Dancin' Glad

原城鯉一

Prologue

おれは、もう、踊らない

 もしも、この試合に勝ったら、おれは──。

 選手控え室とフロアをつなぐ薄暗い通路の天井を見上げ、かみそうは、幾度となくはんすうしてきたを、もう一度、胸の内で唱えた。半年前、この試合に出場することを決めたとき、誰にも告げずに抱いた決意だ。その内容を頭の中に思い浮かべる度、ヤワな心臓は早鐘を打ち、手汗がにじんで視界がくらむ。この半年間、夜、布団にくるまって独りでガタガタ震えたことも、昼間、急に吐き気を催して公衆トイレに駆け込んだことも、一度や二度ではない。それほどまでに颯真にとっては恐ろしく──それでいて、捨てるわけにはいかない決意であった。

「緊張しているのかい、颯真」

 凛とした声に耳朶じだを打たれ、視線を右隣に向ける。相棒パートナーであるじょういんつきひめの、精悍せいかんな横顔がそこにあった。長いまつげ、カッと見開いた大きなまなこ、八重歯を覗かせる獰猛な笑み。かかる大舞台を前にしても、その顔に気負いや緊張のかげりは見て取れなかった。あるのは充溢した闘志と、自信、誇り、そして溢れんばかりのだけだ。『月下を駆ける美しき獣』。初めて会ったとき彼女に抱いたその印象は、四年の時を経ても変わらず、むしろますます月姫という人間の持つ特異な魅力を、的確に捉えたものになりつつあった。

「ひどく顔がこわばっているぞ。ダンスの基本は笑顔だと、教えてくれたのは君じゃないか。我々は、笑うかどにて勝利をつかむ」

 そうだろう? ──と、月姫が颯真に笑いかける。獣の迫力はそのままに、しかし思わず息を呑まされるような、妖しい色香をまとった笑顔。おぞましいほどの獣性と、深淵なまでの人間性が、月姫の中には同居している。この女は本当におれと同じ十二歳なのだろうか、と、颯真は思わずにはいられない。いつだって月姫は高雅で優美で超人的で、颯真の常識の埒外にいる。

(おれとは違う。違いすぎる。おれが相棒パートナーじゃなかったら、月姫は今ごろ、もっと……)

「──颯真。本当に大丈夫かい?」

「……おう」

 いま考えても詮ないことだ。集中しろ。死に物狂え。を、叶うならばために。颯真が無理やりながらも口角を吊り上げ、ぎこちない笑顔を浮かべた、その時―─

 

『只今より 全日本ダンス・スポーツ・コンペティション 小学生スタンダードの部 決勝戦を行います』

『選手、入場――』


 決戦の刻を告げるアナウンスが、フロアから通路へと飛び込んできてだました。颯真は自身の内側に、負けん気と緊張がない交ぜになった荒々しい竜巻が発生するのを感じ取った。竜巻は颯真にとって最も近しき隣人であり、最も忌むべき怨敵だ。平常心を削り取り、パフォーマンスの質を大きく下げる。テクニックでもフィジカルでもなく、メンタルこそが自分に何より足りていないものだと、颯真はよくよく痛感していた。だが、もはや竜巻が収まるのを待つ時間の余裕は残されていない。通路には決勝戦に出場する、八組のカップルが整列している。上ヶ谷・輝城院ペアは、その先頭だ。もう、歩き出さなければならない。颯真は月姫の左手をとり、グッと胸を張ってフロアへの一歩を踏み出した。

小学生リトル最後の試合──気張ってこう」

「──おう!」

 颯真の威勢のいい返答が、虚勢を張ってなんとかかんとか絞り出したものだということに、月姫は気づいているだろうか。


 ※ ※ ※ ※


『第八位――』

 ワルツ。三拍子のリズムで優雅に舞う、社交ダンスの代名詞。

 タンゴ。あふれる情熱に身をゆだねる、力強くスリリングなダンス。

 スローフォックス・トロット。ゆっくり、しっとり、妖艶に。

 クイックステップ。縦横無尽に飛び、跳ね、駆ける、ド派手なアップテンポダンス。

『第七位――』

 決勝戦で踊ったのは、以上の四種目だ。八組のカップルが同時にフロアの上に立ち、各種目二分、合計わずか八分の中に、己の持ち得るすべてを賭けた。

『第六位――』

 社交ダンスの評定において、どの技を決めたら何点プラス、ミスをしたら何点マイナスといったような、明確な基準は設けられていない。七名の審査員各々が独自の審美眼でもって各カップルに暫定順位をつけ、その結果を集計して、最終的な順位が決定される。

