あかるたま

ユーレカ書房

恋初め

第1話

 伊織の里の巫女王みこのおうきみ・葵には、大臣おとど采女うねめたちが頭を抱えてしかるべき悪癖があった。男王と違って巫女王は血筋で決まるわけではなかったから、庶民上がりの娘たちを神の妻に磨き上げるために代々の采女たちはみなそれなりに骨を折るのだが、葵は元の振る舞いが他の娘より優れていたためにかえってたちが悪かった。


 「またお山へ入られたのですか? 」


 采女たちの長官を務める初音は、夕暮れ近くになってひょっこり宮へ帰ってきた葵をふくよかな声音で咎めた。慌てて後を追っていったものの、こんな時分まで主を止められなかった采女たちがうなだれている。


 葵は籐の籠を差し出した。若い草が詰まっている。どれもみな、傷薬になる草だった。初音は籠いっぱいの収穫を見ても、渋い顔を崩さなかった。


 「ああ、またこんなに手に傷をお作りになって……」

 「だって、夢に見たの――この間の雨のあと、夏のはじめの力のある草がたくさん生えてるところ」

 「ひめさまの夢見のお力は、それは得がたいものではございますが」


 初音はしぶしぶといったふうに認めながらも、苦い顔を崩さなかった。


 「その草を採りにいらっしゃることまで、ご自分でなさる必要がどこにあります」

 「口で説明しただけじゃ、分からない場所だったんだもの。ね? 」

 「はい、本当に。まさかあのような獣道に――」

 「獣道! 」


 葵についていた采女たちは葵につられてしまい、初音に睨まれて肩をすくめた。初音のがみがみ言う声に巫女宮の衛士たちが一体何事かとすっ飛んできたが、肝心の葵にはあまり堪えているふうではなかった。なにしろ、いつものことなのだ。


 「媛さまには困ったものです」


 初音は頬を膨らませて訴えた。これもまた毎度のことである。里の行く末、また葵の身を案じるあまり、最近ではしまいに涙の入りはじめるのが常だった。


 いつもなら


 「本当に困ったのう」


 と適当に相槌を打って初音の相手をしてやり、嵐を丸く収めることにしている衛士頭の山辺彦やまのべひこも、さすがにこれは放っておけぬ、と重い腰を上げざるを得なくなった。葵は、山辺彦のたったひとりの肉親だ。今は山辺彦の方が従者という立場ではあるが、可愛い姪であることは変わらない。


 葵は王だが、強いてその立場を守ろうとはしていないのだ。山へ入るのもみずからの目で選り分けた薬草を里のもののためにと採ってくるのだし、何より、窮屈なところで一日中しとやかな顔をしているような取り澄ました娘ではないことをよく知っているからこそ初音を陰で宥める役目も買って出ていたものの、山辺彦としても葵を案じる気持ちがないわけではなかった――王でなかったとしても同じだ。いくらなんでも、非力な娘が山奥の獣道へ平気で踏み込んでいくのは感心しない。それに、葵が来いと言っているわけでないにせよ、つきあわざるを得ない采女たちが不憫ではないか。彼女らは、葵と同じように初音の雷を受け流すわけにはいかないのだから。


 だから、今度ばかりはこう言うしかなかった。


 「そなたには苦労ばかりかけるなあ。こうなったら、わたしが何とか……」

 「そんなことを言って」


 と、初音はじとりと山辺彦を睨んだ。


 「山辺彦殿が、媛さまをお叱りになれるはずがございません」

 「まだどうするとは言っておらん。第一、媛を叱ったところで何も変わるまい。あの子は、徒人ただびとには見えぬものを見ることができるのだから……本当に、危ういところではないと分かって出かけているのやもしれんし」

 「ならば、何のための衛士です! 媛さまが夢見で先にご覧になったからといって里の外へひとりで出ていかれたら、あなたは黙って見送るおつもりなの? 」

 「とてもそんな気にはならんな……媛を信じていないわけではないが……」


 初音の言うとおりだ。山辺彦は人を叱るのは大の苦手だ。ひょうきんなことにならいくらでも舌が動くのに、そのせいで、いざ腰を据えて真面目な話をしようとするとこれがまったく似合わない。


