別離

第29話

 「あの、あんたさ……」


 双葉は口に出してから、これはまずかったと思った。振り向いたトトリの顔は険しかった。人見知りだというその性からか、双葉が無礼だったからか、それは読めない。


 「巫女さまの衛士殿の弟君、何か」


 トトリがあんまり素気なく言うので、双葉は意地になった。


 「双葉ってんだ。人の名前くらい――」


 これもまずかった。トトリは嫌味なくらいゆったりとした仕草で頷いた。


 「ええ、そうですね。わたしはトトリと申します」


 言いながらこちらを見る姿はやはり凛々しい青年のようだったが、本当は義姉よりも歳の長けた女人なのだと双葉は思った。


 別に女であることを隠そうというわけではないらしく、袖や裾から、男より小さな作りの手足が出ている。初めて見たときどうして気がつかなかったのだろうと双葉は自問した。


 トトリは立ち去らずにこちらを見ている。自分が話すのを待っているのだと、双葉は気がついた。


 「トトリさん。前に伊織の里に、あなたと同じ名前の女の子がいたんだ」


 トトリは何も答えず、続きを促すようにわずかに頷いた。


 「山崩れがあったとき――おれは覚えていないけど――叔父上が東の山の人たちを屋形へ連れてきたんだって。そのときは確かにその子もいたのに……」

 「朝みなが起き出したら、その子だけいなかった」


 トトリが結末を先に口にした。固い声だった。


 「そう、それで――」


 双葉はトトリにまだ話を続ける気持ちがあるか確かめたくて、上目遣いにトトリの顔を窺った。トトリは黙って聞いている。


 「――叔父上は、ずっと心配しているんだ」

 「そうですか」


 トトリは溜め息のように言いざま髪を掻き上げた。


 「あなたになら、話しても構わないでしょう。……確かにわたしは、山崩れのあと行方知れずになった伊織のトトリです」


 男のような姿をして生活しているわりに、トトリは素性をあっさりと告白した。嘘は嫌いだと、目が言っていた。


 「黙って出ていったことは、申し訳なく思っております。巫女さまや山辺彦さまに、一言でもお礼を申し上げたかった。長いこと悔いていました」

 「あの……」


 尋ねてもよいことかどうか、双葉は迷った。


 「どうして伊織を出てきたんですか」


 果たして、トトリは口を噤んだ。だがそれは束の間のことで、話してしまおうと覚悟を決めたらしく、また口を開いた。


 「山へ戻るのが恐ろしかったのです」

 「東の山へ? そりゃあ、また崩れるかも分からないけど……」


 双葉は押し黙った。思いがけないことに、トトリが笑ったのだ。


 「それだけの理由ならどんなによかったか」


 トトリの目がふいに遠くを見つめた。


 「わたしはにえに出されるところだったのです。地祇の怒りのために」

 「……贄? 捧げものにされそうになったってこと? 」

 「そう。あの山には、葵さまから数えて五代前に巫女をしていた人が住んでいました。わたしは小さな時分から父も母もなく、その人に引き取られました。一度は巫女王にもなったものが、里人を放っておけるものかと」

 「巫女をしていた人……」


 双葉は東の山の住人を覚えている限り思い浮かべたが、当てはまるような女人はいないように思えた。


 「義姉上と、ヤエナミさまと、そのもうふたり前だから、もう結構な歳のはずだろう」

 「ええ。わたしが引き取られたとき、わたしより小さな孫娘がいましたよ。知りませんか、千曲という人を」

 「ああ……」


 双葉は頷いたが、はっきりした姿が浮かんだわけではない。人を悪く言うことのない兄が珍しく苦手らしい相手なので、それだけの興味に尽きる。


 込み入ったわけがあると見えて、トトリの話はさっぱり先が掴めなかった。双葉はせっかちに尋ねた。


 「その巫女さまがどうかしたのか? 」

 「五代前の巫女――ハヤメという人でしたが、巫女をおやめになってからも占いをしたり草を煎じたりすることの多い人でした。根っからの巫女だったのでしょうね。そこまではよかったのですが、あるときから東の山のドクダミをどちらの宮にも届けなくなったのです。道を塞ぎ、自分を通さない限り誰の手にも渡らないようにしてしまった」

 「どうしてそんなことを」

 「さあ、分かりません。でも、薬草は大切な品です。それで巫女の宮から注意を受けたとき、ハヤメさまはあろうことか、巫女宮と伊織の神を呪いはじめた。それが神の怒りを買ったのです。巫女さまが宮にいらっしゃればそんなことにはならなかったかも知れませんが、ヤエナミさまが亡くなり、次の巫女が現れるのを待っているというときでしたからね」

 「そんな」


 双葉は不信心ではなかった。よりによって、神にもっとも近しいはずの巫女が神を呪ったということの、言い知れぬ薄暗さにぞっとした。


 トトリは身をすくめた双葉をじっと見ていた。


 「伊織としてひとつになる前、あの辺りにはいくつかムラが集まっていたそうです。山辺のムラ、川辺のムラ……そのうちのひとつが東の山にもありましてね。ハヤメさまの一族は代々、そのムラで巫女をしてきたのだといいます。伊織で祀られている神とは、違う神がいたのでしょうから」

