第30話

 水は、日に日に冷たくなっていく。


 下腹を丸く追い越してゆく川へ、あかるこはざぶりと沈んだ。遠くの方を、銀色の小魚が雪の舞うように泳いでいる。あかるこが手を伸ばすと、一斉に向きを変えて逃げ去っていった。


 指で髪を梳き、上がろうとしたが、あまり寒くてためらった。まだ秋の半ばだというのに、川から上がるともう冬に近いような気配すら感じる。


 海というところは暖かいのだろうかと、あかるこは衣を手繰り寄せながら考えた。追っていた川の向きがどうやら違うということで、また少し戻ってきたところだ。だが行きつ、戻りつ、ときにひとつところへ留まりながらも、伊織より北へ進んでいることは分かる。それに、旅そのものの進み具合は思わしくなかったが、そのうちに双葉が追いついてくるかもしれないという儚い望みを、あかるこもナギもまだ捨てていなかった。


 伊織は雪深い里だった。土に染みた雪が氷になり、土の色を吸って鏃の黒玉になるのだと、山辺彦があかるこに戯れたことがある。


 それならヒスイの出る里は、雪がそのまま固まって埋もれるのか、草木を透いて滴るうちに、氷に色が入るのか。大きな声でおどける叔父が、懐かしかった。


 だんだんと体になじんで温んできた川からようやく上がると、向こうを向いて番をしていたナギが振り向いたが、まなざしを投げておいて途端によそへ逸らした。


 衣の袷目から、肌が覗いたらしい。かえってあかるこより恥じらいを感じているようすで、ナギは厚い衣をあかるこに着せかけた。


 妻の肌を見ることに罪があるだろうかとあかるこは思うが、ナギには一律の敬意による線引きがあるらしい。それとも、女人の見せた隙につけ込むのを嫌ってのことかもしれない。いずれにせよ、ナギはしばらく顔を上げなかった。


 「寒くはないですか」


 ナギが尋ねた、ナギの方でも厚い布地の衣を着ているので、擦り寄ると肌の当たりが柔らかだ。


 「少し……」

 「じゃあ、もう少しこちらにおいでなさい」


 ナギは簡単にしぼっただけのあかるこの髪からまだ少し滴が垂れてくるのも構わずにあかるこを抱き寄せ、自分も少し妻の側へ寄った。今朝あかるこが結いそこなった髪が一房、ナギの肩からこぼれてあかるこの頬を撫でる。みずらのような凝った形に結わずにいると、ナギの髪も存外長いのだと、あかるこは近頃そんなことばかり考える。


 川辺に並んで黙っていると、鼓動がふたつ、聞こえる気がする。


 こうして旅するうちにどこかの里に辿りつき、十年も二十年も生きたあとこの頃のことを思い出すなら、ひとつの恋に縋って忍び続けた、あれは大変だったと思うかもしれない。


 けれど恋には山ほど形があって、幾通りもの愛情の中のひとつが自分たちの間にもあるのだと思うと、あかるこは追われることの苦労や、寄る辺ない身の上の寂しさをいつまでも忘れていられるような気がした。


 それがあかるこにとっての恋だった。


 「――あれは」


 肩にかけられたナギの手に、少し力がこもった。


 馬に乗った人影が、川上からゆらゆらと近づいてくる。色味を抑えた衣を着て、急いでいるふうでもない。だが、馬を持てる人間は限られていた。


 たやすい相手ではなさそうだという警戒と、いかにものんびり歩いてくるようすの不気味さで、ふたりは身を強張らせた。ずいぶん遠くまで来たとはいえ、まだ伊織のものたちをまったく振り切ったというわけではない。


 しかし、


 「高嶋? 」


 目を細め、そちらをじっと窺っていたナギの口から切望するような声がこぼれたのを、あかるこは聞いた。


 石上高嶋は、ナギの親友だ。ふたりにどんな友情があるのかあかるこは知らないが、里とともに振り捨てたものが目の前に現れて、ナギの心がそちらに傾いたのを痛いほど感じた。


 ナギはどうしたものか迷っているらしかった。先んじて高嶋の前へ出てゆくことも、身を潜めようとして動くこともせず、まだこちらに気づいていないらしい高嶋が近づいてくるのをただ見守っていた。


