第一部 安針 第三章 始末事始 ①

 伊納藩五万七千石。前世の九州南部のこの時代にはなかった藩だ。伊納という姓自体が珍しい。前世の記憶を持って生まれた安針は、周囲を透視で確認しながら暮らしてきた。ここは前世から見れば並行世界。確認したいことが多すぎて、自分が「観」たいものしか見てこなかったのかもしれない。

 自分の家に、よそとは違うところがあろうなど、安針は気づこうともしなかった。思えば、近世の商家の子弟が熱心に剣術を修行すること自体が不自然だ。少なくとも親が勧めることなど、ありえない。黒田屋の跡継ぎに剣術が必要な理由を、よく考えるべきだった。家族のことを、他人である鍼の師匠から聞かされるとは思わなかった。「透視」なんて能力があっても、それを使いこなせなければ何にもならない。


 師匠である鷺庵自身も、黒田屋と深い関わりがあったらしい。安針の父とは、ただの碁敵ではなかったようだ。

「古着屋っちゅうは、他人の家に深入りしやすい商売じゃ。要らん着物を引き取るときは、その着物から元の持ち主のことが分かる。古着を購うときにゃ、どんげな古着が要るのか尋ねて、そのときの暮らしが分かっとじゃ」


 二代目・宗右衛門は、手堅く商売をしたいがために、そうやって聞き集めたことを克明に記録していた。特に髪結いの亭主の噂話や銭湯帰りの客の会話は、わざわざ店の者を使って集めさせていたという。

「乾物屋の若旦那の行方が分からんごつなってな。大騒ぎになった。宗右衛門が聞き書きしちょった帳面がきっかけで、居場所が分かった」

髪結いに来ていた娘の惚気話に、くだんの若旦那が出てきたことがある。そのときの話がきっかけで、二人で駆け落ちしようとしていたことが分かったのだという。


 評判は、藩の役人の耳にも届いた。黒田屋に、同心や与力が顔を出すようになるのは、むしろ当然だった。

「そんげしちょるうちにな、今の殿様が跡目を継ぐ時、騒動が起きた」

病弱な兄と健康な弟。能力の差は無かった。長子相続の原則をふまえるなら長男が跡を継ぐのが正しいはずだ。先君も、兄が継いで弟が補佐するよう明言していた。だが兄君の病を気にするあまり、家中は二つの派閥に分かれた。

「弟君はな、兄君を立てて補佐役でいいっちゅう気持ちでおられた。じゃが、兄君側の派閥は、弟君側の派閥が激しゅうなるとを恐れたのじゃ」


 静観していれば、兄君がそのまま跡を継ぐはずだった。だが兄君の派閥は、弟君に毒を盛ろうと画策した。

「御典医を巻き込んで毒を用意するいうてもな、毒はひそかに買わねばならん。そうした売り買いの話が、宗右衛門の耳に入らぬはずがなかろうて」

宗右衛門の聞き及んだ毒の話が、城でどのように扱われたのかさだかではない。分かっているのは、その後兄君の容態が急変してお亡くなりになり、弟君が跡を継がれたという話だけだった。

 ここまで話した師匠は、居住まいを正した。

「毒を防いでくれた黒田屋を、今の殿様が悪いように扱うわけがない。だが毒の話は誰にも言えぬ。公儀に知られてしまえば『お取りつぶし』になるわい。この件以来、黒田屋は殿の側用人の命を受ける密偵『耳目』として、藩に仕えることになったとじゃ」


 黒田屋が藩の『耳目』として使われるようになると、当然ながら妨害されることもある。必要に迫られて自衛の手段を手に入れたのは、自然の成り行きだった。黒田屋の者が通う道場は、藩で一番大きな「心月館」。侍と肩を並べて修行している不自然に気づかないのはうかつだった。

「宗右衛門はの、『腕利き』を使いこなすのが上手な男じゃった。『耳目』として動いておると、どうしようもないことで泣きを見る者の声が聞こえてくる。それをうっちゃっておくと、ゆくゆくは藩の御政道も揺らぎかねぬ。泣きを見る者のため、自衛のための力を使って何が悪い。時には侍の命を絶ったこともある。それが黒田屋の『始末』じゃ」


 役人が扱わぬ厄介事を引き受け、時には死をもって解決する「始末屋」。侍の「切り捨て御免」ほどではないが、黒田屋による「始末全構無(しまつすべてかまいなし)」という暗黙の了解は、時として藩の治安を守ってきた。「始末屋」とは、元来「倹約家」もしくは「遊女屋で無銭遊興した客の代金取り立て業」という意味。伊納藩では、服の倹約に通じる古着屋と、もめ事の後「始末」の両方の意味をこめて、「始末屋」という言葉が使われている。


 だが一方で、闇の手駒として使い捨てされぬよう、やんごとなき皆様とのつきあい方を工夫する必要もあった。二代目宗右衛門の代で組織を整え、藩主の側用人の命を受ける傍ら、自らも城下の様子に目を光らせているのはそのためだそうだ。ここまで聞いた安針は、今更ながらのことを尋ねた。

「ってことは師匠、清太郎兄さんは・・・・・・」

「おお、『始末屋』のことも引き継いでおる」

前世の記憶で周りより賢いつもりでいても、結局安針は「子ども」だった。鷺庵は、安針に迫った。

「われ(おまえ)の体術は、『始末』の仕事に使える。母親の命と引き換えに産んでもろうて、それでも汚れ仕事がしたいか?」


 安針自身、どうしてあんな返事をしたのかよく分からない。魂でいたころの様子を思い浮かべながら、

「死ねば皆『ほとけ』でございます。成仏させてやるのも、功徳でございましょう」

と答えていた。あえて訛のない言い方である。

「小賢しい物言いじゃが、これも血筋か。宗右衛門じゃのうて、清太郎に繋いでおく。折を見て顔を出しとけ」

鍼医の安針は、この夜から始末屋・安針になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る