「タツナミさん……はいらっしゃいますか」

 森谷がドアを開けてカウンターに顔を出すと、ウェイトレスがほほえみ、「お知り合いの方ですか。お先にお待ちですよ」と奥の席へ彼を案内した。紺色のソファーにはおとなしそうな、おかっぱの少女が座っており、森谷の足音に気づいたのか顔を上げた。丁寧に切り揃えられた黒髪がふわりと揺れる。

「こんにちは、タツナミさんだね?」

「はい。こんにちは、先生」

 ソファーに腰掛けた後、頼りなさげに目を泳がせる森谷。白いワンピースの裾を、同じように白く透けるような手でぎゅっと握りしめてうつむく少女。少しの間二人は言葉を交わすことなくぎこちない様子で座っていたが、先に沈黙を破ったのは少女、立浪未海の方だった。

「ええと、あの、ありがとうございます。話をしたかったのは本当なんですけど、まさか来てくださるとは思わなくて」

「いや、作者本人の意見には興味があるからね」

「とても嬉しいんです。あたし、ずっとモリヤ先生の大ファンで。この間の『さざなみ』も買いました。同じ三十一字でも、先生の句は響きがなめらかで、言葉の選び方も斬新だし……それから、若いのに賞をいくつも持っていらっしゃ

 るし、あの、どうしよう、顔を見たのは初めてだし、緊張してしまって」

「そんなに慌てないで」

 落ち着かなさを感じた森谷は、親指と人差し指をフレームに添えて、下がりかかっていたメガネを掛け直した。

「何か頼もうか。何もなしに長居するのはよくないから」

 森谷はテーブルの端にあったメニュー表を手に取り、中身をちらりと見てから未海に渡した。

「ぼくはアイスコーヒーにするよ。きみは?」

 そう森谷が尋ねると、

「クリームブルーソーダにします。ここの名物なんですよ」

 と、未海が答え、嬉しそうにほほえんだ。

 注文をウェイトレスに頼んだ後、二人の空間にまた静けさが訪れた。森谷は静かに膝を叩きながら(不安を感じているときの彼の癖である)うろうろと目線をさまよわせる。未海は机の下で両手を組み合わせたり、離したりを繰り返している。リズムを刻みながら目を泳がせる青年と、うつむいて手遊びに没頭する少女。滑稽な二人組を、アンティーク調のランプはあたたかく見守るような光で照らす。

「それで……ぼくの評は君の考えとは合わなかったようだけど、本当はどんなことを思って作ったんだい」

 今度は森谷が口を開いた。

「あれは愛情とか、気持ちとかの、何か見えないものの比喩ではなくて、ほんとうのことです。あたしの身体の中に『海』があって、ときどき暴れ出すんです」

 未海は自分の腹にそっと手を置いた。森谷はいぶかしげにその様子を見つめる。

「その中に海水が入っているということか?」

「いいえ、海の水かどうかは分からないけれど……舐めてみたこともないし。でも、あたしは『海』と呼んでいます」

 森谷は腕を組み、首をかしげた。未海はそれに気づき、ワンピースの裾をぎゅっと掴んで身体をこわばらせた。

「ええと、どのように『せまり来る』のかな」

「水色の雫がこことか、ここから漏れてきたり、こうやって……白い波が飛び出してきたり」

 未海は小さな身体を懸命に動かし、身振り手振りでなんとか表現しようと試みた。森谷は眉にしわを寄せて「うーん」と、唸った。確かに、まじめな表情や口調から、彼女が嘘をついているようには思えない。しかし、こんなファンタジーのようなことが現実に起こるとは考えがたい。

(彼女はきっと、そう思い込んでいるだけなんだろうな。思春期特有の病か何かにかかっているのかもしれない)

 目の前の男に病気だと思われている、などと夢にも思わない少女はうつむいて、静かに手を組んだ。

(どうしたら先生に分かってもらえるのかしら)

 そのとき、重ねられた白く小さい手に影が落ちた。

「おまたせしました。ブルークリームソーダとアイスコーヒーですね」

 ウェイトレスが森谷の前にアイスコーヒーを、未海の前にブルークリームソーダを置く。白いソフトクリームがランプに照らされてつやつやときらめく。

 青いソーダの中で、しゅわりと音を立てて泡が昇っていく。

 未海はこの爽やかで美しい飲み物を前にして、目をきらきらと輝かせた。

 深海のように暗く濃厚な青、視線を上へ、上へと滑らせていけばそれは薄い水色へと変化し、一番上にはソフトクリームが白波のようにうねる。そこから伸びたストローの先には海の世界を壊すように唐突な赤で彩られた唇。森谷は思わず目を逸らした。

「先生、どうかしましたか」

「いや、別に……それ、きれいな青だね」

 森谷の答えに未海の顔がぱっと明るくなる。

「そうですよね。このお店、『深縹こきはなだ』って名前の通りに青い物を揃えているんですけど、みんなとてもきれいなんです」

 森谷はあたりを見回してみた。

 テーブルクロスは、ペルシア絨毯を思わせる鮮やかな青色の繊細な模様だ。見上げれば、清々しい青空を描いた油絵が飾られている。カウンターには、白地に青い絵付がされた陶器、海水を汲みそのまま固めたような淡い色合いのグラスなど青い小物がごった返している。客のもとには、涼しげな瑠璃色の羊羹、みずみずしいブルーベリーのタルト、艶めく宝石のような浅葱色のゼリー、と青色の食べ物の数々。

 この鮮やかな青の空間に圧倒され、目を丸くしている森谷に、未海はくすっと笑って、

「ここにもありますよ」

 と、テーブルの隅に置かれた花瓶を優しく叩いてそう言った。

 花瓶には水色の小さくかわいらしい花が挿してあった。細い五つの花弁を持つ、繊細ながらも凛とした佇まいだ。

「かわいい花だね。何ていうんだろう」

「ブルースターです。あたし、この花がとても好きで。『こきはなだ』は一年中青い花を飾っているんだけど、ブルースターは今の夏だけなんです。他の季

 節のヒヤシンスとかキキョウもきれいだけど、青というより紫じゃないですか。こんなに鮮やかな水色の花はめずらしいと思います」

「へえ……」

 森谷はもう一度ブルースターに目を向けた。その硫酸銅のような澄み切った水色は、雲一つない爽やかな快晴の空、リゾート地の輝かしい海といった美しく広大な情景を思わせる。

 そのとき、同じような水色のものが花瓶の中にゆっくりと落ち、やわらかな渦を描いて広がった。ぽたり、ぽたり。次々とそれは落ちて水中を青く染めていく。

「ここ、少し暑いですね」

 そう言って困ったように笑う未海の頬を、水色の液体がするりと伝ってテーブルに落ちた。

「た、た、タツナミさん、顔!」

 森谷の上ずった声に促され、美海は顔に手を当てる。青く濡れた指を見て、彼女は泣きそうな顔になった。

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