 「それじゃあ、自分の本当の神さまじゃないから呪ったってことかよ。山の草のために」


 巫女さまだったくせに、と双葉が呟くと、トトリは目を光らせた。


 「薬草はときに人の命に繋がるものであるはず。軽んじてよいものではありません。――とはいえ、あなたになら分かるのではありませんか。ハヤメさまの気持ちが」

 「どうして? 」

 「帰れぬもののために忠心を捨てず、新たに受け入れるべきを拒む。晴山さまを敬わない、あなたと同じ」


 双葉は息を飲んだ。トトリは構わずに続けた。


 「忠実であることは悪いことではありません。しかしハヤメさまの過ちのために空は荒れ、大雨が降りだした。いえ、見方を変えると、あの晩の空こそハヤメさまの心模様そのものだったとも言えます。いずれにせよ、ハヤメさまはみずから災いを呼び込んだのです」


 恐ろしい晩でした、とトトリは呟いた。


 「ハヤメさまはそうなってようやく身の程を過ぎた過ちを悟り、里の神に許しを請うたのです。でも、それではもう遅かった」


 真っ黒の雲で、宵空は星ひとつ見えない。時折その隙を縫うように白い雷が走り、東の集落へ落ちては岩を砕く。木を焼く。小さな小屋は今にも嵐で飛びそうだ。けれど、中にいる人間を弄ぶかのように、雷はたやすくそこを撃ちはしない。


 老婆は髪を振り乱して天を仰ぎ、手を擦り合わせるが、それが通じないと分かると隅に縮こまっていたふたりの子のうちのひとりを鬼のような形相で引っ掴んだ。


 それがトトリだった。


 身の危険を悟り、泣いて嫌がるトトリを、養い親が押さえつけようとする。それでも逃げ出そうとする背を、普段からは考えもつかない力で千曲が突き飛ばした。……


 「ハヤメさまが、どうしてわたしを養ってくださったかは分かりません。里人を放っておけないというのも、嘘かもしれない。刀子を振り上げられたあと、どうやって逃げ出したかは覚えていません。気がついたら山辺彦さまの馬に乗せられ、屋形へ入れられていまました。あの小屋は外から見えにくいところにありましたから、助けていただいたのはわたしが最後のようでした。けれどわたしは、あのふたりがただ死ぬはずはないと思いました。山へ帰るのが恐ろしく、その夜里を抜け出し、さまよい歩いているところを晴山さまに拾っていただいたのです」


 だんだんと人のことを語るような口ぶりになっていく。声が淡いのだと双葉は思った。


 トトリは虚ろな目で双葉を見た。多分それは、晴山に拾われたときのトトリのまなざしと同じであったろうと思われた。


 「千曲は生きているのでしょう? 」

 「……ああ。山崩れのとき、あの小屋だけ土をかぶらなかったらしい。でもその、ハヤメさんは行方が分からなくて……」


 ようやく解けたトトリの謎と、東の山にまつわる兄たちの不幸を思い、双葉は言葉少なになっている自分を感じた。


 「東の山のドクダミの畑には、ついこの間まで祟りがあったんだ」

 「祟り? 」


 トトリが顔を上げた。


 「薬草が生えているのに、蛇やなんかのせいで誰も入れなくてさ。義姉上が呼ばれていって、祓いをしたらしいんだ。だけどそのとき何人も人死にが出て」


 思えばあの祓いを境に、義姉と兄は噂の渦中に引きずり込まれていったように思う。偶然をウカミがうまく利用しただけにせよ、双葉とて何かのせいにしなければやりきれなかった。


 「ふたりとも、いつの間にかみんなから背かれるようになっちまってさ。……ハヤメさんも、もしかしたらその祟りでおかしくなっちまったんじゃ……」

 「どんな祟りでした? 姿は? 」

 「姿? 」


 トトリがあまり熱心なようすを見せたので、双葉はたじろいだ。


 「さあ、おれ、一緒にいたわけじゃないから――。兄上は、白い蛇だったって」

 「千曲はハヤメさまの力を継いでいます」


 トトリはまた、不思議な繋げ方で話を続けた。だが今度は、双葉に急かす暇はなかった。


 「巫女なのです。人の身を超えた力を持っている。……そう、ハヤメさまが本当に心を尽くしていたムラの神は、蛇の姿をしていたそうですよ。血も通っていないような、真っ白のね。人から忘れられ、呪うことに慣れすぎた魂を神と呼べるかは分かりませんが――」


 わたし、好きな方がいるの。


 まだふたりの娘のひとりとして、ひとつの小屋に住んでいたころ。千曲は肉の薄い、痩せっぽちの指を唇に当てながら、トトリに囁いた。


 転んで膝を擦りむいたとき、聞いてくださったの。痛いか、って……。痛くはございませんと答えたわ。そうしたら、そなたは泣かないで立派だっておっしゃったの。


 彼は、彼が恋うる娘の真似をしたのだとは気がつきもしないで、千曲は釘を刺した。


 わたしが好きなのよ、あとから好きになったりしないでよ。きっとよ。でも、誰があの方を好きだって、負けやしないわ。


 一番に兄水葵さまを好きなのは、わたしだもの。

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