第41話 こっちのセリフなんですよ

「……」


 会場が静まり返ったのがわかった。その場にいる人間のすべてが私に視線を向けていた。結構盛り上がっていたから、関係がないはずの他の客まで私を見ていた。


 一瞬、なんで私に視線が向けられているのかわからなかった。だが、その謎はすぐに氷解した。


「あ……」


 私の手には、ビールジョッキが握られていた。それはさくらさんの手から奪い取ったビールジョッキ。ビールが大量に注がれたビールジョッキ。さくらさんを見ると、ビールジョッキは持っていない。やはり私の手にあるのがさくらさんが持っていたビールジョッキだ。


 ……どうやら私はさくらさんのビールジョッキを奪い取ったらしい。遅まきながら、そう理解した。


 しかも……いつの間にか私は立ち上がっていた。そりゃ立っている状態のさくらさんのビールジョッキを奪ったのだから、私も立ち上がらないといけないだろうけど……


「……」


 静まり返った会場の、全員の視線が私に突き刺さる。さくらさんが心配そうに私を見ていた。


 ……さて……どうしたものか。会社の伝統とやらを私は破壊してしまった。この状況をどうやって乗り切ればいいのか。


「あ、青鬼あおき……」少しずつ怒りという感情が増えてきた部長が、「お前……なにやってんだ? うちの伝統――」


 ああ、鬱陶しい。面倒くさい。なんだ伝統ってふざけんじゃねぇよ。


 フツフツと、怒りが湧いてきた。ビールジョッキを部長に向かって投げつけたいくらいの怒りだ。拳が震えてきた。


 今頃みなとさんを探しに行っているはずだったのに……もしかしたら今日は出会えたかもしれないのに。

 もしもみなとさんが今日、私が歩いているあたりに存在したらどうしてくれるのか。こんなクソみたいな飲み会でそのチャンスを逃していたらどうするのか。どう責任取ってくれるんだこの部長は。


 ムカつくイラつく腹が立つ。こんなにイライラするのは人生ではじめてだ。私のみなとさんとの出会いを邪魔しやがって。


「おい青鬼あおき……!」部長が顔を真赤にして、「お前なにしてんだ。俺はな――」


 聞きたくない。何を言おうとしているのか知らないが、部長の声が聞きたくない。


 かといって言葉で応戦したのではケンカになるだけ。かくなる上は……これしかない。


「な……」私の行動に、部長が息を呑んだ。「な、なんだ……?」


 そりゃ驚くだろう。私でも私の行動に驚いた。


 私は、ビールジョッキの中身を飲み始めていた。口の中にビールの味が広がって、喉が焼けるように熱かった。途中で嘔吐しそうになったが、なんとかビールジョッキの中身を全部飲み干した。


 そのままビールジョッキを叩きつけるように……置こうかと思ったが、ジョッキや机が傷ついてはいけない。ゆっくりと机の上にビールジョッキを置いて、


「……」なにを言えばいいのだろう。考えがあってビールを飲み干したわけじゃない。迷った末に、「……」


 何も言えなかった。相変わらず私は言葉が苦手だ。日本語という言語をうまく扱えない。


青鬼あおき……!」歯ぎしりが聞こえそうな勢いで、部長は私の胸ぐらをつかむ。「お前……なにしてんだ。せっかくの俺の楽しみを邪魔しやがって……!」


 いつもなら、ビビっていたと思う。恐怖していたと思う。目が血走っている男性の勢いに押されていたと思う。

 しかし、今の私の精神状態は普通じゃない。みなとさん探しを邪魔された怒りしかない。


「楽しみの邪魔……?」自分でも驚くくらい低い声が出た。「……こっちのセリフなんですよ……」

「……は?」


 部長には聞こえなかったようだ。まぁ関係がない。もう私は私の言いたいことだけ言ってやる。


「別に……飲み会の楽しさは否定しません。一気飲みで盛り上がる場面もあるかもしれません。でも……それを他人に強制しないでください」


 言い終わった瞬間、右頬に鈍い痛みが走る。そのまま吹き飛ばされて転びそうになるが、なんとかこらえた。


 ……頬がジンジンする。口の中に血の味が広がる。頭がフラフラする。


 どうやら殴られたらしい。いつもの私なら泣いていただろうが、今は怒りの感情しか湧いてこない。本当に私はどうかしてしまったらしい。


青鬼あおき!」部長の怒鳴り声がツバとともに飛んでくる。「お前は……!」


 ナイフでも持ってくればよかったと思いながら、私と部長の距離が一歩縮まったときだった。


「ストップ! ストーップ!」男性社員の一人が、部長を羽交い締めにして、「それくらいにしときましょうって……! ヤバいっすよそれは……」

「うるせぇ! 俺は……!」


 そのまま、部長は数人の男性社員に抑え込まれた。そのまま店の外に連れ出されて、とうぶんの間部長の怒鳴り声がお店の中まで響いてきていた。しかし、それもしだいに小さくなって、聞こえなくなった。


 ……どちらかというと暴走したのは私のほうだったんだけど……静止されるのは私のほうだったのだけれど……ナイフがあれば刺していたけれど。


 そして、また店内が静まり返る。


 ……正気に戻って、思った。


 やってしまった。


 いや……後悔はしていないけれど。反省はしている。

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