 あかるこはその背を押した。


 「行こう」

 「あかるこ? 」

 「会いたいんでしょう? 」

 「しかし……」


 ナギはそこから本心が漏れるのを恐れるように口元に手をやった。別れを告げる間などなかったのだろうし、暇があったとしても、ナギの性格ならば高嶋に累が及ぶのを案じて挨拶もなしに別れてきたに違いないとあかるこは思った。


 「行こう」


 あかるこが草を分けて進んでいくと、ナギが慌てて追ってきた。ふたりは勢い丈高の草を踏み倒して高嶋の前に出た。高嶋は思いがけないところから思いがけないものたちが飛び出してきたので、馬上で許される限りにぎょっとのけぞった。


 「……大水葵! 葵さま」 

 「高嶋」


 高嶋は呆然としすぎて馬から降りるのも忘れているようだった。上から友人を見下ろしたまま、口ごもって言った。


 「本当に会うとは思わなかったな」


 それからはっとして、


 「何をしているんだ。他に人がいたらどうするつもりだった」

 「考えになかった」


 ナギは友の背を抱擁しそうに見えたが、高嶋が同じ目の高さに降りてこないので少し歩み寄っただけで終わった。


 「君に会いたかったんだ――」

 「そうか……」


 高嶋はようやく馬から降りて、ナギをしげしげと見つめた。よく見れば、弓矢を持っているのだった。


 「おれは狩りをしに出てきたんだ。しばらく休みをもらっているが、衛士たちと一緒に遣わされているからな。伊織には、このところ戻っていない。……おまえたち、まだこんなところにいたのか」

 「毎日前に進んでいるわけではないからな」


 とナギは言った。


 「君こそ、よく供もつけずにこんなところまで来たな」

 「おまえたちが川に沿うているのではないかと言った人がいてな。本当に会えるかどうか、確かめるつもりだった」


 言ってから、高嶋は首を振った。


 「いや、信用の置ける女人の言だ、案ずるな」

 「君は変わらないな」


 ナギは胸に迫ったものがあるようだった。声が潤んだ。


 「何を爺くさいことを……」


 高嶋は少しやけ気味に笑った。


 「ところで、どうやって里を出たんだ? あの晩は里中の衛士が巫女の宮の周りに集められていたんだぞ。こっちは生きた心地もしなかった」

 「手を貸してくださった方がいて――」


 ナギはそこで言葉を切りかけたが、


 「小棘さまが」


 とつけ足した。別れてゆく友にくらい、本当のことを明かしておきたかったのだろうとあかるこは思った。


 「小棘さまが? ……」


 高嶋の眉が何か言いたげに寄った。だが何も言わなかった。


 「双葉のことを知らない? 」


 あかるこは尋ねてみた。小棘のすぐ傍らに仕えている高嶋なら、何か聞いているかもしれないと思ったのだ。


 「双葉? 一緒ではないのですか? 」


 高嶋は首を傾げた。ナギが続けた。


 「伊織の里山の岩屋で別れてきたんだ」

 「伊織にはいないと思うぞ」


 高嶋は考え考え言った。


 「おれが伊織を出てくるときには見かけなかったから、おまえたちを追って里の外に出たのではないかな」

 「そうか」


 そのときあかるこはナギの目に、力が一遍に抜けたような快い安堵が現れるのを見た。里中の岩屋は調べつくされているはずだ。小棘は双葉を助け、そのことを口外しなかったのに違いない。傍らの、高嶋にさえも――そういう目だったが、やはりそれだけではなかった。


 どうやら無事らしいという安堵、しかし行方の分からない不安、……そんな情の中に、抜け切らない憂い。あかるこの瞳に明るみが絶えないように、ナギの目には悩みが絶えないらしい……。


 「双葉はいないのか」


 高嶋は誰に向かって話すふうでもなく、隅に向かって呟いた。


 「なら、もっと用心した方がいいんじゃないか」

 「わたしたちは海へ出る」


 ナギがあかるこの腰を抱き寄せた。


 「最後に会えてよかった」

 「待て! 」


 急に大声を出したので、高嶋の馬が怯えて首を振った。


 高嶋はそんな大声を出しておいて、ぼそぼそと後を続けた。ふたりの方を一度も見なかった。


 「明日、もう一度会えないか。きちんと見送りをしたい」


 高嶋は馬に乗り、早駆けに去って行った。


 あっという間に草地へ消えていく背を見つめながら、ナギはいつまでもあかるこを離さずにいた。

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