呼び声

 今日も今日とて雅冬にお茶を出しに来た華乃は、机に突っ伏して眠っている雅冬を見つけて息を呑む。

 切なげに寄せられた眉に小さく呟かれた名前。

 抱きしめるように握られているのは紛れもなくあの日、自分が雅冬の小さな体を包んだ藍色の羽織だった。


「まさふゆさま」


 目頭が熱くなって華乃はきゅっと唇を噛む。

 私は一体何を見ていたんだ。

 紫月がいなくても立派な国主として振る舞っている雅冬を見て安心していた。

 父や柚稀が言っていた危うさが見えていなかった。見ようとしなかった。

 どうして雪雅様のお屋敷で見た姿を勘違いだなんて思ったりしたんだろう。

 あの夢はやはりただの夢なんかじゃなかった。

 ずっと、ずっと、こうして雅冬は自分を、紫月を呼んでいた。

 だから、還ってきた。還ってこられた。

 不思議の力をもつ巫女だった母の力なんて関係ない。

 父や母の業なんて関係ない。運命なんてしらない。

 華乃は雅冬に呼ばれたからここに還ってきた。

 雅冬が紫月の死からちゃんと立ち直れるようにするために、紫月を思い出にするために還ってきた。雅冬の中の紫月を殺す為に還ってきた。

 もう一度、今度こそ完全に紫月を殺す為にこの場所に還ってきた。

 零れそうになる嗚咽を噛み殺して、華乃は自分の羽織っていた羽織をそっと雅冬の肩にかける。


「私のことなんて早く忘れてしまいなさい。もう紫月はどこにもいないのだから」


 お願いだから、もう私を呼ばないで。

 私が返事をしてしまう前に、私はここにいると叫びだしてしまう前に、私を過去にして。

 私を見つけてしまわないで。


「お願いです、私のことなど忘れてあなたの人生を歩いてください」


 “紫月わたし”なんかに縛られないで。

 願うのはいつだってあなたの幸せなのだから。


 伸ばしかけた手をキュッと握りしめて華乃は逃げるようにその場を立ち去った。

 急ぎ足だったものがだんだんとかけ足になる。はしたないなんて考えはもなかった。

 当てもなく、ただ少しでも雅冬から離れた場所に行きたかった。


「ここ、は」


 辿りついた場所に乾いた笑いが漏れる。

 雅冬と過ごした離れ。雅冬と一番長く過ごした部屋。

 ポロポロと零れる涙を拭うこともせずにそのまま崩れ落ちるように座り込む。

 

 誰よりも大切な人だった。

 誰よりも守りたい人だった。

 誰よりも幸せになってほしい人だった。


 なのに、その人が自分のせいで苦しんでいる。自分を思って苦しんでいる。

 私はここにいるのに、彼が求める“紫月”はもうどこにもいない。

 あの日の選択を後悔したことなどない。今だって正しい選択だったと胸を張って言える。

 だけど。


「はは、笑えない、な」


 なにが遠くから見守っていたい、だ。

 なにが、紫月のことをキッパリ断ち切って頂きますだ。

 今の自分にはきっとなにひとつ許されない。

 紫月じゃないのに、紫月を思い出させてしまう華が側にいては雅冬はますます紫月を忘れることができない。

 いつからこんなに弱くなった。いつからこんなに我が儘になった。いつから。


「華」


 膝を抱えてそこに顔を埋めていた華乃はその声にハッとして顔をあげる。

 自分のことをそう呼ぶのは今ここにいない雪雅と、城勤めの女中たち、それからたった一人だけだった。


「との」


 自然と零れた自分の声に華乃はくしゃりと顔を歪めた。

 名前を呼ぶことさえ、今の自分にはできないのだ。


「なにがあった?」


 大きな手が華乃の頬を包みこむ。

 刀を握る無骨な指がぎこちなく目尻を擦って涙を拭う。

 それにまた涙が零れた。

 けれど、雅冬の問いに答えることはできない。華乃は幼子のように黙って首を振った。

 いやいやと首を振り続ける華乃に雅冬はそれ以上なにも聞かなかった。

 ただ次々と零れる涙を黙って拭いながら、華乃が落ち着くのを黙って待っていた。


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