愛沢恋と大城学

日々気温が反比例のように下がり続ける中、ぼんやりと目に見えない雪を幻視していた。

相も変わらず9時48分の電車に――

何時もの居場所にほど近い、ふと曇るガラスに手を当てて。


「おはよん。恋きゅん」

突如降って湧いてきた、姉と同じ呼び方で親しみを込めて呼んできたその声の主に全く気が付かなかった。


心を薄暗く掴み取るような凍えに、思考を奪われすぎていて――

伺うように僕の顔を覗き込む、同じ京都大学に通う同年の院生である大城学おおしろまなぶ

前髪には人目を引く、赤褐色の艶やかなメッシュの入った自由奔放を地で行きそうな風体に似合わず、根は真面目な熱い男だ。


「恋?どした、大丈夫か?」


おちゃらけた雰囲気から一転。

少し近かった距離を、パーソナルスペースを空けるように1歩引いてから、今1度こちらを伺うよう覗き込んできた。


「うん、大丈夫だよ。おはよう」

努めて冷静に、鬱屈な気持ちを排斥して絞り出した声に違和感は無かっただろうか。

僕は彼に気を使わせてはいないだろうか。


「ほんとに大丈夫か?元気出せよ。な?」

仄かに誤魔化した僕の声色は違和感を取り除くには下手すぎたみたいだ。

ほら、これでも飲めよと彼は言い、どこから取りだしたか分からない絶妙に生ぬるい、人気メーカーの新作いちごオレを差し出してきた、学のこの気遣いが、僕の心を柔らかく解した。


優しさが少しだけ染み渡り、生ぬるいいちごオレと同じ温度で心が温く絆されていく。


「相変わらずいちごオレ好きだね、僕には甘くてしんどいや。」

喉を通る人工甘味料が、辛い心に中和した。

「おいおい、疲れた心にいちごオレ。これ常識だろ?」

お互いふふっと笑いながら、数駅のあいだの談笑で、つかの間の心の休息を楽しんだ。


慣れ親しみつつも廃れた寂しいこの止まった時間に、僕ら学生しか降りる人が居ないようなそんなどこにでもある駅を出る。


大学を目指し歩くさなか、波紋が今にも立ちそうな薄氷を貼った水溜まりに気を取られ、突然立ち止まる学に気が付くことは無かった。

ふと目をやると。

「あれ?学.......?」

振り返って彼の様子を伺ったが、少しうつむき物憂げな顔をしていた彼に、届けるはずの言葉を続けることが出来ない。


「俺さ、前を向こうと思うんだ。大切な人を失うかもしれないって気づいてしまった俺らだけどさ」

突如とした宣言に思考が止まる。

間を空けて先程の僕の心情を読み取った上での発言なのだと理解した。

︎︎ ︎︎ ︎︎気づいてしまった"︎︎俺ら︎︎"︎︎

彼もまた、僕と同じように大切な家族を、

両親を――

――硬化症で失いかけている。

僕と学。

2人ともたまたま微生物学、延いてはウィルスを専攻していたことも奏して戮力協心しているのだ。

誰もまだ見ぬ解決策を――。

誰もが手にする特効薬を――。

思考が逸れた僕を気にした様子もなく彼は続けた。

「絶対救おうな、俺とお前で。いやゼミのみんなでさ!」

ゼミのみんなと言ったって、僕と君と教授しかいないのに。

先程までの陰を帯びた表情が、表上が、氷上のように危うい薄さで、まるで嘘かのように微笑んだ。


僕は学になんて言葉を返したのか、返せたのか覚えてなんていなかった。

初雪のように純粋な想いだったかも知れなくて、真夏のモンスーンのように的外れの事を言っていたかもしれない。

だけれど、学が前を向いたのに、僕が前を向かない理由なんてどこにもなくて。

ただ漠然と惰性で、無理だと思ってやっていた、

研究が――

知識が――

初めて血となり肉となり。


――僕の身体を巡っていくのを実感した。


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