第27話

 晴山の里は、伊織よりも狭かった。


 本当は伊織よりも賑わっていて、道に市が立ち、人が満ちている。そのせいで狭く見えるというだけで、土地は伊織よりもずっと広いのだろう、と双葉はぶすくれた。


 「どうだ」


 晴山は肩に乗せた鹿を揺すり上げて、双葉に言った。


 「大きかろうが」

 「どうして誰もあんたに挨拶しないんだ? 」


 魚を売っている男子も布を売っている女人も、道で遊んでいる童たちも、晴山の姿を認めても額づくものはひとりもない。朗らかに頭を下げるのがせいぜいだ。それだって、双葉にはちょっと頭を傾けたのと変わらなく見えた。


 晴山は狩人のような泥だらけの衣を誇って胸を張った。


 「わたしは今、王の格好をしていないからさ。そのようにしてくれと言ってある。王も昔々は、民のひとりだったはずなのだ。民という言い方もなかった頃はな……。少し出歩いたぐらいで頭を下げられるのは性に合わん」

 「いい里だな」


 と双葉は認めた。


 「だろう? 」


 晴山の髭面がいかにも嬉しそうに寄ってきた。双葉は腕を振り上げて晴山を追い払った。


 「道が整っているっていうだけさ。そこを褒めたんだ」


 晴山の宮は壮大だった。木造の屋形が連なっているのは伊織も同じだが、最奥の屋形の屋根を葺いている、きらきら光る青い板が双葉の目を釘付けにした。


 「なんだあれ」


 双葉は思わず立ち止まり、そばを通った女官たちに笑われた。王宮の広い庭を見知らぬ顔が王とともに歩いているというので、宮の内で騒ぎになっているのである。もっと目を引くであろうヒノクマたちや他の衛士たちはひそかに伊織へ戻っていて、山辺彦とふたり晴山の後に従う双葉は、若い上に仕草が素直でなおのこと目立った。


 「珍しい技じゃ。美しいのう」


 山辺彦が褒めた。晴山は分かるか、と頷いた。


 「この間里に来たものが、妙な風体の男でな。どこのものかと聞くと、あれで家を葺いているところから来たという。瓦というらしいよ。東の海まで行くつもりだと言っていた」

 「魚の鱗みたいだ」


 双葉としては、けなしどころのあまりない物珍しい技に精一杯の憎まれ口を叩いたつもりだった。


 晴山は気を悪くするどこらか、かえって機嫌をよくした。


 「わたしもそう思うぞ。あの男、海の神の使いだったのやもしれぬ。屋根をみんなあれで葺いたら、瑠璃の里になるのう。なあ双葉、竜宮のようだと思わぬか」


 双葉は晴山をまじまじと見た。


 晴山は、大武棘のやっと半分の齢というくらいの若い王だ。若いといっても王だから、道中幾度も厳かな顔を見てきた。おどけた顔は偽りではないが、すべてではない。


 その晴山が、知らない国の話をするとき兄ほどにも若やいで見えたので驚いたのである。


 だが大水葵とは重ならない……双葉は兄のことを遠く考えた。年相応に見えることの少ない兄だった。


 弟にさえ、望みを悟らせない兄だった。これがいいという希望からこれでは嫌だという不満まで、あらゆる望みを心へひそかに浮かべ、滅多なことでは口外しないのだ。それで、歳が長けて見えることもあった。


 そんな遠慮がちな兄が人並み以上に執心したのが、義姉のことだった。


 止める間もなく燃えさかる火の宮へ飛び込んでいった背には、誰の声も届いていなかったろうと思う。あの日、衛士たちの列を抜け、北の山で落ち延びてくるはずのふたりを待つ間に、双葉はおよそ若者らしくない、少し熱の欠けがちな兄を思っていた。


 あの人も、やはり人間なのだと思った。人より情が細やかだから、見えにくかっただけなのだ。


 義姉はそれを分かっていた。ろくに寄り添ってもいないくせに不仲と見えなかったのはそれが理由だ。


 だからあの岩屋で、この期に及んで弟を案じる兄を怒鳴りつけたのだ。


 海は広いぞ、と晴山は笑った。このとき双葉はふと、兄が義姉を導いていくとすれば、海を目指すのではないかと思った。


 「おおきみ、お戻りですか」


 宮の階から降りてきた青年が、晴山の足元で叩頭した。双葉の見た限り、初めて晴山は王と呼ばれたのだった。


 晴山はおうと答えたが、双葉と山辺彦に向かってこっそりと肩をすくめた。宮を空けるとうるさいと晴山がぼやいたのは、どうやらこの人のことらしいと双葉は思った。


 青年は王の後ろに突っ立っている双葉と山辺彦を見て、実に分かりにくかったが、かすかに眉を寄せた。


 「巫女さまと衛士殿を探しに行かれたのでは? 」

 「うん、まあ、事は必ずしも思った通りには運ばぬよ。彼らは巫女王の叔父上と、衛士殿の弟君だ」


 よろしく頼む、というところまでふたりの代わりに言って、晴山は頭を掻いた。


 「山辺彦殿、双葉、これなるはトトリ。我が里の衛士頭だ」

 「トトリ? 」


 山辺彦が聞き返した。


 トトリは眉を上げたが、特に何も言わなかった。


 「宴の仕度が済んでおります。王と、おふたりも、どうぞ宮へ」

 「鹿の肉も今からさばくよう、厨のものに頼んでくれ」


 晴山が言った。トトリは頷き、鹿を受け取ろうとしたが、晴山は穏やかな声音で拒んだ。


 「よいよい、届けにゆく。そなたには少し重いぞ」

 「トトリか……」


 厨へ向かう背を見送りながら、山辺彦が呟いた。叔父がしきりとトトリを気にするので、双葉は後ろ姿から何か探れるところはあるまいかと気を張った。


 「別にどこも変わったふうには見えませんが……」

 「いや、なに。昔トトリという娘が東の山に住んでいてな。山崩れのあったあとから姿が見えなくなってしもうて」

 「なに。例の、巫女殿が夢に見た山崩れか? 」


 晴山が覗き込んだ。ふたりより体が大きいので、少しかがんでやっとうまく話が通じるのだった。


 晴山はふうん、とトトリの去った方を見た。


 「あのトトリがこの里へ来たのが、ちょうどその頃だよ。まだ小さな娘だった。だがな、どこから来たのか、どうして来たのか、尋ねても答えてくれなかった。今もだ」

 「あの人、女なのか」


 双葉はひとりごちた。確かに、衛士のような姿をしてはいたが、随分まろやかな頬をしていた。


 小声で呟くに留めたのは、青年のような装いに惑わされて判断を誤ったことなど恥ずべきことだからだ。


 「わたしはまだ王子だったのだが、狩りに出た帰りにあれを拾ったのだ。まあ、行くあてがないのならと思って何となくそばに置いていたら、いつの間にかその辺の男子では太剣打ちできないような女人になってなあ」


 やれやれと晴山が言うその声は、あまり困っているとも思えなかった。


 「おまえたちの里にいたトトリという娘のことは、わたしには分からん。関わりがあると思うなら好きに聞いてみるがいい。ただ……」


 晴山はこれは伏せろよ、と前置きしておいてから言った。


 「伊織の巫女王を里に迎えたいと話したとき、トトリは反対しなかったよ。その類の話でトトリが反対しないというのは、大賛成ということなのだ。あの娘は人の好き嫌いがはっきりしている上に、ひどい人見知りでな。珍しいこともあるものだと思ったが」

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