第一部 安針 第三章 始末事始 ②

 黒田屋にいる兄に相談すると言い残し、鷺庵は出かけていった。残された安針は、「始末」のために使えそうな手だてについて工夫しながら、留守を守っていた。合気道以外では、鍼医としての知識と、小石を動かす程度の「念動」くらいだ。裏庭であれこれ試していたが、師匠のことがそろそろ気になってきた。患者は断っていたからいいものの、十日も帰ってこないのはどこか変だ。


 食事の世話に来てもらっているお兼さんに、しばらく家を空けることを伝え、安針は様子を見に行くことにした。黒田屋の店先で出迎えたのは、手代の利吉。今年で二十二になる利吉は、九つで奉公に上がった時には利松と呼ばれていた。丁稚が「~松」で手代になれば「~吉」、番頭で「~助」と変わるのは、他の商家と同じだ。主は代々「~右衛門」とくるのが、黒田屋のしきたりである。久しぶりに会った利吉は、手足がひょろりと長く、背丈が安針より頭ひとつ高かった。


 裏の仕事を受ける話は伝わっているはず。いったん家を出た安針が、店のお坊ちゃんとして歓迎されるわけでもなかろう。師匠が話を通したとはいえ、どこかで力量を試してくるはずだ。案内されたのは、子どものころ寝起きしていた部屋。母屋の奥にあって、縁側から裏庭に出れば、目の前は、商売道具を仕舞い込む土蔵である。案内した利吉は、

「しばらく待っちょってください」

とだけ言い残して席を外した。立ち振舞いが堂に入っていて、余計な物音を立てない。ずいぶん遣えるようだ。しばらくすると、兄の清太郎が顔を出した。

「平太郎、久しぶりじゃな」

「兄さん、ご無沙汰です」

「鷺庵先生から聞かされた。本当にいいとか?」

まっすぐな物言いだ。昔から変わらない。安針は、返事をする代わりに尋ねてみることにした。

「腕を、確かめなくていいとですか?」

兄の目から表情が消えた。


 値踏みするような視線だ。無理もない。失敗の許されない仕事を、簡単に任せることはできない。まばたきもしないまま、

「ついてこい」

と、唇が動いた。


 裏庭から土蔵に向かう。手燭で中を照らしながら、中央の大樽に梯子をかけた。安針が子どものころ、中身が気になってたまらなかったヤツだ。蓋は、中央に蝶番がついていて、手前に取っ手がつけてあった。開くと、遥か下まで続く急勾配の階段が作られていた。


 黒田屋は、城下から離れた町外れの丘にある。上士や中士の屋敷の集まる区域と、商家の界隈の中間地点だ。ここから西に向かえば西海寺。鷺庵の診療所が見える。土蔵の裏は竹林がちょっぴりあって、崖下は川の流れだ。少し下れば藩一番の大河・幸川(さちがわ)。土蔵の地下は、崖下の洞窟に通じているらしい。洞窟の奥を整備して、神棚を設えた板張りの部屋ができていた。


 兄・清太郎は、神棚を背に座った。先に来て一汗かいたらしい利吉が、部屋の隅に控えている。通風の工夫があるらしく、岩がむき出しになった壁の蝋燭が、炎を揺らしていた。

「利吉が相手する。おまえの腕、見せてもらう」

木刀を手にした利吉が、ゆらりと立ち上がった。


 安針は、両手をだらりと下げて足を肩幅に開き、利吉に体の正面を向けていた。掌は後ろに向け、手の甲を利吉に向けたまま、肩の力を抜く。利吉は腰を落として居合いの構えを取った。かなりの間合いがある。


 ふいに歩き出した安針を見て、利吉は虚をつかれた。歩きながら自然に振り出す右手から、細く銀色の筋が走る。利吉の顔が歪んだ。利吉の右手首に、縫い物に使えそうな細い針が刺さる。安針は一呼吸で間合いを詰め、利吉ののど元に太めの針を突きつける。

「そこまで!」

兄の声が響いた。安針はするすると下がり、片膝をつく。利吉が、痛みをこらえながら一言

「お見事」

と呟いた。


 安針はすぐに針を抜き、手当てを施した。最小限の道具は、風呂敷に包み持ち歩いている。小石を念動で扱うことを思えば、針を飛ばすのは何の苦にもならない。針を手裏剣代わりに使ったように誤魔化した。合気の技に手裏剣術はない。手裏剣を打つ動きと違ったからこそ、利吉は反応できなかった。重い物は動かせないが精密な操作はできる。経穴を狙う念動の針は、「始末屋」としての切り札になる。とどめは自分の手でということになるだろうが、刀を振り回す侍の相手はとりあえずできそうだ。

「生かすも殺すも針ひとつじゃな」

兄は、弟の力量を認めたようだ。そのまま父に挨拶をと思っていたら、鷺庵先生と二人して雲隠れだという。つくづく縁がないらしい。一晩泊めてもらい、安針はいったん帰ることにした。

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