第5話 旅立ち

 ゴブリンの差し出す食べ物を、口にしてはいけない。


 これは人間の子ども達がみんな、言い聞かせられる訓戒だ。

 更に言うと、ゴブリン・マーケットに入ってはいけない。

 その商店に入ったら最後、ありとあらゆる手段を使って口の中を食べ物まみれにされる。


 リンゴにマルメロ、レモンにオレンジ、無傷のむっちりしたチェリー、メロンにラズベリー。貴重なケーキやクッキーだってある。


 いやいや、毒なんて、入ってやしない。

 ただ、魔力がこめらているだけ。

 美味しい、美味しい、ゴブリンの食べ物。


 一度口にしたら、もう人間の料理なんて食べられない!


 ゴブリン・マーケットに入った夜以降、子どもたちはお母さんのお手製シチューに手を付けなくなる。とっておきの肉料理に顔を背ける。そして腹が鳴るのを感じながら、毎晩毎晩、ゴブリンたちが来るのを、虚しく空しく待ち焦がれる。


 そしていつの日か、餓死してしまう。


 ゴブリン・マーケット。

 いたずら好きのゴブリンたちの所業の中で、もっとも人間たちに恐れられる慣習だった。


 だが。


 食べ物を歪めるほどの強力な魔力。

 そんな大層なものを、今の衰退しきったゴブリンたちが持ち合わせているはずもなく。

 ノコギリ山ではただ一人、アケビばばと呼ばれる、痩せぎすの老婆だけが、その古の呪術を使うことができるのが現状だ。

 その細い手足では三日月の夜を出歩くこともままならず、しわくちゃな顔は子どもらに怖がられ、マーケットは閑古鳥が鳴くようになっていった。


 それで数年前から仕方なく、ゴブリン相手の商売をはじめた。

 洞窟の奥、ほそぼそと食堂をきりもりしている。


 そんなアケビばばの食堂。

 ふたりの客が向かい合ってテーブルについていた。


 小柄なゴブリンと、雌のコボルト。

 ザクロとリンリンだった。


 ふたりとも無言でうつむいたまま、時が流れるのに身を任せている。


 アケビばばは店の奥の卓子に肘をつき、そんなふたりを眺めていた。

 いつも勇敢で威勢のいい小柄なゴブリンが、思い詰めたような表情を浮かべている。

 隣のコボルトはケガだらけ。そもそも闇に不慣れなコボルトがこんな洞窟深くまで訪れること自体が珍しい。


 ――こりゃあ、外で何かあったね。


 アケビばばはそう察し、重い腰をあげた。

 ふら、ふら、と左右に揺れながら、ふたりの座るテーブルへ近寄る。

 そして棚にあったリンゴをひとつ掴むと、ザクロの正面に雑に置いた。


「しけた顔だねえ。辛気臭くてかなわんよ。これでも喰いな。口動かしてりゃ、言葉のひとつくらい思い出すだろうよ」




 ザクロはようやく顔をあげた。

 枯れ木が降ってきたのかと思った。

 アケビばばの腕だった。


 目の前にリンゴが置かれている。

 色が悪く、しわしわのリンゴだ。

 食べ頃はとっくにすぎている。


「あの……」

「いいよ、今日は奢りさ。いつもたくさん鉱石くれてるからね。アタイだってケチじゃない」


 気持ちだけを受け取ろうとしたザクロの魂胆は、食い気味にねじ伏せられた。

 観念して、リンゴをかじる。


 音がしない。

 味もしない。


 しゅわしゅわと泥を撫でるような感触。

 早々に退散させたくて、ザクロは一気に飲み下した。


 二口目を躊躇ちゅうちょしていると、隣にもどん、としわくちゃリンゴの置かれる音。


「あんたも喰いな」


 アケビばばが、覗き込むようにリンリンへ囁いた。

 形容しがたい容貌のリンゴと婆。

 警戒しているのか、コボルトのよく利く鼻がすんすん動いている。


「安心しな! 魔力なんて籠めちゃいないよ。ただ不味いだけの、普通のリンゴさ。もうアタイも若くないからね。呪術を使うのはとっておきの時だけ。ゴブリンの敵に喰わせなきゃならない時だけさ」


