第59話 今すぐ合いませんか

 病室を出る。もう不思議と迷いはなかった。やることが決まって、景色が変わって見えた。

 やることが決まれば、あとは一直線だ。もう迷うことなんてない。実行するだけ。


 病院の外に出る。冷たい風が私の頬をなでた。今すぐ倒れてしまいそうなくらい体調は悪いが、そんなことはどうでもいい。


 まず、私は電話をかける。相手はエマさんだ。


青鬼あおきさん?』すぐにエマさんは通話に出た。『大丈夫? まだ私は駐車場にいるから』

「ありがとうございます」自分でも驚くくらい冷たい声が出た。「でも……大丈夫ですよ……私、行くところがあるんで」

『……青鬼あおきさん……?』エマさんの様子が変わる。焦ったように、『ちょっと……今あなた、どこにいるの? 早まったことは――』

 

 エマさんの言葉を無視して、私は電話を切る。私の異常はエマさんにも伝わったようだ。しかしここで止められるわけにはいかない。


 スマホに着信音。エマさんからだ。私が明らかに異常なのを察して電話をかけてくれているらしい。しかし出ない。出るわけがない。


 電話を切ろうかと思ったが、そうもいかない。まだ私にはやることがある。とりあえず着信音がならないようにだけ設定して、震える手でスマホを操作する。


 まるで何かの中毒者みたいだ。指が震えてスマホがうまく操作できない。間違った操作を何度も繰り返してしまった。


 今の自分の精神状態は危険だ。それは理解している。運動もしてないのに呼吸は乱れまくりだし、指先は震え続けている。常に嘔吐感があるし、今にも倒れそう。

 

 そこでようやく、ゆきさんの言っていた事の意味がわかった。


 私の自己肯定感は、相対的だった。かわいい後輩がいて、社内でも居場所がある。このままその平穏が続くという淡い期待。その上に成り立っていた自己肯定感だった。自分自身を愛していたわけではなかった。。


 だから、こうして揺らいでいる。かわいい後輩と、社内の居場所を同時に失ったから、私の自己肯定感はすべて奪い取られた。少し前のどん底の自分に戻っただけなのだが、希望があっただけダメージが大きい。


「勘違いだったんだ……」私はまったく定まらない足元で歩きながら、ブツブツとつぶやく。「私なんかが、平穏で普通の生活を遅れるなんて……そんなことを思うのが悪かったんだ……最初から、受け入れていればよかった」


 普通の生活が、できると思ってしまった。でも、そんなわけがない。私は疫病神だ。私は無能だ。私を慕ってくれた後輩は私のせいで死んだ。私が普通の生活なんて、不可能な話だったのだ。


 じゃあもう希望はない。今の私に残されているものは……たった1つしかない。


 そうだ。最初からわかってたじゃないか。決意したじゃないか。なのに欲を出すからこうなるんだ。最初から私には彼しかいなかったじゃないか。なにを私は勘違いしていたのだろう。

 

 不相応な幸せの夢を見た。これはその罰だ。私の身勝手な夢に巻き込まれてさくらさんは死んだ。本来ならこのまま責任を取って、私もその後を追うべきだ。


 でも……まだ私には1つだけ残されているものがある。その1つだけで良かったはずだった。それだけがあればよかった。一度はそれのためにすべてを捨てると決意したのに、揺らいでしまった。


 私はスマホアプリ、サントクを開く。そして目当てのページに行き着いて、必要事項を入力していく。


『今すぐ合いませんか』変換が間違っているが、どうでもいい。彼なら許してくれる。『今すぐ行くので、いつもの公園で待っていてください』

 

 それだけ入力して、送信する。むぎという名前といつもの公園……その情報さえあればきっと出会える。


 ……風光明媚で待ち合わせたほうが……いや、それはダメだ。あそこには赤星あかほしさんがいる。今の私が風光明媚に行って、赤星あかほしさんが見逃してくれるわけがない。


 とにかく、約束は取り付けた。あとは私がその場所にたどり着くだけだ。


みなとさん……」


 名前を呼ぶだけで、私の心が蘇ってくる。

 

 ……私は勘違いをしていた。


 私には、みなとさんしかない。一度気がついたことなのに、忘れていた。私が手に入れられるはずのない幸せにかまけて、本当に大切なものを見失っていた。


 みなとさん……私にはあなたさえいればいい。なにがあっても、私のものにしてあげる。

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