第39話 全員で行くぞ

 さて6時になった。最近の私ならこの時点で帰宅だが、今日はちょっと様子が違う。


 さくらさんは……まだ帰るつもりはなさそうだ。初日から残業とは素質がある。ブラック企業に潰される素質がある。


 私はどうしよう……さっさと帰ってみなとさんを探すか。それとも……少しの間だと割り切ってさくらさんを見守るか。


 迷っていると、


「よし!」部長が突然立ち上がって、「今日は新人もいることだし……飲みに行くか!」


 また部長がなにか言い出した。


 そういえば部長……飲み会が好きだったな。最近は会社が忙しくて鳴りを潜めていたが、今日は新人がいるという名目で飲みに行きたいらしい。1人でいってくれ。


 ……飲み会行くくらいなら帰りたいな……さくらさんの仕事を見守るという名目なら一日くらいみなとさん探しを中断するが、飲み会なら話は別だ。今の私の興味は、みなとさん、さくらさん、その他諸々のこと、飲み会、という順序である。


 飲み会なんて好きじゃない。むしろ嫌いだ。お酒も苦手だし会話も苦手。人混みも苦手なのに、どうして飲み会が好きになれるだろうか。


 だが、部長の中ではもう飲み会に行くことが決まっていたらしい。


「もう店は予約してある。全員で行くぞ」


 必要最低限の言葉で逃げ道を塞がれた。部長はいつもこうやって逃げ道を塞いでくる。

 今日は予定があっていけません、というと……こう返答されるのだ。『もう予約してある。店側に迷惑をかける気なのか』と言われてしまう。


 一人欠けたら、部長は飲み会をキャンセルすると言い出すのだ。そうなると飲み会が好きな人もいるし、なによりお店に迷惑がかかるのも本当のこと。


 だったら……行くしかないよな。適当に済ませて、傷が浅いうちに帰るしかない。それ以外に道はない。


 それがわかっているから、誰も反論しない。断っても無意味だという学習をしてしまっているのだ。


 ああ……みなとさんを探しに行きたいというのに。みなとさんのためならすべてを捨てる覚悟だったのに。まだ私はお店への迷惑とか同僚への配慮を考えてしまっている。


 ……私のみなとさんへの想いはそんなものなのだろうか。そう思った瞬間、ゆきさんの言葉が脳裏に蘇る。


『もしも、彼を追いかける以外の幸せを見つけたり……他のことにやりがいを感じたり……もう良いかなって思ったら、今の行為はやめてね。中途半端に追いかけるのは、誰も幸せにならないから』


 中途半端……そうなのだろうか。私のみなとさんへの恋心は……


「なぁさくら」私の思考を遮る、部長のデカい声。「今日はお前の歓迎会だ。存分に飲んで楽しめよ」

「え……あ、は、はい……」


 さくらさん……状況がわからず返事したって感じだな。ついさっきまで仕事に熱中していたようだから、飲み会に行くということも聞こえていなかったかもしれない。

 ……さくらさん大丈夫かな……お酒強いのかな。弱いなら、かなり苦しい飲み会になると思うけど。私がそうだったから。


 ……しょうがない……ちょっとくらい見守ってあげよう。どうせなにを手助けするわけじゃないけれど……見てるくらいは見ていてあげよう。場合によっては家くらいまでは送ってあげよう。


 ……今日はみなとさん探しはなしだな……はぁ……悲しい。


 そんなこんなで、開発部での飲み会が決まった。帰りの支度を整えるために、それぞれがロッカーに向かう。


 私はとある事情で雑巾を持って、ロッカーに向かった。


 ロッカールーム……男女で分かれているそれは服を着替える場所としても利用される。私は家からスーツで通勤しているが、人によってはこのロッカールームでスーツに着替える人もいるようだ。昔は制服が会社から支給されていたらしいが、最近では服装自由である。自由と言ってもスーツとか着てないと怒られるけど。


 狭いロッカールーム。『青鬼あおき』と書かれたプレートがはめ込まれたロッカーを開けると、


「……」

 

 思わずため息。まただ。またいつもと同じ状態。


 ロッカールームは水浸しになっていた。匂いからすると……今度はコーヒーだろうか。滴っている液体が黒いことを考えるとコーヒーだろうな。


 とくにリアクションもせず、私はその液体を雑巾で拭き取っていく。


 最近……この手の嫌がらせが増えた。理由はわからない。私がいじめられる理由なんて多すぎて、絞りきれない。トロいのがムカつくのかもしれないし、定時で帰り始めたのが気に入らないのかもしれない。仕事を押し付けられなくなって、イライラしているのかもしれない。

  

 背後から、クスクスと笑い声が聞こえる。しかも1人ではない。複数の笑い声。まさか社員全員が結託してるということはないだろうが、結構な人数が私に対する嫌がらせを行っているらしい。


 毎日毎日、ご苦労なことだ。私のロッカーにぶちまけるためだけに飲み物を買って、実際に実行する。なんともったいない。コーヒーくらい自分で飲めばいいのに。


 ロッカーは高頻度で水浸しにされるので、最近貴重品は手元に置くようにしている。ロッカーなんて濡れても困らないものしか置いてない。ロッカーから物がすべてなくなると別の場所に飛び火しそうだから、ダミーとしていくつか物を置いている。


 一応鍵はかけているのだけれど……ちょっと隙間が存在するロッカーなのだ。なんでロッカーには穴が空いているのだろう。中に入って外を確認するためだろうか。酸素を確保するためだろうか。わからないが、とにかく水をいれるのは容易なくらいの穴が開いている。


 ……ロッカーを拭き終わって、思う。


「……」


 さくらさんに見られなくてよかった。さくらさんはまだデスクを片付けたりしているので、ロッカールームに現れていない。だから、私のロッカールームの惨状は見られていない。


 ……気づかれるのも時間の問題だろうな。液体の量によっては地面まで滴っていることがあるし……このまま隠し通すことはできない。


 もしもこの状態を見られたら、失望されるだろうな。いじめられている先輩なんて、見向きもされなくなるだろう。


 ……それはそれでいいか。そうなれば、みなとさん探しに熱中すればいい。


 ……あーあ……人生って面倒くさいなぁ……好きなことだけして生きていこうと決意したのに……

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