「敵って?」


 二口目をなんとか飲み込んで、ザクロが訊く。

 隣でリンリンが覚悟を決めて、リンゴにかじりついた。


 アケビばばは再び卓子にひじを突いた姿勢までゆっくりと戻ると、不気味に笑った。


「人間さ。それに、人間に味方する裏切りものの魔物たち。連中にはしっかりと、苦しみを味わわせてやらないとねえ」


 ごくり、とリンリンののどが鳴った。



 

「すまない、リンリン。ゴブリンたちを動かすことができなくて」


 アケビばばが肘ついたまま寝息をたてはじめたのを確認して、ザクロは言った。

 口の中を不味まずいリンゴの匂いが漂う。


「問題ない。もともと、無理。お願い。ザクロ、がんばった。くれた。勇気、もらった」


 リンリンも口を押さえつつ、言った。

 言葉どおり、目元に勇気が光っていた。


「いや、決めたよ、リンリン。俺も行く。一緒に戦おう、レッドキャップと。リンリンの仲間を助けよう」


 ザクロは覚悟を打ち明けた。

 リンリンは驚く。


「なぜ」

「俺ひとりが加わったって、大した助けにはならないだろうけどな。でも、まあ、いないよりはマシだろ?」

「ちがう、なぜ。死ぬだけ。リンリン、間違ってた。助け、求める、間違ってた。ザクロ、死ぬ、いけない」

「レッドキャップは、次にゴブリンを襲うだろう?」


 推測を投げかける。

 リンリンが言葉を失うのを見て、ザクロは続けた。


「レッドキャップの儀式は神聖だ。満月の晩ごとに、必ずやらなきゃならない宗教的祭事だ。人間を襲い、殺し、血で帽子を洗う。じゃあ殺す人間がいなくなったら? 人間たちが滅んだり、逃げ出したりしたら? 決まってる。次に狙われるのはゴブリンだ。洞窟から逃げるに逃げられない闇の住人たちだ。レッドキャップよりも弱い魔物たちだ。わかるだろう? 今回立ち向かわなくても、いずれ俺たちは滅ぼされるんだ」


 沈黙がふたりを包んだ。

 絶望を目の前に、ザクロの意思は固まった。


 小さな勇者は決意を胸に、ツルハシを担いだ。


「それに、もう一個、とっておきの理由があるぜ」


 リンリンに手を差し伸べる。

 リンリンがそっと、握り返す。


「一度、外の世界を見てみたかったんだ。ゴブリンの知らない、昼の世界を」



 カンカァン! と叩岩音ノックが響いた。

 地面から細い少女の腕が生える。


「モモ!?」


 ザクロが叫ぶと、モモの手が上下に振られる。

 後ろから、アケビばばの寝言が聴こえた。


「お前もついてくるっていうのか?」


 ザクロが尋ねる。

 カカカカァン。同意の音が返ってくる。


「外の世界はノームの恩恵も届かない。洞窟と違って、岩の中を泳ぐのも難しい。姿を見せなきゃいけないかもしれないぞ、それでもいいのか?」


 モモの手はワタワタと慌てた後、戸惑い気味に親指を立てた。



「ザクロ、さっきの話は本当か?」


 別方向から、声。

 ボンタンだった。モモが連れてきたらしい。


「レッドキャップは、次に、人間たちの次に、ここを襲うのか?」


 泣き出しそうな顔を懸命に厳しく保とうとして、表情筋が震えている。

 平べったい頭が、汗に濡れていた。


「それ以外に考えられるか? やつらにとって、人間もゴブリンも関係ない。血だけが、目的だ」


 ザクロは、ボンタンの汗をぬぐってやりながら答えた。

 敵視せずに友人のトーンで会話するのは、久しぶりだった。


「俺も行くぞ、ザクロ」

 ボンタン、震えながら。

「か、勘違いするな、人間の味方、するわけじゃないからな! お前が、と、父ちゃん――大王の、不利益になる行為をしないか、監視、そう、監視だ! お前を監視するために、ついていくんだからな!」


 ザクロはふっ、と鼻から笑みを漏らした。

 臆病者で、見栄っ張りで、家族思い。

 昔の友人が戻ってきたように感じた。



「おーーーーーーーーい、待ってよーーーーーーーーう、置いていかないでよーーーーーーーう」



 遠くから、間の抜けたハッサクの声が響いた。

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