 だがその代わりに、人より機転が利いた。


 叔父が訪ねてきたと聞いて巫女の宮の座に現れた葵は、采女たちを連れまわして山を歩き回っているのと同じ娘とは思えない身のこなしで山辺彦と向かい合った。だからこの娘は厄介なのだ、と山辺彦は自分の胸に呟いた。


 初音が葵の座の脇で叩頭こうとうしたので、山辺彦もそれに倣った。叔父が姪に対して臣下の礼を崩さないことは、本当のところ本人たちにとってはこの上なく馬鹿らしかった。巫女然と、頷いてふたりに応えた葵の口元は、吹き出すのをこらえようとしているように見えた。葵は領巾ひれで品よく口を覆った。


 「山辺彦殿、に何ぞ申されたいことのあるとか」


 山辺彦は再び叩頭した。


 「媛さまに、つまを迎えていただきとうございます」

 「なに……」


 さすがに考えになかったのだろう、葵は呟いたきり沈黙した。巫女に選ばれた娘は、任を解かれるまで人間の男とは結ばれないのがしきたりだ。采女たちでさえ、宮を抜け出して誰かと逢い引きし、それが表沙汰になろうものなら、即刻家へ戻されることになっていた。


 「誰? 」


 思わず口をついて出たような、うつけた一言に、山辺彦は姪の動揺を見て取った。葵は歌垣に出かけたこともない。それがいきなり夫とは! それまで見ていたものとは、あまりに遠い世界のことだったに違いなかった。


 しかし、不意をついて混乱させるくらいのことをしなければ、この媛を動かすことはできない。


 「どんな男子がようございますか」


 山辺彦が聞くと、隣で初音は何とも言えない顔をした。あらかじめ申し合わせていたとはいえ、やはり無垢であるべき巫女に向かって問うことではない。


 葵は黒い瞳をじっと叔父に向けて、真意を測ろうとしているようだった。それとも、自分が唯一身の回りに置いている男として山辺彦を見ているのかもしれない。


 葵は父の顔も母の顔も知らない。母のヤエナミは先代の巫女を務めた気高い女だったが、葵を産んで間もなく死んでしまった。体の弱いひとだった。


 葵の父はヤエナミが巫女をしていた頃巫女宮に仕えていた衛士で、弟の山辺彦よりもよほどごつく、髭面の熊のような大男だった。早くに妻を亡くし、首も座っていない小さな娘を無骨な手で懸命に育てようとしていたが、流行り病であっけなく世を去った。幼い葵ひとり無事だったのは、もしかしたら兄の執念が守ったのかもしれないと、山辺彦は思う。


 「我は山辺彦殿と、初音を信じています。我が夫を迎える方がよいと思うたのなら、ふさわしい男子をすでに幾人か決めてあるのでしょう? 夢には何も見ませんでしたから、神に背くことではないのでしょう。……寿ぐほどではないということでもあるかもしれませんが」


 葵はそう言って沈黙した。山辺彦と初音は深く頭を垂れた。


 突拍子もない叔父の申し出による動揺はすでに落ち着いてしまったのか、それとも内心はとんでもないことになったと焦りでもしているのだろうか。巫女の座に座っているときの葵は、心中を誰にも悟らせない。あるいは、こんなことになった以上は叔父が連れてくる相手を信じるしかないと思っているのかもしれない。葵は、みずからの生きる世界の狭さを知っている。だから、宮にじっとしていないのだ。いやいや、またあるいは、叔父が本気だとは思っていないのではないか。聞き分けのよいふりをして頷けば、初音や山辺彦がうろたえると踏んでいたのではないか。


 だがしかし、葵がそう思っているとしたらそれは誤算というものだ。葵はすでに夫にふさわしいもののあてが何人かあるのだろうとはったりじみたことを言ったが、山辺彦はとうに、これというひとりを決めてあったのだから。

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