「…今何時だと思ってるの…これから寝るところなのに…」


巴は仕方なくデバイスを起動させて、鼎からの電話に応じる。向こうから聞こえてきたのは、割と久々に聞く鼎の声だった。


『ひょっとして、今現実の方にいるの?』


「とっくにログアウトしたよ…もう23時50分…」


『あ…その、巴の方は何か進展あるかなって…』


巴はわざと不機嫌そうな声で、水瀬愛莉の目撃情報について伝えた。その後はすぐに通話を切って、布団に入り直した。


(明日は…忙しくなりそうだ)

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