第51話 相対的

 風光明媚の店内はいつも通り静かだった。今日は私達以外に客がいなくて、相変わらず経営が心配な店だった。

 そんな店内で、私は言う。


「その……その人のことは好きなんだ。それは変わらないの。嫌いになるとか、そういうんじゃなくて……」

「……なるほどね……」ゆきさんは頷いてから、「薄れてきた?」

「薄れる……」その表現が正しいのかはわからないけれど……「……その人への想いが薄れたんじゃなくて……その……なんというか……」

「ほかが濃くなった」

「そう、それ」まさに的確な表現だ。「最近……仕事がうまくいってるんだ。生活習慣だって整ってきて、運動もしてる。スポーツ観戦とかも始めて……少し話したけど、後輩もできたの」

「頑張り屋で真面目でかわいい後輩ね」ゆきさんは笑顔で、「笑美えみが後輩さんのことを気にかけてるのは伝わってきてたよ。後輩さんのことを話してるとき、笑美えみは楽しそうだったもんね」

「え……あ、そう?」

「うん。後輩さんのことをとても大切に思ってるのがわかった」

 

 ……大切……そうなのだろうか。自覚はない。私は良い先輩ではない。ただちょっと……偶然さくらさんと関わっただけ。さくらさんにとって私は……代わりがいる存在なのだ。仕事内容について相談できれば、どの先輩でも良いはずだ。


 私からすれば、さくらさんはどんな人だろう。さっきゆきさんが言った通り、頑張り屋で真面目でかわいくて……優しくて面白くておっちょこちょいで放っておけなくて危なっかしくて……


 ……うん。私はさくらさんのことを大切に思ってるらしいな。それはなんとなくわかった。


 それを自覚した上で、


「その後輩の子がずっと頭の片隅にあって……放っておけなくて……その、私の想い人に使ってた時間を。後輩に使ってあげたいと思うようになったの」


 みなとさん探しに使っていた時間を、さくらさんに使うということ。

 ゆきさんが相槌を聞いてから、私は続ける。


「それで……後輩に時間を使いながら、想い人を追いかけようと思ったんだけど……前にゆきさん、言ってたよね。『ほかにやりがいとか、もう良いかなって思ったりしたら、ストーカー行為はやめて』って」

「そうだね」

「……今の私にとってのやりがいって……さくらさんなんだと思う」喋りながら、自分の考えがまとまっていく。「さくらさんの笑顔を見ると、私も笑顔になるの。本当にかわいくて……私のことを慕ってくれて……こんな気持ちはじめてで……」


 そのまま、私は勢いのままに続ける。もう想い人とか後輩とか、名前を隠すことも忘れていた。


みなとさんのことは好きだよ。感謝してる。あの人のおかげで私は、まともな生活を取り戻したの。みなとさんに恋をして、私の生活は改善されたの」


 みなとさん探しに出かけて散歩する。それがとても良い運動になった。みなとさんを探す時間を確保するために、押し付けられる仕事を断った。その結果定時で帰ることができて、余暇の時間が生まれはじめた。


 私の今の生活は、みなとさんのおかげで手に入れられたものだ。もちろんみなとさんはそんなことを知らないだろうけど、私のとっては大恩人なのだ。


 それを踏まえてでも、


「でも……でも……こんな私でも、まだ戻れるのかなって、思い始めて……」なまじ順調だから、夢を持ってしまった。「仕事して、運動して……趣味を持って……後輩と一緒におしゃべりして……そのまま年齢を重ねて……そんな生活に、戻れるのかなって、思ってしまって……」


 言うなら、普通の生活。その生活を、私が手に入れられる。そんな希望をいだいていた。


 私にはなにもないと思っていた。だからみなとさんだけが生きがいだった。みなとさんを失えば、私にはなにもないと思っていた。

 でも、今はどうだ。仕事だって順調で、後輩だっている。スポーツ観戦という趣味だってできて、散歩だってしてる。嫌がらせだってなくなって……まさに理想の生活をしている。


「今の生活を、失うのが怖くなって……このままみなとさんを追いかけ続けて、それがバレて……誰かに失望されたり、捕まったりしたら……今の私の生活はなくなっちゃう。だから……だから……」


 そのまま、私は結論を出す。この言葉を言うために、ずいぶんと遠回りをした。


「もう……みなとさんは諦めようかなって……」

「……なるほどね……」ゆきさんは私の言葉をしっかりと受け止めて、「それが笑美えみの選択なら、当然尊重するよ。むしろ、よく決断したと褒める」

「……ありがとう……」

「うん。でもね……1つだけ忠告」

「……忠告……」


 ゆきさんからの忠告。真剣モードのゆきさんの言葉は重みがあるから、心して聞こう。


「自己肯定感とか……自分に対する自分の感情を、相対的に決めるのは危険だと思うよ」

「……相対的?」

「そう……自分は他の人より優れているから、自分のことが好き。自分の今の生活は世間と比べて普通だから好き……そういった自己肯定感は、いつか崩れ去るものだから」

「……世間と比べるなってこと?」

「自己肯定感については、そうだね。想定的な自己肯定感は、不安定だから。環境が変われば、すべて変わってしまうから」


 ……たしかにそうかもしれない。たとえば『自分はこの中で一番強い』と思っていた人が大きな大会に出て、自信を打ち砕かれる。相対的な自信だったから、自分が実力下位の状態になれば、自己肯定感も下がる。


 今の私に当てはめると……たとえばさくらさんが退職してしまったら? やっぱり嫌がらせが再開されたら? 生活リズムが再び乱れ始めたら? そうなれば……今の私の自己肯定感は崩れ去る。今の私の自己肯定感は、砂上の楼閣というわけだ。


 それは理解できる。でも、


「じゃあ……どうすればいいの?」

「今の自分自身を、認めてあげて。仮に自分が最低な状況にいても、どんな失敗をしても、どんな困難が降り掛かっても……自分だけは自分を好きでいてあげて。自分を好きになる理由なんて必要ないの。ただただ、自分だからって理由で自分を愛していいの。周りと比べちゃうのは仕方ないことだけど……できる限り、自分を認めてあげて」


 自分を、認める……私を認める。私のことを私が好きになる。


 みなとさんにしてもらっていた肯定を、自分でするしかなくなる。他人が肯定してくれないのなら、自分で肯定すればいい。それしかない。


 とても良い話を、聞いたような気がする。だけれど……今の私には難しい話だ。自分自身を肯定するなんて、まだ難しい。


 でも……もう少ししたらできそうな気がする。自分自身を認めてあげて、絶対的な自己肯定感を得られる気がする。


 それくらい、今の私は調子が良い。この平穏が、ずっとずっと続いてほしい。そう心から願うことができる。

  

 ありがとうみなとさん。あなたのおかげです。そしてさようなら、みなとさん。

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