第2話

 葵は、奔放に山へ入っていく自分のことで初音が叔父に泣きついているのを知っていた。だから、叔父が夫を、とすすめてきたとき、ずいぶん思い切ったことを考えたものだと思った。叔父は機転が利く。ただやめろと言うだけでは葵が従わないことくらい見抜いているし、葵が何を思って宮を抜け出すのかもきっと分かっているはずだ。


 初音の顔を見る限り、叔父が本気かどうかは五分と五分だが、葵に話を持ちかけてそれが通った今、やはりこの話はなかったことに、と取り下げるような浅はかな叔父ではない。ということは、本気で葵に誰かを添わせようとしているに違いない。


 まさか、巫女として務めを果たすにはふさわしくないから、適当に夫をあてがって宮から追い出そうというのでもないだろう。巫女でいるために巫女のしきたりを破るというのは妙な気もしたが、あの叔父のことだ。何の考えもなしにこんな話を持ち出してくるはずがない。


 「本当に、これと一緒になりたいという男子はいないのだな」


 日を置いて訪ねてきた山辺彦は、臣下からただの叔父に戻って葵に尋ねた。初音に睨まれ、舌を出す。


 葵が頷くと、山辺彦は表に向かって呼んだ。


 「大水葵朗子おおなぎのいらつこ、上がりなさい」

 「――失礼いたします」


 外で涼やかな音がした。宮の階を上がるごとに、足結あゆいの鈴が鳴っている。山辺彦は、来るぞ、と息だけで葵に笑いかけた。


 大水葵朗子は戸口で片膝をついて叩頭した。身なりからして、衛士のようだ。下げのみずらに、宮の庭木の白い花びらがくっついている。長いこと、外で待っていたのだろう。少しでも動いたら無礼にあたるとでも思っているみたいに、朗子は姿勢を崩さなかった。


 誰でもいいと思っていたのが嘘のように、葵は朗子を見つめた。大水葵朗子、という名に覚えはなかった。相手が顔を伏せているので、もどかしくてならない。


 山辺彦が朗子の傍らへゆき、顔を上げるように促した。


 「媛さま、これなるは大水葵朗子。我らがお選びしました、あなたの夫でございます」


 衛士たちの長である山辺彦が連れてくる男といえば、いかにも武人という厳めしい青年ばかりを思い描いていた葵は、朗子の顔立ちに面食らった。朗子は顔をなかなか上げなかったくせに、葵の目を見つめるのをためらいはしなかった。


 彼は美しかった。


 伊織の里では、伊織の神の依り代として、宮の裏の山に大きな楠の木を祀っている。山辺彦と初音、選ばれた采女たちだけが立ち会い、葵は大水葵とふたり、鏡をかけられた大楠に向かって叩頭した。大楠から返事はなかったが、玉飾りのひとつがふいにちりんと音を立てたのが葵の耳に聞こえた。そして、実にあっさりと、大水葵は葵の夫になった。


 「宮をお出でになるときは、必ずお連れくださいましね」


 と初音が念を押した。


 「媛さまが巫女でいらっしゃる間は、神の妻としての務めを間違いなく果たしていただきたく存じます」


 葵は初音を見返した。初音は大水葵に向かって言った。


 「間違いのないように。よろしいですね」

 「はい、初音さま。……心得ております」


葵は大水葵を見た。大水葵は葵が見る前にすでに葵を見ていたようで、生真面目で物静かな瞳とかちあった。目を逸らしたのは、葵が先だった。大水葵の目が、あまりに迷いのないものだったから。



 その日から、初音は葵が宮の外へ出ていくのを咎めなくなった。大水葵がそばについているからだ。大水葵は朝早く巫女宮へやって来て葵や初音たちに挨拶し、そのまま葵のいる部屋の端に黙って控えている。葵が外へ行くと言わなければ時折衛士の修練に出かけていき、戻ってきて、夕方までは巫女宮にいる。そして、夜には里にある屋形に帰るのだ。


 初音は、葵の夫になったものへの見返りは巫女宮へ上がるのを許されたことだけで十分だとでも言わんばかりの態度で、大水葵が文句ひとつ言わないのを特に不思議とも思っていないようだったが、葵は訳が分からなかった。大水葵は、一体何が楽しくてこんな役目を引き受けたのだろう? 衛士とは、みなこんなに辛抱強いのだろうか? 山辺彦が大水葵を選んだのは、彼がこういう役目を苦に思わない青年だったからだろうか? それとも、もっと簡単で、葵は知らないが素晴らしい報酬が出ているとか? だが、そんなふうには思えなかった。


 噂好きな采女たちによると、大水葵は衛士たちの中でもことに腕の立つ若者だが、なにしろその清廉な人柄によって評判だということだった。誰に対しても誠実で、決して無下にしたりはしないが、どんなに言い寄っても彼に恋させることのできた娘は今までにひとりもいないらしい。生涯ひとり身で、剣とともに生きてゆくのではないか、などと言われていたとか――だから、妻に迎えるのが任に就いている巫女でも何の問題もないのではないか、と。


 だからといって、形だけの夫になれとは随分勝手な話ではないか。妹背いもせになった日、初音が釘を刺したのはそういうことだ。巫女王の夫になる以上、他の男子のように別に妻を持つこともできないだろう。屋形のひとつくらい、与えられるかもしれないが。


 今度の縁談で、大水葵は果たして何を得ようと思ったのだろうか。


 「今日はどちらへ行かれます、媛さま」


 葵が宮を出ると、大水葵は嫌な顔ひとつせず従ってきて、柔和に尋ねた。初音の目の前を通ったが、彼女は何も言わず、お気をつけて、と頭を下げただけだった。最初こそ初音の変わりように驚き、かえって外出を控えるようにしたくらいだったが、葵が宮を出ないと大水葵もそれに従わなければならないことに気がついてからは、葵も黙って見送られるようになったのだった。


 「……今日は、川へ行こうかな」

 「夢で何かご覧になったのですか? 」

 「ううん。――別に、そういうわけじゃないけど……」


 葵は口ごもった。用もないのに、と咎められるかもしれないと思った。


 大水葵はほほえんだ。


 「今の時分は草木の色も冴えて、流れがいっそう清らかで美しゅうございますね」

 「うん、それに、蒲を取りたいの。……あの、少しでいいから」


 大水葵が何を思っているのか、さっぱり分からない。葵は、思いがけず川の美しさを語られてもうまく言葉を返せなかった。人と話すのは、こんなに気の張ることだっただろうか? 自分の受け答えが不愛想で、風情も何もないことだけは分かった。


 大水葵はお任せください、と頷いた。


 「山ほど生えているところがございます、ご案内いたしましょう。媛さまの方がよくご存知かもしれませんが」


 そして、自分は媛さまなどと呼ぶくせに、葵に言った。


 「わたしのことは、どうぞただナギとお呼びください。あなたに大水葵と呼ばれるのは、少し寂しい」

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