『第五位――』

 極端な話、たとえ審査員三名から最下位の烙印を押されたとしても、残りの四名が一位の評価を与えてくれれば、そのカップルは一位になれる。スケーティング・システムと呼ばれる、それが社交ダンスの一般的な採点方法だ。

『第四位――』

 もっともこのシステムには評価の客観性という点で問題があり、昨今はジャッジ項目を明確にした、新たな採点基準への移行が進められつつあ『第三位 上ヶ谷颯真・輝城院月姫ペア』


 ――だらだらと、とりとめのない思考を巡らせている間に、表彰式は終わっていた。三位。颯真と月姫は、負けた。


 ※ ※ ※ ※


「はっはっは! 無念だ! ついぞ小学生リトルの試合では、頂点に立つことは叶わなかった!」

 試合会場であった東京体育館メインアリーナから、輝城院家の送迎リムジンが待つ第一駐車場へと向かう道すがら。太陽はすでに彼方の地平線に没し、満天には街灯の明かりさえ霞ませる、煌々こうこうたる星々が瞬いている。月は真円。風はなし。ついさっきまでの熱闘が夢か幻だったのではないかと疑いたくなるような、おだやかでやさしい夜だった。月姫は豪放磊落ごうほうらいらく呵呵かかと笑い、敗北の余韻を吹き飛ばすように、諸手を開いて天を仰いだ。

「されど今宵の屈辱が、私たちを更なる高みへと押し上げる! この怒りも、哀しみも、すべては大いなる未来への助走に過ぎない! 昨日より今日! 今日より明日! 私たちは日々つよくなる! 十年後、英国ブラックプール・ダンスフェスタを席巻するのは私たちだ!」

 そうだろう、颯真? ――と、燃え立つようなオーラをまとった月姫の背中が問いかけてくる。その問いかけへの返答は、すでに肚の中で決まっていた。だが、それを口にするには、尋常ならざる胆力が要る。脳と心を整えるため、颯真はピタリと足を止め、大きく息を吐き、そして吸った。颯真の斜め前を歩く月姫はそれに気づかず、カッカッと、大仰にヒールを鳴らして進み続けている。

「悪い、月姫」

 ひどくかすれた声が出た。悪さをしでかして叱られた子供が、涙をこらえてたどたどしく『ごめんなさい』の一言をひり出すときのような、情けない声だ。

「その夢は、お前ひとりで追ってくれ」

 颯真の足が止まっていることに、月姫はその時ようやく気付いたようだ。立ち止まり、振り返り、颯真の顔をジッと見つめる。幾千万の星屑を宿す銀河のごとき月姫の瞳に、かすかに動揺の色が浮かんでいた。平素では決して見られない色だ。その動揺を引き出したのは、おれか――そう悟った瞬間、颯真は、自分が百万カラットのダイヤモンドを砕き割るよりも尚罪深い、最悪の愚行に及ぼうとしていることを自覚した。

「ふふ……? 理解しかねる言葉だな」

 人差し指でこめかみを叩きながら、月姫が口を開いた。

「社交ダンサーはふたりでひとり。病める時も、健やかなる時も、手を取り合ってで進んでいく。それが正しいカップルの在り方だと、教えてくれたのは君じゃないか。……それを、何だい? ひとりで? 私独りで、夢を追え? はっは、洒落のつもりならセンスがないな! 社交ダンスの世界において、独りの勝利などありはしない!」

 そうだろう、颯真? ――月姫の声が切なく揺れる。勘のいい女だ。これから颯真が口にしようとしていることを、すでに予感しているのだろう。そして、その予感は現実になる。

「カップルは解消しよう。……大丈夫。月姫なら、すぐに新しいパートナーが見つかるよ。おれよりも、ずっと優秀なパートナーが。ブラックプールは、そいつと一緒に目指してくれ。……おれは」

 半年前、全日本ダンス・スポーツ・|コンペティションに出場することを決めたとき、誰にも告げずに決意した。

(もしも、この試合に勝ったら、おれは中学ジュニアでも社交ダンスを続ける。胸を張って。前を向いて。月姫と、一緒に)

 けれど。

(もしも、負けたら、おれは──)


「おれは、もう、踊らない」

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