第18話
巫女媛、と呼ぶ声がした。
ほの暗く、ほの明るい、そのどちらでもない、緩やかな場所に、心だけが漂っている。
これは夢だ、と葵は悟った。夢で人々の行く末を受け取るとき、葵は決まってまずここへ流れてくるのだった。
伊織の里の神がそこにいる。
「巫女媛、そこにおるか」
また、伊織の神が呼んだ。葵はひそかに、この神のことをオオタマと呼んでいた。
「はい、オオタマさま」
「そなた、里を出るのだね」
オオタマの神は咎め立てするでもなく、噂話を確かめるような調子で言った。
「ということは、わたしの妻をやめるというのだな」
言葉尻に、明らかにほほえみが滲んでいる。オオタマは目に見えない指先で葵の頬を撫でた。それで、そこに頬があるのだと分かった。
「女神に妻をよこすとは、人の考えることは分からぬよ」
「みなは女神さまとは知りませんもの」
いつからだったか、女王は神の妻と言われるようになったのだという。男王の対とされていながら、他の里と交わりを持つうちにそうして変わっていった。オオタマにはそれが、おかしくてたまらないらしい。
「人の命は、いずれ現世を去ってゆくものな。元々はわたしに仕える采女というのが巫女の役目だったのだが……。百年も経てば、はじめのことなど本当は何も分かりはしないのさ。そなたが里を出てゆくことも、わたしは止めはしない。そなたも器を持っている以上神ではないから、ひとところに留まることはできないのだろうよ」
「里はこれからどうなりましょうか」
葵が聞くと、オオタマは鼻を鳴らした。
「ふん、あの男王は……。ああ、そなたの歌がなくなるのが惜しいことだよ。そなたはドクダミの祟りも解いてやったろう。まったく、人の考えることは分からぬよ……」
「あのドクダミの土地にあったのは、何の祟りだったのでしょう? 」
「人間の女さ。あの土に染み込んだ祟りはそなたが祓ったが、祟りの根はまだ生きている。知らせてやりたいことはいろいろとあるが、そなたのさだめはそなたが見出さねばならない。わたしの力の及ばぬことだ」
オオタマの声は波のように寄せたり引いたりしながら、少しずつ遠ざかっていった。
「この晩だけは守ってやろう。そなたと、そなたの衛士を」
――それからどのくらい経ったのだろう。
夢の中に葵の体はなく、やはりただ心だけが浮かんでいるようだった。空の星と森の木が一度に見え、世界はすごい速さで葵の後ろへ消えていく。時が動いているのだ。
地の果ては丸く、やがて白々とした光が差しはじめた。……
「葵さま」
名を呼ばれ、ぐらぐらと揺すられた。夜の明けはじめた、光り輝く世界は端から崩れ去った。
「葵さま」
ナギが呼んでいる。葵は飛び起きたが、差してくる陽の眩しさにすぐ目を細めた。現は夢よりも、ずっと明るかったのだ。
ナギは葵の肩に手をかけ、真っ青になって覗いていた。西の山を抜けて、平野へ抜ける少し手前の小さな岩屋の中だ。そうだ、昨晩はここで、休みましょうとナギが言ったのだった。
葵が寄りかかっていた岩肌から背を離すと、ナギは恐る恐るといったふうに手をどけた。
「もう朝? 」
「もうすぐ昼です。よくお休みでしたね。もうこのまま――」
ナギはゆったりと瞬きしながら、葵を見つめた。
「起きてくださらないかと――」
「里の神とお会いしていたの」
「里の神……」
ナギは居ずまいを正した。傍から見れば巫女を盗み出してきたも同然の自分に、どんな裁きが下ったのかと腹を括ったらしい顔だった。
「妻をやめるということだな、と言われたの」
「里を出るということは? 」
「そう……知らせたいことはいろいろあるけど、さだめは自分で見出すものだからって……人間のさだめには力が及ばないって」
「そうですか――」
葵は顔を上げた。ナギの声は、意外なほど明るかった。
「それなら、わたしが妻に迎えてもよいということですね」
「えっ? 」
「わたしたちが見出したさだめに力が及ばないということは、どんな道を選んでも祟りを与えることはできないということではありませんか」
そのときのナギのまなざしを、何と言って表せばいいのか分からない。喜びが目の奥底から湧いて出てくる一方で、眉の辺りの覚悟は悲壮だった。
「葵さま、伊織の神が問われたのは、わたしの覚悟ではありますまいか」
「ナギの? 」
「そうです。地祇はやはり、人を見ておられる――片恋を叶えたければ、守り通す覚悟をせよと言っておられるのでしょう。祟りなどなさぬから、自分の意気地のなさを何かのせいにするなと……こんなことにならなければ、あなたに告げられなかったでしょうから」
ナギは葵に向けたまなざしをほんの少しも動かさなかった。ナギにとっては、告げることを諦めていた言葉だった。
「わたしの妻になってくださいませんか」
「……うん……」
頭の芯が痺れた。恋うるというのは、こういう気持ちなのだと――。
「あかるこ」
ナギの声が呼ぶ、その名の美しさが、抱きしめられた胸を高く鳴らした。
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