妄想のセカイ

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妄想のセカイ

カーテンの隙間から流れ出る朝日を目蓋の裏に感じながら、ゆらゆらと身体を揺さぶられる。

ゆりかごのような心地よさにたまらず寝返りをうてば、耳をくすぐるような囁き声で起床を促す声。


そうだな、遅刻はまずいな。

頭の片隅でそう過ぎるも、早朝の涼しげな空気と鈴鳴りのような君の声が未だ覚醒しない脳髄にまで染み渡り、いつまでもこの至福の時を享受していたい気持ちに駆られるんだ。


すると、少しだけ不満げな色合いを含ませた声で、再度の起床を促す言葉が部屋の中にしんしんと響き渡る。


わかった、ごめんよ。

遅刻はまずい。でも、彼女を怒らせるのはもっとまずい。

ただ単に、僕が彼女の怒った顔を見たくないだけなのだけれど。


カーテンの合間から漏れ出る日差しに若干の眩しさを感じながら、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと目蓋を押し広げてみると、視界いっぱいに広がる愛しの君の笑顔。


名前は――そう、深雪みゆきだ。


未だ頭の中に靄がかかったような状態で、起きてすぐにこの笑みを堪能出来るとは、これこそ新婚の特権なのかと、持て余しそうなほどの幸せを奥歯でしっかりと噛み締めながら、ゆっくりと身体を起こしてそのまま深雪の首筋に顔を埋める。


再び遅刻を懸念する言葉を囁いてくるも、どこか満足げな声色も含ませたその鈴鳴りに、胸の奥からさらに湧き出てくる幸せの波動を感じながら、ゆっくりと朝のひとときを過ごした。




顔にこびりついた眠気を冷えた水道水で洗い流し、リビングへの扉を開く。

ダイニングキッチンの隣には、二人で選んで購入した木製のテーブルが鎮座する。少しだけ丸みを帯びた角っちょが可愛いね、なんて楽しげに言い合ってたっけ。

こんがり焼けたトーストの香ばしいかおりと、香ばしさを少しだけ飛び越えた目玉焼きの焼け焦げた”匂い”とが、卓上を鮮やかに彩っていた。


料理が未だ上手くならないのも愛嬌のうちだなと笑いながら席についたところで、ふと、卓上にトーストと目玉焼きとミニトマトを乗せたプレートが一つしかないことに気付き、脳の奥底から名状しがたき寂しさがふつふつと込み上げてくるのを意識した。


思わず顔を俯きかけたその時、ダイニングキッチンからひょっこり深雪が顔を出し、ダイエットを行っている旨を告げるとともにぺろっと舌を出す。


なんだ、そういうことか。

そういうことだよな。

まったく、ダイエットするにしても朝食は摂った方がいいんだぞとか、僕も付き合うから一緒にダイエットメニューを考えようとか、他にも色々言いたいことが頭の片隅に流れていたけれど、その可愛い表情を見て全部吹き飛んでしまったよ。

君は昔からそういうところあるよな。可愛く見せれば僕が何でも許してしまうと思っている、そんなずる賢いところが。




未だフィットしてくれない憎き革靴とソックスの隙間にぐいぐいと靴べらを押し入れていく作業に没頭していると、パタパタと心地良い音色を奏でながら、深雪がやってくる。

以前は全くと言っていいほど意識などしてはいなかったのだが、このスリッパがフローリングを叩くサウンド一つ取っても、この上ない幸せのカタチだったのだと、改めてそう思い知らされた気がする。


玄関扉を開け放ち、ふと背後を振り向けば、ちょっとだけ頬を膨らませた深雪の顔が間近に迫っていた。

そのまま襟元に手をかけ、ネクタイの捻れを正そうとしてくれる。

その心意気は嬉しいというか愛おしいというか、なんだけれども、手先の不器用な彼女は余計にくしゃくしゃにしてしまうし、スリッパのまま土間を踏みならしているしで、そのどこか抜けた性格はいつまで経っても直らないなと、襟首をぐりぐり振り回されながらも口角を吊り上げてしまうのだった。


そんなひと悶着を終え、さぁ出立するかとなったとき、深雪の少し麗しげな視線が僕のそれと交わる。

あぁ、わかっているさ。

身長差約15cmのその落差を埋めるべく、身体を屈め、顔の高度を若干落とせば、目を瞑った深雪の美しい顔がすぐさま寄ってくる。

頬にやわらかな感触ひとつ。その温もりにえも言われぬ幸福を感じ取り、そんなぽかぽかした気持ちを携えながら、職場への道程を歩き出す。


ちょうど同じタイミングで出てきていたお隣さんが怪訝な表情でこちらを見ていた気がするけれど、幸せに満ち満ちたこの脳にそんな記憶が居座ることもなかった。




月明かりにうっすら照らし出された玄関扉を開くと、しんと静まり返った闇がその姿を現し、朝から晩まで蓄え続けた疲労感がずっしりと肩の上にのしかかったような錯覚を感じた。

