(4)

 それでもどうにか振り向いてもらえないかと考えてしまうのが、ひとの心の厄介なところだ。


 一〇年以上、初恋を大事に温め続けているのだから、そういった邪念が湧いて出てくるのは、自然なことだろう。


 血を遺すためだけの関係だと割り切れたのならよかったが、現実はそうそうまく運ばない。


 ガーネットと体を繋げるたびに、情が湧けばいいのにと呪いのように繰り返し思いながら、わたしはここにいる。


「お詫びってわけじゃないけど……」


 そう言って小さなバスケットを差し出せば、ガーネットはちょっとだけ目を丸くした。


 ガーネットは忙しい。今日だって仕事のあとに学園に顔を出したいからと、朝早くにせわしなく支度をしている途中だった。


 それをわかっているので、わたしはガーネットに押しつけるようにしてバスケットを渡す。


「サンドイッチ。ハムとチーズだけのやつだけど……」


 昼時に時間通りサンドイッチを口にできるかわからなかったので、ハムとチーズという、オーソドックスで、裏を返せば技巧を凝らす余地のない簡単すぎるチョイスとなった。


 ガーネットは両手でバスケットを持って、なぜかわたしと、手元にあるバスケットを交互に見やる。


「お昼食べ損ねるって言うから」


 言い訳じみた言葉を、絞り出す。


 ガーネットを思いやっての行動であるのは本当だった。しかしそこに、彼の気を惹きたいという邪念がひと匙もなかったかと問われれば、「ある」と答えるしかない。


 そしてガーネットがようやくひとこと。


「え、うれしい」

「え? そんなに?」


 礼くらいは言われるだろうことは想定できた。仮にサンドイッチがお気に召さなかったとしても、表面上はそんな顔をせず礼を言う。ガーネットとはそういう人間だった。


 しかし今のガーネットは、はにかむように微笑んで、「うれしい」ともう一度言う。


 わたしはなんだか、ガーネットと恋人になったかのような気持ちになった。それは、まったくの勘違いであるのだが。


 きっと、よほど昼に食事にありつけないのがつらかったのだろう。


 わたしはそう思うことで、勝手に舞い上がりそうになる心を押さえつけようとした。


「時間、時間」


 顔が熱くなりそうなのをどうにかこうにかこらえて、時計を指差してそう言えば、ガーネットはまたあわただしくして家を出て行った。


「お昼、楽しみになった。ありがとう」


 玄関扉を開けて今まさに出て行こうとしていたガーネットが、くるりとこちらを振り返る。バスケットをちょっとかかげて、そう言って微笑む姿を見て、わたしは言葉に詰まった。


 わたしにこんなにも優しいなんて、迂闊だ。そんな顔をされては、勘違いをして舞い上がってしまう。わたしが渡したのはバターを塗ったパンに、ハムとチーズを挟んだだけのものなのに。


 四六時中こんな態度でいたら、その気もないのに女のひとをたくさん惹きつけてしまうんじゃないか。


 ガーネットが職場でどうしているかは、もちろんわたしが知る由もないことだ。


 けれども学園でも引っ張りだこなのだから、職場でもきっとそうだろうということは、容易に想像がつく。


 ガーネットを見送ったあと、わたしは小さなため息をついた。そして、いつもより早く学園へ行く支度を始めた。


 足首の腫れはそれほど引いてはいないが、歩行に支障が出るほどのものではない。ただ、少し足を引きずることにはなっている。


「まったく、目が離せませんわね」


 学園で顔を合わせたアクアからはそんなお小言をいただく。


 けれども教室を移動するたびになんだかんだとわたしと歩幅をあわせてくれるのだから、素直じゃないだけなのだろう。それがちょっと面白おかしくて、ときどき笑いをこらえるのに必死だ。


「ローザは次は授業が入っていませんでしたわよね? カフェテリアででも待っていればどうですの?」

「うん、そうする」


 次のコマはアクアは授業があったが、わたしはフリーであった。アクアが言う通りにカフェテリアへ行って、次の授業の準備でもしようと考える。


 アクアと別れて中庭に面した渡り廊下を進む。どこか初夏の空気を含んでいるようなそよ風に、思わず足を止めた。どうやら授業が入っていない生徒のほうが珍しいらしく、中庭にひと影はない。もちろん渡り廊下の周辺も、しんと静まり返っていた。


「ローザ?」


 不意に名前を呼ばれて、反射的に振り返った。波打つブルネットが印象的な女性が、渡り廊下の出入り口に立っている。


 一瞬、だれなのかわからず、すわ不審者かと身構える。最高学年であるわたしよりも見るからに年上で、学生とは思えなかったからだ。そして講師にも思えなかった。


「ローザじゃない! 捜してたのよ?!」


 女性が駆け寄ってきて、わたしの名前を呼ぶ。そこでようやくわたしは、女性の正体に思い当たった。


「……ベリラ?」

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