半日前には確かに存在していた温かさはそこには無く、底冷えするようなフローリングの木目が、延々と続いているのではなかろうかと思うほどの暗き闇の中へと連なっていた。


なにを馬鹿なことを。

そんなわけがないじゃないか。

その奥にあるのは闇の果てなどではなく、家事の疲れから思わず居眠りしてしまった深雪がソファーの上で猫のように丸まっているに違いないさ。


そんな願望は虚しく、リビングに入り込んだ僕を出迎えたのは、ふっくら焼けたトーストも無い、ちょっぴり焦げた目玉焼きも無い、四辺に丸みを帯びた木製のテーブルと、部屋の中央で寂しげにその身を投げ出したソファーだけだった。


そんなはずがない。

そんなはずがないんだ。


そうだ、寝室だ。家事の疲れによる眠気を抑えきれなくなった深雪は、夕暮れ時に仮眠のつもりで潜り込んだ寝室のベッドでそのまま眠りこけてしまったんだ。

そうだ、そうに違いない。


このモダン風の木製テーブルも、ちょっとだけ奮発して購入した黒革のソファーも、二人で使うには少しだけ小さめな寝室のダブルベッドも、近所の家具屋で一緒に笑いながら買い揃えたんだ。

うん、そうだ。


ほんのちょっぴり不器用なその手先も、おおらかに見えて実は少しだけ意地っ張りなその性格も、大学時代に遠目に見て一方的に惚れ込んでいたその麗しき横顔も、全てそこに、僕の隣にあるんだ。

うん、そうだ。


いつの間にか荒げてしまっていた呼気をスローダウンさせ、気持ちを落ち着かせていけば、そこにあるべきセカイと姿が見えてくる。

寝室の扉がゆっくりと横にスライドしていき、そこには目蓋を擦りながら笑いかける深雪の姿が見えてくる。


なんだ、やっぱり寝室にいたんじゃないか。

まったく、驚かせないでくれ。

僕の心を激しく揺さぶらせた不平不満をぶつけたい気持ちがないわけでもなかったが、そのだらしなく頬を緩めたいたいけな笑顔を見てしまえば、そんな暗い考えなんて一切合切喉の奥に飲み込んでしまわないわけにはいかないじゃないか。


聞いてみれば、やはり家事の疲れから布団の中に沈み込んでしまい、そのまま寝過ごしてしまったとのこと。

やれやれ、その妙に抜けた性質はいつまで経っても直らないな。

その微笑ましさに一日の凝り固まった疲れを癒やされながら、仲良く夕飯の調理に取りかかるのだった。




ベッドサイドランプに照らし出されたあどけない寝顔を眺めながら、僕は幸せな時間を漂っていた。

心地良いリズムで吸って吐いてを繰り返す寝息に耳を傾けながら、この時が永遠に続けばいいなんて、そんな月並みな空想にしっとりと取り憑かれていた。


夕暮れ時に仮眠を取ったにも関わらず、横になった途端にすぐ寝入ってしまった。

よほど疲れていたんだろう。

いつもご苦労様。そして、ありがとう。

君が隣にいることで、僕がどれだけ救われているか、その感謝の言葉の羅列が口をついて出てしまいそうになったけれど、気持ち良さげなその寝顔を見てしまえば、そんなことも無粋に思えてしまった。


最後に、布団に沈み込んだその愛らしい横顔を軽く撫でつけて、寝室を後にする。

あのまま君の隣で眠りにつきたい欲も大きかったが、一日を締める日課だけは忘れないようにしなければ。


遠方より木霊する電車の音がかすかに響くリビングは、先刻よりも幾分かは生活感に溢れているように見えた。

その様子に言葉にならない不思議な満足感を抱きつつも、部屋の一角を目指して歩みを進める。

そこに、手狭な1LDKマンションの居間にも設置しやすい小型の唐木仏壇が、闇の中から浮かび上がった。


ベランダ向こうの常夜灯の光と、日々の記憶を頼りに線香をあげて、写真の奥のその笑顔をぼんやりと見つめる。


君がいなくなってどれくらいの時が流れたのか。

長かったように思うし、短かったようにも感じる。

けれど、今日も生きながらえることが出来たよ。

一人の部屋はまだちょっと寂しいけれど。

君と歩いた通勤路に足を踏み入れると、まだちょっと涙ぐんでしまうけれど。

あの頃と違って、ネクタイだけは上手く結べるようになったんだ。

上司には、ようやく社会人らしい見た目になったじゃないかと褒められたのだけれど、ちょっとだけくしゃくしゃになったネクタイが、今は少しだけ懐かしくも感じるんだ。

最近はあんまり泣くこともなくなったよ。

あまり泣いてばかりいると、しゃきっとしろと背中を叩かれてしまうような気がして。

就職活動がうまくいかないときに、君がそうしてくれたように。

だいじょうぶ、とはまだ言えないかもしれない。

まだまだ君に頼ってばかりいるのかもしれない。

でも、それでも、頑張るからさ。

頑張って生きていくからさ。


だから、もうちょっとだけ見守っていてください、”深雪”――




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